第30話 辺境生活の始まり(1)
「あれはね、リンゴの花よ」
飽きもせず窓の外を眺めているオーロラに、アデルが言った。
窓の外は緑の牧草地が続き、昨日と同じように、真っ白な羊が点在して、のんびりと草を食べている。
同時に、農家などを見ると、白い可愛らしい花を付けた木々が庭一面に元気よく育っているのだ。
デルマス辺境伯領に入った翌日。
この日は辺境伯の住まいであるロシュグリー城に近い町ソレトを目指して一行は進んでいた。
帰城は明日の朝。
旅の最後にソレトに寄り、必要な買い物などをしつつ一泊し、翌日はいよいよ帰城
となる。
「まあ、口実はいろいろなんだけど」
アデルがくすりと笑う。
「馴染みの宿屋の食事がね、すごくいいのよ。『白かもめ亭』という名前の宿屋なの。羊のローストが名物でね。この辺りの牧草は塩気を含んでいるから、羊の味も王都とは違うわ。ルドルフはここで生まれ育ったから、地元の羊の味じゃないと羊じゃないんでしょうねえ。大きなもも肉をぺろりと食べるから、最初はびっくりしたわあ……。でも本当に美味しいから、オーロラちゃんも楽しみにしててね。それに日用品も少し買っていきましょう」
「羊のローストですか……」
オーロラは目を丸くした。
「そうそう。辺境伯領特産の羊よ。それにリンゴもね、特産。当然、リンゴ酒も名産なの。このリンゴを食べて育った豚のソーセージも美味しいし……慣れてしまうと、王都での食事は豪華だけれど味気なく感じるくらい」
アデルは戸惑ったように自分を見つめるオーロラに笑いかけた。
「オーロラちゃん、無理しないでいいのよ」
アデルの言葉に、オーロラは目を見開いた。
「……たしかに、辺境は王都から遠いの。けして悪いところではないのだけれどね。わたくしも初めて王都から旅した時には、泣いたわ。一人で、馬車の中でね」
アデルは遠くを眺めた。
「突然、辺境伯に嫁げと命じられて。当時は『辺境の魔獣』と言われていた男の元に行くのだから本当に怖くて、不安で———。でも」
アデルからくすり、と笑い声がもれた。
「その『辺境の魔獣』がね、王都に用事があって行く度に言うのよ。『何でも好きなものを選んで馬車に載せろ。俺はドレスのことなどわからんから』って。あの人は不器用で、好意の示し方がわからないの。女性にはともかくドレスと宝石を贈るのが大事だと思っているのよ。まあ、王都には滅多に行かなくなったから、そのことを気遣ってくれたのもある思うのだけれど———でもね、辺境伯領にも美しいものはたくさんあって。次第にここの良さがわかったわたくしは、あまり王都で買い物もしなくなったわ。そしたらね、最近あのアスランが!」
アデルは几帳面な顔つきを作り、アスランの口調を真似してみせる。
「『伯母上、せっかく王都に来たのですから、何かなさりたいことがあるのでは? お友達と会ったり、買い物をなさりたいのでは』なんて言うのよ! びっくりだわ。いつの間に、そんなことが言えるくらいになったのかしらね〜。嫌だわあ、年をとったのねえ、わたくし!」
とても年をとったようには見えないアデルがそう言うのは、ちょっとおかしく見える。
オーロラは思わず口もとを緩めた。すると。
「オーロラちゃん、わたくし達が付いているからね」
アデルは不意にオーロラを抱き寄せると、こつん、とおでこを合わせた。
「もう、一人で我慢するのはおしまいにしましょう。いいわね?」
まるで本物の母娘のように、寄り添い合いながら、アデルはオーロラに語りかける。
(あ……。何だか、懐かしい……)
オーロラは心が温かくなっていくのを感じた。
自分を抱きしめる優しい手。
どこか甘い香りがする、温かな手だ。
(お母様がいらした頃を思い出すわ)
オーロラはそっと目を閉じた。
この穏やかな時間が溶けて消えませんように……。
そんなことを願いながら。
***
「領主様、奥様、おかえりなさいませ」
「アスラン様、おかえりなさいませ」
