第57話 略奪婚(2)
「くそう!」
アスランは剣を地面に突き刺した。
目の前には、黒装束に奪われた馬車が馬ごと置き去りにされていた。
乗っていたはずのオーロラの姿はない。
目の前で、守ると誓ったオーロラをさらわれた。
アスランは血がにじむほど唇を噛み締め、怒りと悔しさを味わっていた。
自分一人で行くとルドルフとアデルに宣言したのは、ただの甘えだったのではないか。
自分の力を過信し、状況を甘く見たのではないか。
アスランは後悔してもしきれなかった。
(オーロラ!! またあなたに怖い思いをさせてしまうなんて……!!)
アスランの目の前で、馬車はすべての窓とドアを開き、放置されている。
馬車の床に転がっているのは、オーロラに渡したステッキだった。
(オーロラ)
アスランがうつむいたその時。
「ラン」
静かな声がした。
シリュー侯爵家から駆けつけたダントンが、泥だらけのセイディを抱き抱えてやって来た。
アスランと辺境騎士団が倒した黒装束達はいつの間に全員消えている。
証拠を残さない。
恐ろしいほどに統制の取れた一団だ。
「落ち着けラン、恐らく奴らは———」
ダントンがためらった。
アスランも同じ意見だ。
「王家の『影』」
アスランがつぶやくと、ダントンもうなづいた。
『影』は王家に忠誠を誓う影の騎士団だ。
諜報活動や汚れ仕事を一手に引き受ける。
「あれだけの人数。一気に動かすとは尋常ではない」
ダントンがうなった。
ダントンは王宮での勤務を終え、シリュー侯爵家に帰宅したところだった。
セイディが戻っていなかったので、心配になり王宮への道を捜索しているところ、現場に居合わせたのだった。
セイディが涙ぐみながら馬車を覗き込む。
「オーロラ。どこへ行ってしまったの? わたくしだけを逃すなんて———オーロラ……」
セイディはそう言って馬車を覗き込み、座席に置かれた一通の手紙に気づいた。
「お兄様!! ランさん!!」
セイディの叫び声に、ダントンとアスランが駆け寄った。
「これを見てください! 座席に、手紙が」
アスランが慌てて手紙を受け取り、開封する。
「名前はない。しかし、何か書かれている。『ローリー嬢を傷つけることはしません。ローリー嬢を妻として迎えたい』」
「何だって!?」
「何てこと!!」
ダントンとセイディの兄妹が声を合わせ、セイディは手紙を覗き込んだ。
まるで女性の書いた文字のような、流麗な書き文字。
しかし、その筆は弱々しく、男性のものとは思えなかった。
セイディはじっと手紙を見つめる。
「もしかして」
セイディは言った。
「調べるだけでもできますよね? もしかしたら、わたくし、心当たりがあるかもしれません」
アスラン、セイディ、ダントン。
三人はまるで息が止まるような緊張感の中で、視線を合わせた。
「セイディ。話してごらん」
ダントンが妹の手をしっかり握った。
それからの短い時間の中で、アスランの心は決まった。
アスランは馬車の後部に作られている荷物入れを開いた。
そこには、横倒しになったものの、きちんとフタが閉まったままのカゴがあった。
三羽の白い鳩がククク、と喉を鳴らした。
どの鳩にも、足に複雑な編み方をしたヒモが巻かれていた。
よく見ると、編み方はそれぞれ異なっている。
アスランは一羽の鳩を選ぶ。
その足先に小さな筒を着けると、そのまま空に飛ばした。
白い鳩は、大きな弧を描いて、青い空へと吸い込まれていった。
***
その部屋の小さな窓からは、青い空が見えた。
オーロラは小さなベッドとテーブルが置かれた小さな部屋で、窓辺に置かれた椅子に座り、外を見つめていた。
オーロラが着ているのは、アデルに譲ってもらった乗馬服をアレンジした旅行着だった。
お気に入りの一着だ。
モスグリーンの長袖の上着に、ふくらみを抑えた、短めの丈のローズ色のスカート。
足もとはブーツを合わせて、動きやすい……はずだった。
しかし。
(これでは動きが取れないわね)
オーロラはため息をついた。
けして乱暴に扱われることはなかったが、その代わり、オーロラの片足にはきっちりとロープが巻きつけられており、そのロープはベッドの足につながっている。
