第11話 小さな貴婦人と従騎士(2)
「ご令嬢———どうかなさったのですか?」
オーロラは肩を震わせた。
一瞬、顔を仰向けた時に、オーロラは心配そうな表情をした、一人の少年を見た。
少年は肩先まで伸びた、少し長めの黒髪をしていた。
オーロラをまっすぐ見つめる瞳は、目の覚めるような、青色。
「……!!」
オーロラは慌てて目を伏せると、背中の三つ編みをほどいて、あわてて長い前髪で目もとを隠す。
そんなオーロラの様子に、彼女をおびえさせてしまったと思ったのだろう、黒髪の少年は、あわてて片膝をついて、頭を垂れた。
「あ、怪しいものではありません」
背の高い少年がひざまづいたために、より顔が近くなったのだが、あわてている少年はまったく気がつかない。
「わ、私は騎士です!」
少年は叫んだ。
「き、貴婦人をお助けするのは、騎士の務め。どうぞ私にエスコートさせてください!」
オーロラは木の下で体を小さく丸め、息を止めるようにして、見知らぬ少年の視線から逃れようとした。
しかし、その様子は、少年を怖がり、逃げようとしているように見えたのだろう。
少年は目に見えて、しゅん、と元気をなくした。
「申し訳ありません。……見知らぬ人間に急に話しかけられて、驚きますよね。お嫌なら、あなたを見ることはしません。こうして、向こうを見ていますから」
そう言うと、少年はオーロラに背を向けて、芝生の上に腰を下ろした。
「し、失礼ながら、泣いていらっしゃるように見えたので、心配になったのです。その……おつきの侍女や護衛騎士もいらっしゃらないようなので。何かあったのかと」
「あ」
オーロラは驚いてそっと口をおおった。
たしかに、王宮の中で、未婚の令嬢がお供も付けずにひとりで歩いていることはありえない。
オーロラが侍女を連れていないのは、ミレイユがそう命じたからであって、一般的な慣習とは正反対。
通常ならありえない。
そして今、護衛騎士がそばにいないのは、オーロラが彼らを置き去りにしたからなのだ。
この少年の思いやりと心配は、しごくまっとうなものであることに、オーロラは気づいた。
王宮では、誰もがオーロラに厳しかったり、よそよそしかったりで、オーロラを守ってくれたり、優しくしてくれる人はいなかった。
なのに、今、見ず知らずの少年が、優しく手を差し出してくれているなんて。
「……ごめんなさい」
オーロラは小さな声で謝った。
「お気遣い、ありがとうございます」
その言葉に勇気づけられて、少年は微笑みながら言った。
「俺はアスランといいます」
少年がちょっと顔を赤くした。
「さっきは、騎士です、と言いましたが、正確には、叙任されていなくて、まだ従騎士なんです……なので、まだ名乗る名前はありません。俺、いえ私の方こそ、嘘をついてごめんなさい」
少年の声はだんだん消え入りそうになってしまった。
しゅん、と頭を垂れる。
その様子に、オーロラはつい、母との約束を忘れて、顔を上げた。
「あ、謝らないでください! そんな……わたくしを気にかけてくださり、ありがとうございます。ア、アスラン様は、たとえ叙任前だとしても、立派な騎士だと思います……」
「ご令嬢……」
二人は視線を逸らしながらも、そっと向かい合った。
その時だった。
「アスラン」と呼ぶ、女性の控えめな声が聞こえた。
二人が顔を上げると、一人の貴婦人が、庭に降りてくるところだった。
柔らかな金髪を結い上げ、上品なドレスに身を包んでいる。
「伯母上!」
アスランが立ち上がった。
「まあ、アスラン。急に姿が見えなくなって、探しましたよ? 何もなかった? 大丈夫?」
「はい」
貴婦人が、少年と一緒にいるオーロラに気がついた。
オーロラの髪を見ると、一瞬、首をかしげた。
