第12話 それぞれの決意(1)アデル
「領主様、おかえりなさい!」
「奥様、おかえりなさい!」
あざやかな緑色の牧草地がなだらかに続く。
馬車道の左右に広がる緑のじゅうたんは、まるで広大な海のようだ。
さわさわと揺らぎながら、視界いっぱいに広がっている。
そんなのどかな風景の中、一列に並んで進む馬車を目ざとく見つけると、農民達は作業を止めて手を振るのだった。
もっとも領主であるデルマス辺境伯はひときわ大きな馬に乗って馬車に併走し、ゆうゆうと大きな手を振り返していた。
「伯母上、私も馬車ではなく、馬で閣下と一緒に走りたいです。私は従騎士なのですから、馬車でなく———」
デルマス辺境伯夫人、アデルは斜め前に座る少年に優しい視線を投げた。
「アスラン、そうできない理由を、あなたはご存知でしょう……?」
アデルにそう言われれば、アスランは悔しそうにうつむいた。
「そうがっかりした顔をしないの。ほら、ご覧なさい。もう海が見えてきたわ。ロシュグリー城はもうすぐですよ」
アデルは開けた窓へと少女のように体を伸ばし、緑の牧草地の向こうを見つめる。
はたして、遠くにはキラキラと銀色に輝く海が姿を現していた。
デルマス辺境伯の住まいは、難攻不落と名高い、湾に突き出した岩山に造られたロシュグリー城だった。
岩山に張り付くように建てられた城はまるで要塞のようで、その全貌はたとえ辺境伯家が忠誠を誓うオルリオン王家であっても把握していない。
整然と隊列を組む、騎乗の騎士達に囲まれた馬車の車列は、まっすぐに牧草地帯を抜けて、海岸へと降りていく。
その先には、城に続く一本の道があった。
湾の満潮時にはこの道は海中に沈み、通行は不可能となる。
それも数々の侵略を跳ね除けてきた理由のひとつだ。
その一方で、最強と名高いデルマス辺境騎士団は神出鬼没であるとも言われている。
その秘密は、デルマス辺境伯家のみに代々伝えられている———。
「デルマス領に戻ってくると、ほっとするでしょう、アスラン?」
アデルの問いに、アスランは素直にうなづく。
「はい。王都とは、まったく違う。もう、私にとっての故郷となった、そんな気がします」
アスランは窓からぐんぐんと近づくロシュグリー城を見つめていた。
潮風がアスランの少し長めの黒髪を揺らしている。
目の覚めるような青色をした瞳は、海よりも青かった。
アスランは言った。
「伯母上、私はもう十六歳です。今度こそ、騎士の叙勲をいただけるよう、伯父上にお願いしてみるつもりです」
アスランのあざやかな青い瞳と、アデルの柔らかな青色の瞳が合った。
アデルはそっとため息を押し殺す。
「もちろん。あなたがそう、望まれるのであれば」
その時、正門が大きな音を立てて開かれた。
ラッパの音が高らかに鳴り響く。
「領主様と奥様のおかえりだ!!」
「領主様、おかえりなさいませ!!」
「奥様、おかえりなさいませ!!」
こうしてデルマス辺境伯夫妻とアスランは王都での用件を果たし、無事に辺境伯領に戻ってきたのだった。
「奥様、アスラン様、おかえりなさいませ。お疲れ様でした」
馬車が城内に入り、アデルとアスランが馬車から降りると、背筋のぴんと伸びた、初老のよく似た男性が二人、深々と頭を下げて出迎えた。
馬車が止まると、従僕がドアを開け、アスランがまず軽々とした身のこなしで馬車を降りた。
続いて降りるアデルに手を差し伸べる。
「スチュワート、ワトソン。元気そうね。留守番ご苦労でした」
「出迎えありがとう。スチュワート、ワトソン」
アデルとアスランが初老の男性二人にほがらかに声をかけた。
すると二人の男達は相好を崩して言葉を返す。
「はい、おかげさまで城の皆も変わりなくやっております」
「無事におかえりになって何よりでございます」
続いて、紺色の侍女のドレスを着た娘がカーテシーをした。
「奥様、アスラン様、おかえりなさいませ。お疲れ様です」
「エマもお疲れ様。元気だった?」
「久しぶりだね、エマ」
スチュワートとワトソンは兄弟で、スチュワート(兄)は辺境伯家の執事、ワトソン(弟)は家令を務めている。
紺色のドレスを着ているのは、アデルの専属侍女であるエマだ。
「伯母上、それでは私はここで」
デルマス辺境伯ルドルフはすでに到着して、城内を歩き回っている。
アスランは急いでルドルフの後を追おうとしていた。
「アスラン、夕食は一緒に取るのよ? ちゃんと着替えて食堂にいらっしゃい」