浴室に行けるくらいの長さはあるし、手は自由なのだが、室内にはロープを切れるようなものはいっさい置かれていなかった。
そもそも、家具以外には何もないのである。
オーロラは馬車が停まった時の記憶をたどった。
ドアが突然開き、黒い布を頭から被せられた。
それで視界がいっさい効かなくなったのだ。
今、自分がどこにいるのか、オーロラにはわからなかった。
(でも、馬車に乗っていたのは、長くとも一時間くらいだわ。おそらくまだ王都の中なのに違いない)
オーロラは思った。
小さな窓の向こうには、建物が連なっていて、屋根の上にわずかに空が見えるのみ。
(昨日はもう暗くて何も見えなかったけれど。あの建物の様子は、やはり王都)
オーロラはそう確信した。
その時、ドアの鍵がガチャガチャという音とともに開き、一人の少女が入ってきた。
ほっそりとした少女で、柔らかなブルネットの髪を背中でひとつに結んでいる。
質素なドレスに身を包み、木製のお盆を両手で持っていた。
「しょ、食事を持って来ました」
オーロラはそのまだ子どものように見える少女に目を奪われ、囚われの身であることを忘れて、じっと見つめた。
「ひ」
少女がびくり、として一歩後ずさる。
オーロラははっとした。
とても内気な子なのかもしれない。
見知らぬ人のもとに食事を運んでくるなんて、さぞ緊張しただろう。
「ごめんなさい、じろじろ見てしまったりして」
オーロラは少女に話しかけた。
「わたくしはローリー。あなたのお名前は?」
すると、少女はまるで宝石のように大きな青い瞳で、まっすぐオーロラを見つめた。
「……アリアナ」
それはとても小さな声だった。
「兄に言われて、お食事を持って来ました。兄はノーラン。ヘルメス男爵家の、ノーランです。わたしは妹のアリアナ。で、でも、わたしは愛人の子です。義妹なんです」
アリアナはそう言うと、丁寧にお盆をテーブルの上に載せ、ぺこりと頭を下げると、急いで部屋を出て行った。
「ヘルメス男爵家の、ノーラン」
オーロラはつぶやいた。
「お茶会で、わたくしの名前を書く、と言いに来た」
オーロラはノーランを覚えていた。
『ローリー嬢、私はヘルメス男爵家のノーランと申します。カードには、あなたのお名前を書きます……私の気持ちです。もし、あなたも少しでも私にご好意があれば……ノーランです。ノーラン・ヘルメス』
オーロラはテーブルの上を見た。
お盆の上には、小さなティーポットと、受け皿の上に伏せたカップ。
熱い湯気が立っているスープと、丸いパン。
黄色いオムレツ。カットしたフルーツ。それに小皿に盛ったチーズが置かれていた。
食事は贅沢なものではないが、温かなものも用意してくれている。
それに、あっさりと兄の名前を教えてくれたアリアナ。
自由を奪われて部屋に閉じ込められているとはいえ、そこに悪意はあまり感じられない。
「いったい、どういうことなの……?」
オーロラの困惑は深まっていくばかりだった。
***
「ローリー嬢、ふたたびお会いできて嬉しいです」
オーロラの手を取り、金髪の青年はうやうやしく口づけた。
午後のお茶の時間である。
オーロラの閉じ込められている部屋のテーブルの上には、先ほどアリアナが用意してくれたお茶の支度が整っていたが、オーロラの自由を拘束している足のロープはそのままだ。
「ノーランさん」
オーロラが青年をじっと見つめながら言うと、ノーランはふわりと笑った。
「ローリー嬢。私の名前を覚えてくれていたのですね。とても嬉しいです」
「!!」
オーロラは息を呑んだ。
「……そんなことを言っている場合ですか? これはどういうことなのです? 説明してください」
ノーランはそっとテーブルに手を伸ばすと、ティーポットからオーロラのカップに紅茶を注いだ。
「どうぞ。ご婦人方に人気の香りのお茶です。お気に召すといいのですが」
「いいえ結構です。足にロープを着けて、優雅にお茶を飲む趣味はありません」
オーロラはそう言ってから、自分でもびっくりした。
いつから自分は、こんな直接的なものの言い方ができるようになったのかしら?