ロシュグリー城は、壮大だった。
海にそびえ立つような城の姿が見えてくると、明らかに潮の香りがしてくる。
城へと続く一本の道。
ロシュグリー城は湾に突き出した岩山の上に張り付くように建てられた、まるで要塞のような城だ。
重い音を立てて、城の正門が開かれ、一行が城内に入っていくと、鳴り響くラッパの音が響いてきた。
先頭に立つ一際大きな黒馬に乗った大男は、もちろんデルマス辺境伯、ロシュグリー城の城主であるルドルフだ。
迎えに出た人々が一斉に歓声を上げる。
「領主様のおかえりだ!」
「領主様、奥様、おかえりなさいませ」
「アスラン様、おかえりなさいませ」
騎士達は規律正しく順番に馬を降りると、城内に次々と移動していく。
アデルとオーロラが乗った馬車が停止すると、従僕がすばやく足台を置いた。
騎士のマシューとアスランも馬を降り、馬車の前で待機する。
マシューがドアを開け、アデルが降りるのを助けた。
オーロラが降りるのを助けるのは、アスランだ。
アスランはマシューをしっかりと目で牽制してから、オーロラに手を差し出した。
「ありがとうございます、アスラン様」
オーロラの言葉に、アスランはつい、嬉しそうに頬をゆるめる。
馬を降りたルドルフも足早にやって来た。
「「旦那様、奥様、無事にご帰還、何よりでございます」」
背格好もよく似た初老の男性が二人並んで、城主夫妻であるルドルフとアデルに挨拶をした。
オーロラはアデルの背後にアスランと並んで立っている。
「おかわりはありませんでしたか?」
二人のうち、少しだけ年上に見える方の男性がにこやかに問いかけた。
ルドルフは黙ってうなづいただけだったが、アデルがにこにこと言葉をかける。
「スチュワート、それにワトソンも。留守番ご苦労様でした。万事順調よ」
アデルはちらりとオーロラに視線を向ける。
「まず、五階のサロンにお茶を用意してくれないかしら? お客様をお連れしたのよ。わたくし達とアスランの分でしょ。あなた方も来てちょうだい。それからエマ。モリシア夫人も呼んで。全員で八人かしら?」
「かしこまりました。ご用意いたします」
一同は城内に入ると、入り組んだ通路を歩き始める。
すると、それまで黙っていたルドルフが少し若そうに見える男性、ワトソンを振り返って言った。
「ワトソン、今日の昼は羊のローストのサンドイッチにしてくれ。昨日ソレトの『白かもめ亭』で食べた羊はいつもながらうまかったなあ。少し包んでもらって来たんだ。昼はそれを食いたい」
「かしこまりました、旦那様」
「夜は魚がいいな。ようやくデルマスに戻ってきたぞ! ありがたい! デルマスの食い物以外は食い物じゃないからな。リンゴ酒は辛めのを……」
「まあダーリン」
アデルがくすくすと笑った。
「ワトソンは心得ていますよ。エマ、羊のローストは無事かしら?」
「はい奥様、台所に運ばせました」
城の中、正門のある一階には広く中庭が造られていて、そこには緑の草が茂り、木も育っている。
城の中の階段を上がるが、窓から見ると、外階段もあるようだ。
二階には多くの騎士や召使いが行き来している。
オーロラは岩がむき出しになった壁を興味深そうに眺める。
(倉庫かしら。奥に大きなドアがある)
暗い通路の奥からは、料理の匂いも漂い、台所もここにあるのかもしれない、とオーロラは思った。
この階にも中庭があったが、地面はきちんと整備され、騎士達が剣を持って訓練をしていた。
さらに三階。ここはしんと静まり返り、ぐるりと造られた回廊には、等間隔でドアが付けられていた。
「城内は後でちゃんと案内してあげるから、心配しないでね」
アデルがオーロラにささやく。
「足は大丈夫かしら? この城は五階まであるの。頑張りましょう」
「大丈夫です。このブーツを履いていてよかった……!」
オーロラの実感のこもった言葉に、アデルは思わず笑ってしまったのだった。