「わかりました、伯母上」
アスランは一礼すると、急いで歩いて行った。
「アスラン様は、ちょっと見ない間に、なんだか背が高くなって、大人っぽくなられたようですね」
感心して言うエマに、アデルは手荷物を渡しながら微笑む。
「さっきも騎士の叙任を受けたいと言っていたのよ」
そう言うと、アデルはアスランの後ろ姿に視線を向けた。
「……たしかに、普通の貴族の子弟なら年齢的に早くはないの。まあ、実戦に出るわけでもなし。でも、辺境伯領では騎士はお飾りではないでしょう。すべては閣下のお気持ち次第だわ———。さて、わたくしも仕事を始めましょう。エマ、私の書斎にお茶を持ってきてちょうだい。スチュワート、あなたに頼みたいことがあるの。書斎で待っていてくれるかしら? マシューも呼んできてね」
「かしこまりました、奥様」
辺境伯一家が帰城して、城内はとたんに忙しくなる。
執事のスチュワート、家令のワトソンは足早に城内に消えていった。
***
アデルはエマを従えて城の入り組んだ内階段を上がり、五階に向かった。
最上階であるこの階は、辺境伯夫妻とその家族のための居住空間となっている。
アデルは自室に入ると、エマの助けを借りてすばやく着替えると、四階に降りて自身の書斎に入った。
中ではアデルの護衛騎士マシューと、執事のスチュワートが待っている。
「マシュー、帰還したばかりなのに悪いわね。二人とも座ってちょうだい」
「奥様、どうぞお気遣いなく」
マシューが答えると、アデルはうなづいた。
「ありがとう。さっそくだけれど、実は王都でちょっと気になることがあってね」
アデルがそう言った時、ドアがノックされて、エマが茶器をワゴンに載せて入ってきた。
「奥様、お待たせいたしました。お茶をご用意してよろしいですか?」
アデルはうなづいた。
エマはお茶を配ると、茶菓子を揃え、すばやく退出した。
「いい香りね。お茶をいただきながら話しましょう」
ソファに座り、一同は顔を見合わせる。
「スチュワート、あなたに調べてほしいことがあるの。ちょっと動かないといけなくなるだろうから、マシューはそれを手伝ってちょうだい。実はね、王宮でアスランがある令嬢と知り合ったのだけれど……」
「アスラン様が?」
スチュワートがマシューを見た。
「マシュー、あなたもその場に?」
「私は少し遅れて到着したので、すべてを見てはいないのですが、はい」
マシューの言葉に、アデルもうなづいた。
「わたくしもマシューの少し前に。実はアスランが王宮でどこかへ行ってしまって、わたくし達は探していたのよ。アスランを見つけた時には、その令嬢と一緒だったわ」
「奥様……そのご令嬢が気になるのですか?」
「スチュワート、アレックス王子の婚約者がどなたか、知っていて?」
アデルの唐突な質問にスチュワートは首をひねった。
「はて。最近はあまり噂を聞きませんな。たしか、フォレスティ伯爵令嬢と婚約されていたのでは……」
アデルはうなづいた。
「わたくしもそんなことを伝え聞いたことがあるわ。……スチュワート、十四歳の貴族令嬢で、白金の髪、アイスブルーの瞳の少女について調べてちょうだい。前髪が長くて、体より大きな、まったく飾りのないドレスを着ている子よ」
「奥様、それは……」
「オルリオン王家とはもう関わらないと決めていたわ。まさか、こんな形でまた関わることになるなんて」
アデルは窓から遠くを眺めた。
その様子を見て、スチュワートとマシューは一礼してアデルの書斎を退出した。
窓の外。
西には広大な海が、東にはオルリオン王国の領土が広がる。
北はノール王国が隣接している。
アデルは十数年前、王都からデルマス辺境伯ルドルフの元へと嫁いだ。
王家から命じられた政略結婚だった。
幸せになることなんて、とっくに諦めていたのに。
こうして幸せに暮らすことができているのは、奇跡としか思えない。
すべては、ルドルフのおかげなのだ。
自分だけではない。
アスランもまた、ルドルフに救われた一人。
アデルは、力があるだけでなく、正義感の強いルドルフを心から尊敬していた。
ルドルフにふさわしい人間として、彼の隣に立ちたかった。
(この件は、見過ごせない気がする。ルドルフ様もきっと励ましてくれるはず)
アデルは左手首に着けている、細い銀の鎖を見つめた。
「あの頃とは、わたくしも違うわ」
アデルはつぶやいた。
「守るべきものは、守りきってみせる……」