しかし勝手にさらわれて、自分の自由を奪われた今、令嬢らしく振る舞おうという気持ちは、オーロラにはいっさいなかった。
オーロラが無表情に答えると、ノーランは眉を下げた。
「……わかりました」
ノーランはうなづいた。
「ローリー嬢、これは略奪婚です」
「はい!?」
オーロラは目を丸くした。
「略奪……婚?」
「ええ。お茶会で申し上げたとおり、私はあなたが私の婚約者になってくれることを望んでいます。しかし、辺境伯のご縁者のあなたと、しがない男爵令息、しかも体の弱い私では、とても釣り合いが取れないでしょう」
ノーランはオーロラをじっと見つめた。
「それでも、私があなたを愛する気持ちは本物です。そこで、略奪婚を選んだのです。あなたを———勝手ながら当家に連れ去り、事実上の妻として扱います。その上で、辺境伯家に結婚の知らせを送るのです。既成事実があれば、辺境伯家とはいえ、あなたの将来を思えば、拒否はなさらないでしょう」
「既成事実……ですって?」
オーロラは険しい目でノーランをにらみつけた。
「それはどういうことでしょうか?」
「今夜、あなたに私の妻となっていただきます」
「———お断りします!!」
オーロラは椅子から立ち上がって叫んだ。
生まれて初めて、激しい怒りが湧き上がってくる。
目の前が赤くなり、頭の中がガンガンと鳴り響く。
「契約婚? また、わたくしの意志はなかったことにされるの? また、わたくしはまるで物のように扱われるの? まるで道具のように? 誰かの言いなりに? 女性の足をロープでつなぐことが、あなたの愛ですか? わたくしはあなたの婚約者にはなりません。わたくしはあなたの妻になりません、わたくしは」
オーロラは叫んだ。
「わたくしはオーロラ・フォレスティです。アレックス王子の婚約者として過ごし、夜会で婚約破棄された、フォレスティ伯爵家のオーロラです。でも、婚約破棄されたって、わたくしは何も恥じることがないわ。わたくしは、自分の人生を取り戻そうとしていたのに!!」
ノーランは自分の前に立ちはだかるようにして叫ぶオーロラを、驚いた表情で見つめた。
「ローリー嬢!? なんですって? あなたが、オーロラ・フォレスティ伯爵令嬢だと———」
オーロラは無言でブルネットの髪をつかみ、ぐいっと引っ張った。
ウィッグが外れ、豊かな白金色の髪が流れ落ちた。
オーロラのアイスブルーの瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「わたくしはオーロラ。オーロラ・フォレスティです。わたくしの人生はわたくしのもの。もう、誰の言いなりにもなりません」
ノーランは驚きのあまり、真っ青になった。
ローリー嬢が、まさか王子の婚約者だったオーロラ・フォレスティ伯爵令嬢だったとは。
「しかし……いや、それでも……それでも、私はあなたを愛しています。名前なんて関係ない。今夜、あなたを私の妻にします」
「ノーラン!!」
ノーランは立ち上がると、足早に部屋を出た。
ドアが音を立てて閉まり、鍵が回る音がした。
オーロラの叫び声だけが、無常にドアに跳ね返る。
「いいえ」
オーロラは手で涙をぬぐった。
「いいえ。わたくしはあなたの妻にはならない」
オーロラはつぶやいた。
「わたくしには———」
『き、貴婦人をお助けするのは、騎士の務め。どうぞ私にエスコートさせてください!』
『俺は無事に辺境伯領の正騎士になりました。どうぞ俺を、いや私をオーロラ嬢の騎士として仕えることを———』
『覚えていてくださって、嬉しいです。どうぞ私を騎士に、あるいはもしよければ、私と結婚———』
「アスラン……」
オーロラは床にしゃがみ込んだ。
ふわりと長い白金の髪が揺れる。
「わたくしは大馬鹿者だわ。どうして、あなたに言わなかったのかしら。わたくしだけの騎士になってと。いつも守ってちょうだいと。そしてわたくしと結婚してほしいと———」
結婚。
その言葉を口にした時だった。
オーロラははっとして気がついた。
そうだった。
オーロラと結婚したら、傷つくのはオーロラだけではない。
むしろ———。
「あの人の方が大変なことに。ノーランはわたくしの『真実の愛』ではない。わたくしはノーランを殺してしまう……!!」
なぜ呪いのことを説明しなかったのか。
オーロラは悔やんだが、すでに遅い。
オーロラの足にはロープが着けられたまま。
部屋のドアは鍵がかけられ、固く閉ざされていた。
オーロラは右手をスカートに入れた。
スカートの内側に取り付けられたポケットに触れる。
有能な侍女のエマはドレスを替えても、かならずこのポケットを次のドレスに付け替えてくれる。
今回もまた。
(ありがとう、エマ)
オーロラは指先に感じる、硬い手応えに心から感謝した。




