第25話 婚約破棄(4)
「父上、フォレスティ伯爵令嬢オーロラとの婚約を破棄してください」
静まり返った会場で、アレックスの声は妙にはっきりと響き渡った。
「父上もご存知のとおり、オーロラは王子の婚約者の身でありながら、あろうことか暴漢に襲われ、純潔を失い、名誉を汚されました。父上の唯一の後継者である王子の婚約者にはふさわしくありません」
オーロラは凍りついたように足を止めた。
すべては、悪夢のように、ゆっくりと動いていく。
「私の婚約者には、グランヴィル筆頭公爵家令嬢であるカリナがふさわしいと思います。どうぞ陛下の御名で、オーロラとの婚約を破棄してくださるよう、お願いいたします」
ヘンリー国王の隣で、ミレイユ王妃が満足そうに微笑み、そっと扇で口もとを隠した。
「ふふ。これが見たかったのよ、アストリッド」
ミレイユは思わず、ひとりごとを漏らした。
それはごく小さな声で、ミレイユ自身も、自分が声に出してしまったことに気づいていなかった。
しかし、隣に座るヘンリー国王は一瞬、信じられないようなものを見る目で、ミレイユを見た。
一方、会場は静まり返り、国王が何と返すのか、固唾を飲んで見守っている、そんなひりひりするような空気が漂っていた。
フォレスティ伯爵は一歩、前に出た。
オーロラをそっと背後に庇うと、堂々と正面を向いて、声を上げた。
「恐れながら、陛下に申し上げます。このような場で、わが娘を辱められるいわれはございません! たとえ、王子殿下のお言葉であれ、父親として納得いたしかねます!」
フォレスティ伯爵は恐れることなく、壇上のアレックス王子に向き合った。
若い頃はオルリオン王国随一の美男として注目を浴びた男である。
今も衰えることのない美貌に、会場の貴婦人達は顔を赤らめた。
誰も口にしないが、この金髪の美丈夫と並んだら、おそらくアレックス王子の容姿などかすんでしまうだろう。
しかし、根っからの騎士であるフォレスティ伯爵は娘を守ることだけに注意を向けていて、自分の容貌が注目を集めているとは、まったく気づいていなかった。
「アレックス王子殿下、もしわが娘に言いたいことがあるのなら、改めて場をもうけ、そこでおっしゃるべきでは!? まだ若い令嬢を、このように晒し者にするとは———」
「お父様、いいのです」
オーロラがそっと背後から父の背中を押した。
ゆっくりと国王の前に進み、深々とカーテシーをする。
「……ヘンリー国王陛下におかれましては、わたくし、オーロラ・フォレスティはアレックス王子殿下のお望みどおりにいたしますことを申し上げます。婚約破棄を受け入れます。殿下がお望みなら、もう社交界に出ることもいたしません。わたくしとの婚約を破棄した後、どなたとご婚約されるのも、殿下のご自由でございます」
静かで低いが、よく通る声が響いた。
堂々としたオーロラの言葉に気分を害したのか、アレックスが顔を真っ赤にして叫んだ。
「なんと! オーロラ、生意気な! おまえの了解などいらぬ! 陛下がお決めになり、おまえはただ従えばいいのだ!」
オーロラは顔を上げた。
青ざめた顔色。
しかし、オーロラは恐れることなく正面を見つめた。
不思議なアイスブルーの瞳が綺麗に見開かれている。
白金の長い髪が青いドレスに映え、静かに立つオーロラはまるで王女のように気品に満ちていた。
オーロラは再びカーテシーをすると、そっと父の腕を取った。
無言でうなづき、オーロラは父とともに広間を歩き始めた。
「オーロラ」
フォレスティ伯爵が小声でささやく。
「もうよいのです。さあ、帰りましょう」
オーロラがそう父に返した、その時だった。
誰かが叫んだ。
「さすが『笑わない伯爵令嬢』ね。落ち着き払った態度で、大したものじゃないの?」
会場がざわめいた。
「令嬢だなんて……汚れた身に、おこがましい。あの子はもうおしまいね」
その声には聞き覚えがあった。
コレット王女の取り巻きだった、クルーガー公爵令嬢のソニアとカリフ侯爵令嬢のイベットだ。
(笑わない、伯爵令嬢)
彼女達が王立学園で面白がってオーロラに付けた名前。
オーロラの足が止まった。
(わたくしの気持ちも知らないで———!!)
