第5話 オーロラの婚約
フォレスティ伯爵がヘンリー国王と会ってから数日後。
伯爵のもとに、ミレイユ王妃からお茶会の招待状が届いた。
オーロラはリンネ夫人に連れられて、父の書斎に来ていた。
父の机を前に、椅子が二脚置かれ、オーロラとリンネ夫人が座っている。
オーク材のどっしりとした机の真ん中に置かれているのは、赤い封蝋の印も華やかな、一通の封筒だった。
「……これは王妃殿下の面接だぞ」
机の向こうで、フォレスティ伯爵はごくりと喉を鳴らした。
「オーロラ。私はたしかに王都の流行にはうといが、今回は私の考えでおまえの支度を整えることにする。いいね?」
そこまで言われては仕方がない。
オーロラはうなづいた。
「はい。お父様にお任せいたします」
フォレスティ伯爵はリンネ夫人にうなづいた。
「よし。今回は時間がない。オーロラを連れて、直接店に行って、既製品でよいから服を用意しよう。ああ、うかつだった。オーロラももう十二歳なのだ。いざという時のために、きちんとしたドレスを何着か作っておくべきだった……!」
リンネ夫人も眉を下げた。
オーロラの身の回りのことをきちんとしておくのは、自分の仕事と心得ているだけに、リンネ夫人は心から反省していたのだ。
「考えが至らず、申し訳ございませんでした。取り急ぎ、リズ夫人に連絡をいたします」
***
ミレイユ王妃に招待されたお茶会の日、父のフォレスティ伯爵にエスコートされながら、オーロラは馬車の前でリンネ夫人と挨拶を交わした。
父と一緒に参加するので、リンネ夫人は伯爵邸で留守番である。
「オーロラお嬢様、大丈夫ですよ。とてもお美しいです。新しいドレスもよくお似合いですわ」
「ありがとう、リンネ夫人」
オーロラよりも、もう少し年上の少女向けにデザインされたドレスは、飾りも多く、スカート部分も長くたっぷりとしているため、扱いにくく、重かった。
さらに、背中に自然に流した長い白金の髪が風を受けて舞い上がる。
オーロラは髪を抑え、ドレスを持ち上げ、馬車に乗り込むのにも一苦労だった。
フォレスティ伯爵がオーロラに手を貸して、無事に座席に収まった時には、さすがのオーロラもほっとため息をついた。
馬車はすぐに走り出し、前方にはすでに王宮が見えている。
王都の街をあっという間に走り抜けながら、オーロラは父に尋ねずにはいられなかった。
「お父様。お父様はわたくしがアレックス王子殿下の婚約者になることに、賛成でいらっしゃるの?」
オーロラは馬車の座席に、まるでドレスに埋もれるようにして、ちょこんと座っている。
まだまだ幼いオーロラに、そうまっすぐに言われてしまえば、フォレスティ伯爵も思わず眉を下げてしまう。
「……正直に言えば、お父様にも、わからないのだ。おまえのお母様、アストリッドなら、今回の話に賛成しただろうか? と考えてしまう。アストリッドは美しく、賢く、社交のことももちろん知り尽くしていた。おまえは年齢よりはしっかりしているとはいえ、たったの十二歳だからね。アストリッドなら、愛娘のために、あれこれと気をつけてやっただろう、と思うのだよ」
オーロラは、父の言葉を、悲しげに聞いていた。
父は、オーロラが呪いをかけられたことを知らないのだ。
なぜなら、オーロラの母であるアストリッドは、ミレイユ王妃に警告されたから。
母から何度も聞かされたために、オーロラは母が亡くなって何年にもなるのに、いまだにその時の言葉を一言一句覚えていた。
『アストリッド・フォレスティの娘、オーロラ・フォレスティよ。おまえに「真実の愛」の呪いを与える。おまえが「真実の愛」以外で結ばれた時、呪われるがいい。呪いよ、その時は———相手の男を殺せ』
『アストリッド、おまえが呪いのことを誰かに話せば、この子どもは死ぬ。たとえ夫であろうと、話せば死ぬ』
オーロラには、何度考えても、どうしてもわからないことがあった。
なぜ、ミレイユ王妃が、王子とオーロラとの縁談を拒否しないのか。
もちろん、ミレイユ王妃は、オーロラの呪いのことを知っている。
彼女自身が呪いをかけたのだから。
なのにどうして、自分の息子との婚約を考えるのだろう?
