第21話 襲われた伯爵令嬢(3)
「騒げば、殺す」
男の左手が、目の前に迫ってくる。
喉に冷たい刃物の感触を感じながら、オーロラは全身を凍らせた。
「派手にやれとのご命令だからな」
男がそう小さくつぶやいて、オーロラの服をつかんだその時だった。
ガッ! と鈍い音がしたかと思うと、男が床の上に吹き飛んだ。
オーロラの手を縛っていたロープが素早く断ち落とされる。
驚くオーロラの上から、ふわりと何か大きな布が被された。
「怖いでしょう。耳を塞いでいてください」
優しげな声がしたかと思うと、剣と剣が触れ合う重い音が響いた。
「!!」
オーロラは必死で上半身を起こすと、そのまま床の上を壁際まで後ずさった。
壁にぴたりと背中をつけ、両手で耳をふさぐ。
体を丸めて大きな布を被り、震えながらただ待った。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
案外、その時間は短かったかもしれない。
「オーロラ嬢、お屋敷へお連れします」
再び優しい声がすると、オーロラの体は布で覆われたまま、ふわりと抱き上げられた。
そのまま、迷いのない足取りとともにオーロラは建物の外に連れ出された。
「馬車はありません。あなたをお抱きして馬に乗ることをお許しください。少しの辛抱です」
声の主は若く、その腕は力強かった。
オーロラはあっという間に馬の上に載せられ、両手で鞍の端をしっかりと掴むように言われた。
言われた通りにしていると、男はオーロラの後ろに素早く体を押し上げ、オーロラを胸に抱くと、馬を走らせたのだった。
***
それからのことは、まるで長い長い夢を見ているようだ、とオーロラは思った。
『オーロラ!!』
『オーロラ様!!』
『オーロラお嬢様っ!!』
こうこうと明かりが灯されたフォレスティ伯爵家のタウンハウス。
フォレスティ伯爵はすでに帰宅していて、まだ戻らぬオーロラを心配して、半狂乱になっていた。
オーロラにすがりつかんばかりの侍女達。
リンネ夫人の、青ざめた顔。
オーロラ専属の侍女アリスは泣いていた。
さらにタウンハウスには非番の王宮騎士団の騎士達も詰めかけていたのだ。
『オーロラ、ケガは、ケガはないか!? 早く部屋に……待機させていた医師をすぐに呼べ!』
『刀傷などはないはずです。ただ、馬車が横転した際に打ち身や捻挫などはされているかもしれません』
『本当に何と言っていいか。お礼の言葉もありません。改めて後日、お礼に伺いますので、どうかお名前と家門を教えてはいただけませんか?』
オーロラは布に包まれたまま、そっと父の腕に抱き取られた。
顔からふわりと布が落ちる。
ぼんやりとしたオーロラの目に映る父の顔は、見るからに憔悴していて、目には涙が浮かんでいた。
父と話しているのは、黒髪をした、若い青年だった。
従者のような服装をしているが、彼は騎士ではないのか?