手が震え、浅い呼吸を繰り返す。
オーロラの目に涙がにじんだ。
(もう少しで、会場を出られるのに……!)
泣く姿など、見せたくなかった。
それは、オーロラを辱める人々を喜ばせるだけだから。
(仮にも一度は王子妃教育を受けた者として、気品を保って退出したかっただけなのに)
「オーロラ……!!」
父の声が妙に遠く響いた。
頭の芯がしびれたようで、オーロラは父の姿を見ることができない。
オーロラの体から力が抜ける。
「オーロラ!」
フォレスティ伯爵があわててオーロラの体を支えた時だった。
「オーロラ・フォレスティ伯爵令嬢に申し上げます」
爽やかな声が広間に響き渡った。
人々の間を抜けて、一人の騎士が進み出る。
ざわめきが波のように広がる。
「誰なの?」
「ま、まあ。でも、なんてお美しい方なのかしら」
青年は淡いベージュの髪を短く刈り込み、飾りのない、質素な騎士服を身につけていた。
しかし、そんな地味な様子をしているのに、青年の姿にはなぜか華やかなものがあった。
これだけ大勢の人々の前で、おじける様子もなく堂々と歩いてくる。
まるで人々が道を譲るのが当たり前だとでも言うように。
目を引く長身。
鍛えた体。
整った顔だち。
姿勢がよく、その動作も品がある。
ヘンリー国王すら声を失って、この青年騎士の姿を目で追っていた。
青年は、優雅にひざまづき、オーロラの手に触れた。
あざやかな青い瞳が、オーロラを優しく見つめた。
「どうぞ、オーロラ嬢。お手を。貴婦人にお仕えするのが、騎士の務め。どうぞ私にエスコートさせてください」
その言葉に会場はざわめく。
王子と王妃は見るからに顔が強ばった。
(騎士の……務め)
オーロラは、その甘やかな響きに、なぜか覚えがあった。
あれはいつだっただろうか?
それにこの青い瞳。
たしかに以前会ったことがある。
そしてオーロラは揺らぐ視界に、自分の限界を悟った。
「お願い……いたします」
オーロラは細い小さな手を差し伸べる。
ほっと、安堵の様子を見せて、騎士はオーロラの手を取った。
会場からはほお! とため息が漏れる。
しかし、オーロラ自身はもう、気力も限界だった。
小刻みに震え続ける指先が訴える声を、騎士は無言のうちに聞き取ったようだ。
心配げにオーロラを見ると、振り返ってフォレスティ伯爵に小声で話しかける。
「閣下、失礼してお嬢様を抱き上げてもよろしいでしょうか?」
フォレスティ伯爵がうなづくと、騎士はほっとしたようにオーロラを軽々と抱き上げた。
「閣下、早くここを出ましょう」
騎士は危なげなくオーロラを抱いたまま、フォレスティ伯爵とともに素早く広間を出た。
あっという間の出来事に、オーロラ達がいなくなったのにやっと気がついたアレックス王子は歯軋りをして叫んだ。
「ゆ、許さんぞ! オーロラ・フォレスティ!! おまえは国外追放だ!! 未婚の令嬢のくせに、男をたらし込むことだけは一人前だな!? 二度と我が国の宮廷にその卑しい姿を現すな……!!」
その時だった。
がたん! と音を立てて、それまで黙っていたヘンリー国王が立ち上がる。
「アレックス! いい加減にしなさい。一体、どういうことなのだ!? もうよい。私は退出する。おまえも来て、説明するのだ。ミレイユ、あなたは来なくてよろしい。残って夜会を見届けなさい」
ヘンリー国王は不機嫌な様子でじろりと妻と息子を見、息子の隣にいる令嬢を見る。
「カリナ嬢、あなたは父君の元に戻りなさい。今は息子の結婚について、どんな話も聞きたくない」
ヘンリー国王はそう言い捨てると、声を失って立ち尽くすミレイユを置いて、荒々しく会場を後にしたのだった。




