第10話 小さな貴婦人と従騎士(1)
「オーロラ、おまえここにいたのか! 今日の態度は何だ? おまえは自分を何様だと思っているんだ? カリナ嬢は、筆頭公爵家の令嬢だろう? カリナ嬢を食事に誘ったことを、そんなに嫉妬したのか!?」
次から次に放たれるトゲのある言葉。
荒々しい足音が廊下から聞こえ、バン! とノックもなしに開けられたドアから入ってきたのは、アレックス王子だった。
「言っておくが、より多くの令嬢達と付き合うというのは、母上の教えなんだからな! それが王太子となる者の、しいては将来国王となる者の務めなのだ! まあ、伯爵令嬢程度のおまえには、わかるまいが……」
オーロラは本から顔を上げると、静かに立ち上がって、カーテシーをした。
教師もまた慌てて立ち上がり、テーブルの一角にアレックスのために本を置いた。
「アレックス殿下! お待ちしておりました。まだ間に合いますので、最後の部分だけでも聞いていかれますか?」
オーロラが授業を受けていたのは、外交史。
王子妃としての教養を学んだ後、学園が終わった時間に合わせて、経済や各国の歴史、外交を学んでいたのだ。
これはアレックスの参加も前提で、そのために通常オーロラが授業を受ける彼女の部屋ではなく、小図書室と呼ばれる、国王一家の私的な図書室で授業が用意されていた。
アレックスは表情のない顔で静かに立っているオーロラを忌々しげににらみつけた。
オーロラは長い髪を後ろできっちりと三つ編みにして、飾りけのないグレーのドレスを身につけている。
「返事もないのか。……おまえは本当に愛想がないな。それで本当に王子妃教育を二年も受けているのか? 可愛げもなければ、話術もない。まさかこんなに魅力のない令嬢だと思わなかった。所詮、野暮ったい騎士の娘だ。洗練されているはずはなかったか———あの時は私の目がおかしかったのだな」
アレックスは大げさにため息をついた。
「オーロラ、おまえのせいで、私の立太子が遅れているに違いない! もう十四歳なのに、父上はなぜ私を王太子にしようとしないんだ! ただ一人の王子だというのに、おまえのせいだぞ!! 責任を取れ!」
アレックスの言葉を聞いて、オーロラの表情が凍りついた。
(野暮ったい騎士の娘!? お父様は王宮騎士団の騎士よ。あなた方を命をかけて守るお役目を果たしているんじゃないの。なのに)
(それに立太子が遅れているのも、わたくしのせい?)
オーロラの心が訴える。
(我慢する必要があるの? 王子だから、何を言っても許されるの? オーロラ、あなたは王子に婚約を解消してもらうのを願っているのでしょう? なぜ王子の言うままにならないといけないの?)
オーロラの足が無意識に一歩、じり、っと下がった。
心臓の音が激しくなる。
もうこの場を出よう、オーロラがそう思った時だった。
オーロラが聞きたくなかった、もう一人の人物の声が響いた。
「オーロラ、アレックス。何の騒ぎですか?」
部屋の入り口に、コレット王女を伴って、ミレイユ王妃が立っていた。
***
小図書室のテーブルから本が片付けられて、お茶の支度が整えられた。
ミレイユ王妃、コレット王女、アレックス王子、そしてオーロラがテーブルに着く。
授業は中止となり、教師は帰された。
「廊下にまで声が聞こえましたよ? あのような騒ぎを起こして、恥ずかしいことですよ、オーロラ」
ミレイユの小言が飛ぶ。
(廊下にまで聞こえたのは、アレックス殿下の声でしょう)
オーロラはため息をこらえた。
「……申し訳ございませんでした」
オーロラが謝罪し、アレックスが憤る。
「こいつはいつも言葉だけなんだ。母上、婚約を解消してください。もともと婚約式も何もしていません」
「アレックス。あなたは王子なのですから、『こいつ』などと言ってはいけません」
ミレイユはそう言いながらも、息子の様子を注意深く見つめる。
アレックスも十四歳。
ちょっと線の細かった息子も、順調に成長しているようだ。
赤みがかったブロンドと茶色い瞳は母であるミレイユ譲りだが、少しずつ男らしくなってきた顔だちには、父であるヘンリー国王の面影が感じられるようになった。
思春期に入ってからは、アレックスに短気、短慮が現れてきたが、これは実はミレイユに似たもの。
ミレイユは意に介することはなかった。
そしてアレックスがオーロラを見る目。
(この嫌悪は本物だわ)
ミレイユは微笑む。
初めてオーロラを見た時は、どうしたことか彼女を可愛いと思ったようだけれど、子どもの目はあてにならない。
もう、すっかりと冷めた目をしているではないか。
初めて会った、毛色の変わった少女。
オーロラと婚約してはしゃいでいたアレックスに、ミレイユは言ったのだ。
オーロラに優しい言葉をかけてはいけない、と。
『オーロラから話しかけられたり、手紙をもらっても、毎回返事をする必要はありません。時には無視して、自分の立場をわからせなさい』
甘やかしてはいけない。それがオーロラのためだ、と教育したのだ。
コレットにも同じこと。