もしアレックス王子がオーロラの『真実の愛』でなかったら、アレックス王子も死ぬということなのに———。
(今、わたくしにできることは)
オーロラは思う。
(アレックス王子がわたくしを嫌いになって、婚約を考え直すようにすることだけ)
一国の王妃。
さらに母と因縁のあった相手。
自分に呪いをかけた相手。
ミレイユ王妃とのお茶会に、平静でいられるはずはない。
それでも、オーロラは自分一人で戦うしかないのだ。
(誰かが死ぬことだけは、避けなければいけない。たとえ、自分が重い犠牲を払うことになっても———)
心配げに自分を見つめる父に微笑みながら、この時、オーロラは覚悟を決めたのだった。
馬車はすでに王宮の門をくぐり、正面玄関に向かっている。
もしオーロラが何かを思いついたとしても、もう時間はない。
馬車は王宮の正面玄関に到着した。
***
「ミレイユ王妃殿下、アレックス王子殿下、本日はお招きありがとうございます」
「ミレイユ王妃殿下、初めてお目にかかります。アレックス王子殿下、ご機嫌麗しくお喜び申し上げます。オーロラ・フォレスティでございます」
オーロラは淡いピンクのドレスを着ていた。
胸もとは四角く開き、袖はひじのあたりに向かって、ふわりと膨らんでいる。
古典的な絵画のような、小さなバラが描かれた布地で作られたドレスは、スカート部分にたっぷりとギャザーが寄せられ、さらにたくさんのリボンで飾られていた。
いつもは首の後ろできっちりと束ねられている、長い白金の髪。
今日は自然に下ろして、つややかな水色のリボンで飾られている。
ほっそりとした首には、流行の、パールをあしらったリボンチョーカーを巻いた。
そして何よりも、オーロラの顔。
いつものように前髪で目もとを隠すことなく、その整った顔だちがあらわになっていた。
美しく整った、年齢よりも大人びた表情。
大きな瞳は吸い込まれるような、アイスブルー。
小さく、柔らかそうなくちびるは、淡いピンク色をしていた。
フォレスティ伯爵とオーロラの挨拶の後は、しんとした沈黙が部屋に満ちた。
広々としたサロンに作られたお茶のテーブルには、四人分の席だけが用意されていた。
テーブルについているのは、一人の貴婦人と、一人の少年。
少年には見覚えがあった。
赤みがかったブロンドに、くりくりの茶色い目をした少年。
大人のように、上質な服を身につけた少年は、明らかに隣に座る貴婦人の子どもだろう。
(あなたがアレックス王子だったの)
オーロラは顔色も変えずに、少年を観察する。
王妃と王子の髪の色と目の色は、まったく同じだった。
(そして、あなたがミレイユ王妃殿下)
オーロラは目を伏せながら、貴婦人を観察する。
まず目に飛び込んできたのは、熟したワインのような、濃いプラム色のドレスだった。
バーガンディ色の複雑なドローンワークが細やかに施されている。
オーロラの目の前には、惜しげもなく高価な布地を使ったドレスに身を包んだ貴婦人の姿があった。
(すごいドレス……!)
宮廷服では、女性の場合、ドレスのスカートが大きく膨らんでいるほど格が高いとされていることは、まだ十二歳のオーロラでも知っていた。
貴婦人は赤みがかった髪を優雅に結い上げ、右手にドレスと合わせた扇を持って、静かにオーロラを見つめている。
私的なお茶会には大げさすぎるほどの装いだったが、彼女はオルリオン王国の王妃。
オーロラはドレスをつまみ、ゆっくりとカーテシーをした。
白金の髪が、さらり、と揺れた。
娘の挨拶に父は満足そうな顔をしていたが、ミレイユ王妃の表情には隠せない苛立ちが現れたのを、オーロラは見てとった。
「フォレスティ伯爵、お久しぶり。こちらのお嬢さんが、オーロラね。よくいらっしゃいました」
オーロラはカーテシーを崩さず、王妃の言葉を待った。
長い時間が流れる。
「……どうぞおかけになって」
ようやく王妃がそう言った時には、オーロラの足はかすかに震えていた。
「先日のお茶会では、あなたに気づかなかったわ。会場に……いらしたかしら?」
ミレイユ王妃はどこか、気だるげに話す、そんなくせがあるようだった。
そして、相手の返事には気も止めない。
オーロラが言葉を返す前に、ミレイユは言った。
「あなた、アストリッドにそっくりね……」
そう言った王妃の声には、たしかな嫌悪感があった。
「白金の髪……、アイスブルーの瞳……アストリッドと色合いは違うのに。まさか、こんなにそっくりに成長しているとはね」
「王妃殿下?」
「母上?」
フォレスティ伯爵が、何か不穏な空気を察したのか、無意識にオーロラをかばうようにして身を乗り出した。
アレックス王子もまた、不安げに母を見上げる。
「ねえ、オーロラ。あなた……いつもそんな服を着ているの?」
突然、ミレイユは目を細めて、オーロラを見つめた。
軽く首をかしげながら。
「王子の婚約者に選ばれるかもしれないと思って、浮かれてしまったのかしら?」
