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第8章 色の秘密

タマホメとの別れはイザヨイに再び大きな感銘を与えるものだった。肝入りで取り組んできた久礼亜との縁がめでたく切れ、いよいよ大夢の相談に本腰を入れようとするが、福神の回答も、それに対する上司イナミの反応も、ただただイザヨイを幻滅させる。そこへたまたま鉢合わせた同期のナマメが、組紐の色の謎について気になる話を持ち込んで――



 「トリアージ?」

 ナマメは真面目な顔で頷いた。

 「その人の旦那さんの事を話したでしょう――災害や事故で一度にたくさんの傷病者が出た時に、緊急度や重症度によって手当の優先順位を決めるらしいんだけど、その等級に応じた色分けがあって、一目見て分かるように札を付けるんだって」

 ナマメが担当しているケースの話だ。大きなビル火災で夫を亡くした人から聞いた事であると言っていた。

 「それで」

 私も声を潜めた。私にも組紐に通じる話であるように思われたのだ。

 「等級は四段階。優先順位の高い方から、赤、黄、緑、黒」

 「――赤、黄、緑はスペクトルでいえば波長の長い順か」

 「組紐の色と置き換えられない? もしも虹色の順に配列してみるなら」

 私たちは見つめ合った。

 「赤は最も緊急度が高い。波長が短くなるにつれて優先度が下がる? では黒は」

 「黒は五色(ごしき)でいえば紫でもある」

 「黒の札の意味は」

 「救命の余地がない。だから組紐の紫は――ほとんど打つ手がない」


 もしもこの仮説が真実であるならば。

 私の脳裏に次々と断片的な記憶が浮上して、パズルのピースのように組み上がってゆく。あのトミテが手に負えなかったという菖蒲(あやめ)色。何の手がかりもなく死のにおいだけがする葡萄色(えびいろ)の薫。その優先順位を下げろと言ったイナミさん。鬱病は難しく福神が押し付けたがると言った先輩たち。翡翠色が二度目には藍色になった鬱病の大夢(ひろむ)。衝動的で変化の目まぐるしかった牡丹色の沙智。期限を決めていた柿色の眞輝。解決策の点では明確で手を打ちやすかった檸檬色の久礼亜(くれあ)――。

 「待って。病は重症度が高いほど、優先順位は低くなるのか?」

 ナマメは答えず、私を気づかうように見ている。

 ふと、冴を追った件でお呼び出しを受けた時のことが思い起こされた。

 執務室の外の庭を歩きながら、ウミヤメ様は私に言われた。


 《神にも救えぬ者はいる。そなたの職務は救える者を一人でも多く救うことだ。そのためには、一人のために他を疎かにしてはならぬことになる。救えぬ者は捨てる判断をするのもありだと、我は思う》


 《一人も余さず救いたいと必死になる気持ちは我にも理解できる。だが、それは不可能であることをそなたは死神として受け入れてゆかねばならない》


 「より重い者ほど、優先度は下がるのか?」

 イナミさんはこうも言った。


 《僕たちの仕事は人助けではないからね。自殺しないで済むように色々としてやるけど、それは手段であって、目的ではないんだよ》


 愕然として、めまいがした。忘れていたが、死神もまた、理の綻びを正すための神だ。


 ――これが死神の、私の仕事なのか。


 私の目の前に浮かんだのは、救いようのない冴を引き取られたタマホメ様――ウミヤメ様がこうも変わらないとはと呆れられた、於妙様の後ろ姿だった。


     ***


 「ある自殺事件に世間が衝撃を受けているの。メディアは後追いを恐れて必ずといっていいほどそれ用の相談ダイヤルを添えて報道している。動機を巡ってはインターネットに、さっそく憶測が飛び交っているわ」

 いつものことだ、という口調で薫は言った。

 「落ち目だったわけでもない、世間から見て華やかだった著名人が自殺すると、あれやこれやといかにもらしい理由が付けられるのよね。気が優しくて繊細な性格だったとか、忙しすぎたとか。そういうわかりやすい理由のなかった例だって、あると思うんだけど」