コレットは今、王女らしく品のある様子で、扇ごしにオーロラを見つめている。
その嫌悪を隠した冷たい視線は、オーロラにも通じるはずだ。
『あなたがわたくし達の一員になることはありえない』
コレットの態度はオーロラに、明解なメッセージを送っている。
ミレイユは、オーロラはアレックスにふさわしくないから、オーロラを追い出せ、とコレットに言い続けた。
ミレイユが蒔いた小さな毒の種は、無事に芽吹き、少しずつ成長している。
「ミレイユ王妃殿下、コレット王女殿下、アレックス王子殿下」
オーロラは深々と頭を下げた。
「……皆様方のお心遣いはよくわかりました。大変申し訳ございません。これまでの非礼を心よりお詫びいたします。それでは、本日はこれにて失礼いたします」
オーロラはあっさりと立ち上がった。
本を抱えて手に持つ。
「オーロラ!? 待ちなさい! 何を言っているの?」
「父と相談いたしまして、フォレスティ伯爵家として、王子殿下との婚約については改めてお返事をさせていただきます」
オーロラは落ち着いた表情で、淡々と言葉を返した。
オーロラは心を決めた。
父に話そう。
婚約の辞退を申し出るのだ。
場合によっては、父の仕事にも影響するかもしれない。
自分ももう、王都にはいられなくなるかもしれない。
それでもいい。
王妃の狙いが何なのかは、もうどうでもよかった。
アレックス王子の命が自分のために危険にさらされることがなければいい。
『真実の愛』に一生出会えないかもしれない。
それでもいい。
王子との婚約を解消された不名誉な令嬢。
修道院に入ることを勧められるだろうか?
少なくとも、人のたてる噂は、さらにひどいものになるだろう。
(それでも、今よりはいいのだわ)
オーロラは心の中でつぶやく。
もう、オーロラの足は止まらなかった。
室内から聞こえてくるミレイユの声をシャットアウトするように、オーロラはドアを閉めた。
「オーロラ嬢?」
ドアの外で待っていた、オーロラの護衛騎士が不思議そうに声をかけた。
「お早かったですね。もう終わったのですか?」
「あ……」
オーロラは顔を上げて、護衛騎士を見る。
王宮に来る時にだけオーロラに付けられる騎士。
その時間によって、担当する騎士は毎回異なったため、今まで、オーロラはあまり注意を払ったことがなかった。
しかし今、初めて気づく。
(そうだわ……王宮の騎士ということは、お父様の同僚なのだわ)
オーロラを見下ろす騎士の表情には、労りが見えた。
(……部屋での会話が聞こえていたのかも)
その瞬間、抑えていたオーロラの感情が爆発した。
表情のないオーロラの顔。
彼女のアイスブルーの目から、ぽたぽたと涙が続けてこぼれ落ちた。
「オーロラ嬢!?」
動揺した騎士が、思わずオーロラに手を差し出す。
その瞬間、オーロラは我に帰った。
(お母様の教え……男の子には近づいてはいけない。人と目を合わせてはいけない。関心を引いてはいけない)
「!!」
ふるり、と体を震わせると、オーロラは弾けるように駆け出した。
「オーロラ嬢!!」
「お嬢様っ、お待ちくださいませっ!!」
「オーロラ様!!」
「フォレスティ伯爵令嬢! お待ちをっ!!」
オーロラの護衛騎士だけでなく、騒ぎを聞きつけた他の騎士も合流して、オーロラを追いかけ始めた。
バタバタ、という足音が王宮の廊下に響く。
「何かあったのかもしれない。誰か、フォレスティ伯爵に連絡を!」
その声を聞いて、オーロラはあわてた。
(待って! 今、お父様にご迷惑をかけるわけにはいかないわ)
オーロラは泣きながらでも、亡き母の言いつけを守って、男性騎士とは一切目を合わせない。
オーロラは器用に護衛騎士の間をすばやくかいくぐって、廊下をひた走った。
「うお、早っ!!」
「あんな落ち着いた令嬢なのに、案外足が早いな!?」
「さすが、フォレスティ伯爵の娘だ!」
「感心してないで、急げ!!」
騎士達は焦ってオーロラを追いかけた。
一方、オーロラはドレスをつまみ上げて必死に走っていた。
もう心の中は大混乱。
(どこでもいいから、ひとりになって、気持ちを落ち着かせないと……)
涙は後から後からこぼれ落ちる。
その時には、すでに王宮内で見覚えのない一角に迷い込んでいたが、遠くではまだ自分の名前を呼ぶ声が聞こえている。
オーロラは左右を確かめると、廊下から庭へと降りるドアを開けた。
そのままするり、と庭園に入り込む。
(三十分ほどしたら、そっと抜け出しましょう)
オーロラは柔らかい芝生の上を歩いて、大きな木の下にそっと座り込んだ。
何の木だろう。
大きくて、きっと古い木なのに違いない。
まるで中庭の主のようにたたずむ、ゴツゴツとした木の姿に、オーロラはふと心が和むのを感じた。
この木の陰なら、廊下側から見えることはないだろう。
走ったので、足が痛かった。
靴を脱いで、木に背中を預け、ほっとため息をついた時だった。
「ご令嬢———どうかなさったのですか?」
オーロラの頭上から、優しげな声が、降ってきた。