ミレイユは淡々と話し続ける。
「ちょっと派手じゃないこと? それに、あまり似合っていないし……控えめさ、というものがないのは残念ね。その髪も……品がないわ。顔は、お化粧してるの? あなた、まだ十二歳じゃなかったかしら。わたくし、」
ミレイユは、ぱん、と音を立てて、プラム色の扇を閉じた。
「アレックスの目に留まろうとして、派手派手しく装う令嬢達が大嫌いなの。アレックスはね、あのお茶会の後、こう言ったのよ。『清楚で、控えめな令嬢を見つけました』って」
オーロラの隣で、父が動揺しているのを、感じた。
しかし、当のオーロラの心は平静で、ざわめくこともなかった。
なぜなら、母から王妃の話は聞いていたから。
この女性のために、心を乱す価値などはない。
目の前の、この女性こそが、赤ん坊の自分に呪いをかけたのだ。
オーロラは静かに、ミレイユを見つめていた。
(ミレイユ王妃殿下。あなたは何を考えているの? 王子がわたくしの真実の愛だとは思わないわ。わたくしと結婚すれば、王子はおそらく死ぬことになる。とすれば、本気でわたくしを王子の婚約者にしたいはずがない)
オーロラの顔には、何の表情も浮かんでいない。
北の国の湖のような。
温度を感じさせないアイスブルーの瞳が、静かにミレイユを見つめていた。
ミレイユはただ黙って、姿勢よく座っているオーロラにいらだったのか、かすかに眉をひそめた。
「せっかくおしゃれをしてきて、残念でしたわね。もっとも、あなたの器量では、高価なドレスなど着せても、その程度なのでしょうけど……」
「お、王妃殿下」
とうとう、父が勇気を奮って声を上げた。
「この度は、私どものことでご不興になられましたら、誠に申し訳ございません。伏して、お詫びを申し上げます。それでは、私どもはこれで」
礼を取る父に合わせ、オーロラも立ち上がり、丁寧にカーテシーを取った。
アレックスはことの成り行きに困惑したようで、視線でオーロラ達と母の間を行ったり来たり。
(とんだお茶会だわ)
オーロラは視線を下げながらも、美しく整えられた、お茶のテーブルを眺める。
香りのよい紅茶も。
見た目も色あざやかな茶菓子も。
誰も手をつけていない。
オーロラは、ここしばらく何度も考えたことに思いを巡らせていた。
父に、呪いのことを言った方がいいのではないか、と。
(これではお父様が気の毒だわ。何が何やらわかっておられないだろうし。この服を選んだのは自分だと、ご自身を責めておられるのでは)
オーロラは思った。
母は、母が呪いのことを誰かに話せば、オーロラが死ぬと言っていた。
しかし、当のオーロラが誰かに話すことについては、何も言っていなかった。
(もちろん、お父様はショックを受けるだろうけど———)
父と並んで、ミレイユが退出の許可を与えるのを待ちながら、オーロラはじっと、十二年も前に、自分の運命を決めた人物に頭を下げ続けた。
「国王陛下が最終的に決定します」
ようやく、ミレイユは感情のこもらない平坦な声で言った。
「もしオーロラがアレックスの婚約者に決まれば、正式な使者が行くでしょう」
ミレイユは立ち上がった。
「アレックスの婚約者には、王子妃教育が待っているわ。わたくしも携わることになります。……楽しみね、」
思わず顔を上げたオーロラとミレイユの目が合う。
「……オーロラ・フォレスティ」
ミレイユが無表情にオーロラを一瞥した。
ミレイユの眼。
オーロラはひるまなかった。
オーロラはずっと、戦ってきたのだから。
亡くなった母と二人で、ミレイユのかけた呪いと、どうすれば呪いから逃れられるかについて、何度も何度も話し合った。
たとえ、オーロラはミレイユと直接会ったことはなくとも、ミレイユ、という存在を意識しながらここまで成長してきた。
(なぜ、それほどまでにお母様を憎んだの? なぜ、それほどまでにわたくしを憎むの? たとえ、わたくしがまだ子どもでも———)
オーロラはアイスブルーの瞳で、恐れることなく、ミレイユを見つめた。
(あなたに、負けはしない!)
ミレイユの眼。
白目の部分が、きらりと光って、それから茶色い瞳が移動して、オーロラから視線を外した。
ばちん。
不自然に大きな音を立てて、ミレイユの扇が閉じられた。
「アレックス、いらっしゃい」
ミレイユの言葉に、アレックスは弾かれたように椅子から飛び出し、母の隣に駆け寄った。
フォレスティ伯爵とオーロラは礼を取ったまま、微動だにしない。
ミレイユはアレックスを伴い、無言でゆっくりとサロンを横切り、出て行った。
***
それから一週間後、再びヘンリー国王からの書簡が使者によって届けられ、アレックス王子とオーロラの正式な縁組が決まった時、フォレスティ伯爵の顔には、喜びというよりも、ただただ深い困惑だけが浮かんでいたのだった。
オーロラ・フォレスティ伯爵令嬢、十二歳。
こうして、オーロラはアレックス王子の婚約者になった。