しかし。
「オーロラ嬢!」
「おぉい、見つけたぞ!」
数人の騎士達がオーロラの名前を叫びながら、バラバラと庭に降りてくる。
「あ……っ」
オーロラは少年と貴婦人を困ったように見上げた。
前髪が風でふわりと揺れて、一瞬、オーロラの印象的なアイスブルーの瞳があらわになる。
オーロラの瞳を見た瞬間、貴婦人の目が揺れた。
まるで、信じられないものを見たかのように———。
一方、護衛騎士が来ることに気を取られていたオーロラは、その様子に気づかなかった。
「ご迷惑をおかけしました」
オーロラはそう言うと、美しいカーテシーを見せた。
ドレスを軽くつまんで腰を落とす。
オーロラの左手首で、何かがきらりと光った。
貴婦人は声もなくオーロラを見つめる。
オーロラはくるりと振り返り、ゆっくりと、護衛騎士のもとへと歩いて行ったのだった。
***
「奥様、アスラン様」
そっと声がして、騎士姿の青年が庭園に降りてきた。
「こちらにいらっしゃいましたか。閣下が心配されていますよ」
「マシュー」
貴婦人が微笑んだ。
「ふふ。大切な坊ちゃんが消えてしまって心配したけれど。ほらこのとおり。ちゃんと見つけましたよ。……閣下のご用は済んだのかしら?」
マシューと呼ばれた騎士は重々しくうなづく。
「はい。『用事は済んだ。さっさと辺境に戻ろう』とおっしゃっていました」
「まあ。困ったわね。今夜はタウンハウスに泊まらないで帰るつもりかしら」
貴婦人はくすくす、と笑う。
そうして笑うと、金髪に青い瞳をした貴婦人は、優しい聖女様のように見える。
アスランは頬をかすかに赤くして、うつむいた。
「でも、伯母上、せっかく王都に来たのですから、何かなさりたいことがあるのでは? お友達と会ったり……買い物をなさりたいのでは……?」
おずおずとアスランが言うと、貴婦人は微笑みをますます深くした。
「まあアスラン。わたくしを気遣ってくれるなんて、嬉しいわ。もう立派な騎士様ね?」
そう言うと、貴婦人はアスランの手を取って歩き出した。
「婦人に優しくできる紳士に育って、わたくしはとても嬉しいわ」
「伯母上、恥ずかしいです……」
「いいのよ。さあ、あなたの伯父様を探しに行きましょう。夜はきっと、おいしいお食事をご馳走してくれますよ。それに……わたくしはお買い物はもういいの」
貴婦人は、白金の髪の少女が歩いて行った方向を見つめた。
「会えると思っていなかった子に会えたから。さ、行きましょう」
「はい、伯母上」
貴婦人はアスランと護衛騎士のマシューを連れて、王宮の中を歩いていく。
華やかに着飾った紳士淑女達。
きらびやかな装飾を施された謁見の間に続く回廊に、貴婦人は目当ての人物を見つけた。
ロイヤルブルーの騎士服が目に飛び込んでくる。
「アデル! 遅いぞ」
吠えるように叫ぶと、周囲の人々が慌てて道を開ける中、気にすることなく、のっしのっしと大柄な男性が歩いてきた。
礼装をしていてもわかる、盛り上がった体の筋肉。
腰に差している礼装用の剣がおもちゃに見える。
大きな手がにゅっと伸び、優しく貴婦人の手を取った。
「帰るぞ」
貴婦人はにっこりと微笑んだ。
「はい。わたくしも早く帰りたいですわ。でも、育ち盛りの坊ちゃんにおいしいご飯を食べさせるのを忘れないでくださいませね、ダーリン」
貴婦人がそう言うと、男性はガハハ、と笑った。
「まず食事をするか。坊主、遅れるな」
「はい、閣下」
そうして、おかしな三人組は貴族達が道を開ける中、堂々と王宮を抜け、立派な馬車に乗り込むと、王都を走り抜けていった。
まるで魔獣のように大きな男と、麗しい貴婦人の組み合わせに人々は視線を奪われ、彼らと一緒にいた、騎士姿の少年に目を留めた人物は、ひとりもいなかった———。