オーロラはじっと青年を見つめた。
あざやかな青い瞳。
どこかで見たような———。
『いえ。偶然怪しい動きを見かけたのも、ご縁だったのでしょう。お礼などはお気になさらず……お嬢様はかなりのショックを受けられたはず。一日も早いご回復をお祈りしております』
『あ……っ! お待ちください……!』
父の安心できる腕の中で。
オーロラの意識は再び薄れていった。
***
「オーロラ様、ご気分はいかがですか?」
それから長い時間が経って。
オーロラはゆっくりと目を覚ました。
見慣れたベッドの白いレースの天蓋が見える。
柔らかな夜着の肌触り。
起き上がろうとすると、侍女のアリスがすぐ支えてくれた。
「オーロラお嬢様、ご無事で本当によかったです」
アリスの目が涙で潤んでいる。
「旦那様ももう、夜通しオーロラ様に付き添うと言ってきかなかったのです。幸い、リンネ夫人が説得してくださって。夫人がお嬢様に付き添われていました。ついさっき休憩のためにお部屋を出られたばかりなのです。すぐ、お二人にお知らせしてまいりますね。もう、とても心配されていますので。すぐ飲むものもお持ちしましょう」
「アリス、ありがとう」
アリスはてきぱきと水差しから水をグラスに注ぐと、オーロラに渡してくれた。
「すぐ戻ります」
そう言うと、アリスは部屋から出て行った。
「ここは、わたくしの寝室だわ。……無事に戻って来れたんだわ」
オーロラの目がじん、としてきた。
グラスをベッドサイドに置き、思わず両手で顔を覆う。
「オーロラ!? 大丈夫か、頭が痛むのか? 気分が悪いのか!?」
だだっ! と部屋に駆け込んできたのは、父であるフォレスティ伯爵だ。
ベッドに体を起こしているオーロラにがばっと飛びつくと、ぎゅうううっと抱きしめる。
リンネ夫人とアリスがお医者様と一緒に部屋に入ってきた。
「閣下、まあ、落ち着いて。オーロラお嬢様、ご気分はいかがですかな?」
やんわりとフォレスティ伯爵を引き剥がすと、お医者様が穏やかにオーロラに話しかけた。
「起きたばかりで、まだぼうっとしていますが……特にどこか痛いところもないようです」
オーロラは慎重に答えた。
「よかったよかった」
医師はニコニコと笑う。
「では、ちょっとお顔を見せてくださいね。それからお口を開けて。両手を前に出していただけますか?」
オーロラが言われたとおりにすると、医師はうなづいた。
「少し立ってみましょう。立てますか?」
アリスがさっと近寄り、オーロラの手を取った。
「はい」
オーロラは床の上に両足を下ろし、医師の前に立って見せる。
その時、オーロラは足に巻かれた包帯に気づいた。
「大丈夫ですよ。少し擦りむいた跡があったので、念のために手当てをして、包帯を巻いています」
オーロラはうなづいた。
「はい……特に痛みもありません」
医師はにっこりして、再びオーロラをベッドに座らせた。
「特に気になるところはありませんが、しばらくはご自宅でゆっくりとお過ごしになるとよいでしょう。ともかく、大変な経験をされたのですから。体を締め付けない洋服を着て、消化のよい食物を食べるように。水分も十分取ってくださいね」
「はい、わかりました」
オーロラは素直にうなづく。
「オーロラお嬢様、それでは、お食事を用意いたしましょうね。ジュースと果物と、スープなどいかがですか? 軽いクラッカーなどを添えて?」
リンネ夫人の言葉にオーロラはうなづいた。
「閣下、それでは、別室で少しお話を」
「わかった。オーロラ、何も心配はいらないよ。また後で様子を見に来るからね。今日は食事はすべて部屋で取るといい。先生のおっしゃるように、ゆっくりと過ごすのが一番だ」
「はい。ありがとうございます、お父様」
そうして一同はオーロラの部屋から出て行った。
一人きりになったオーロラはほっとため息をついて、ベッドにまた潜り込む。
(部屋で過ごせと言われて、よかった)
オーロラは安心して枕に頭をもたれかけた。
横転した馬車。
床の上に横たわる自分。
喉に押し当てられた短剣。
オーロラはがばっと再び起き上がる。
体が震えていた。
「大丈夫、大丈夫……すべては終わったのだから。もう終わったのよ、オーロラ」
オーロラは懸命に自分の心に話しかけた。
きっと父は事件の時の話を聞きたいだろう。
わたくしも、父には改めて報告しなければならない。
でも、今だけは、心も体も休めたい———。
オーロラはゆっくりと目を閉じた。
オーロラは見知らぬ誰かの手で守られ、危ういところで難を免れたかのように見えた。
しかし、数日後、王都の社交界では残酷な噂が一気に広まってしまった。
『アレックス王子の婚約者である、オーロラ・フォレスティ伯爵令嬢は暴漢に襲われ、純潔を失い、名誉を汚された』
オーロラの未婚の令嬢としての名誉は、もはや風前の灯である、人々はそうささやいていたのだった———。