 「理由のない例、ですか」

 「ふとした時に、落とし穴のように吸い込まれる死だってあるんじゃない」

 どうなのだ、と彼女の目は私に問うている。

 「私たちにも理由を解明できない例はあります。でも、薫はなぜそう考えたのですか」

 「なぜって。観察していればね」

 勉強に戻ろうと机の方へ身体を向けかけて、彼女は不審そうに私に尋ねた。

 「どうかしたの?」

 「いえ。――初めて会った時、薫は何を考えていたのですか」

 薫は瞬きをして、顔を曇らせた。

 「さあ。何だったかしら。少なくとも死にたいとかいうことではなかったわね」

 そう言って、今度は完全に机を向く。

 だが後ろを向いてしまってから、ぽつりと言葉が続いた。

 「どうしてこういう生き方しかできないのかと思うことはあるわ」

 「こういう生き方、というのは」

 「欲張りというか、生き急いでいるというか。もっと気楽に楽しくやればいいのに。って」

 それは初めて彼女が自分自身の言葉で紡いだ思いであるように聞こえた。

 「楽しくはないのですか?」

 「楽しいわよ。充実していて」

 オレンジのマーカーペンを置いて、再び私を見る。

 「わたしに言わないでいることがあるわね?」

 私の目をまっすぐに見据える彼女の眼光は鋭かった。

 「気持ちが悪いわ。はっきりと言ってくれない」

 私はゆっくりと口を開いた。

 「あなたからは死のにおいがするのです。いつでも」

 はぐらかしてしまうよりも反応を見ようと、私は思ったのだった。

 薫は訝しんだ。

 「なぜ? 動機がないのに」

 「それがわからないのです」

 「不吉。何それ」

 困惑しているのか、眉間を指で押さえて深く溜息をつく。

 「けど死神が言うと説得力があるわね」

 「申し訳ないです」

 薫は目を開き、再び私を見返した。

 「しつこく付き纏うのも、組紐が切れないのも、そういうわけなのね。でも、わたしには本当に動機がない。どうしろというの」

 打つ手がない紫。だが真に救いようがないと仮定するなら、上はなぜ敢えて出動命令を出すのか。自殺対策班(うち)も仕事は常に飽和していて、介入しても無駄なケースにまで手が及ぶはずはない。その段階で選別が行われているはずで、おそらくは人間の力で救える者については人間に委ね、神にしか救えない者が選ばれている。つまり私を遣わしたからには薫に対しても、死神としてできることがあるはずなのだ。私にしかできないことが。

 「初めて会った時に言いましたね。誰にだって死にたいと思う瞬間くらいある、と。薫はどのような瞬間に死にたいと思うのですか、希死念慮と呼ぶほどのものではなくても」

 薫はしばらく考えていた。

 長い沈黙だった。

 ようやく返って来た答えは短かった。

 「笑っている時」



 《櫻井薫が言いそうなことではないかもね》


 いつか彼女は言った。周囲のもつ印象が彼女の推し量る通りであるなら、本来の彼女とはだいぶ解離しているのでは、と投げかけると、彼女はこう返した。


 《別に。わたしは素直にそういうキャラクターを演じているだけ》


 ギャップがあることに息苦しさを感じるか、と問いかけたことへの答えだった。

 学科の仲間たちとつるんでいる時の彼女のやや鼻持ちならない振る舞いが脳裏をちらつく。仲間たちには言われていた。

 初めて彼女から死のにおいが漂うことに気がついた時だ。


 《小さなことでごちゃごちゃ言う男なんかと付き合わないよね、櫻井さんは。さすがは大きな世界に住む人》


 また、クリスマスに恋人に会いに行くかと尋ねられて、それだけのために渡米はしない、そんなお金はないと答えた彼女にはこう言う人がいた。


 《誰よりもお金持ちじゃない》


 やっかみのようなことを言われて、薫は戸惑う様子も困った表情も見せなかった。ふつうに笑っているように見えた。

 「どのような場面でも、笑う時にはいつもそのような感情を抱きますか」

 「そんなことはないけど」

 前髪を掻き上げ、眉根を寄せる。私はもう少し探りたかった。

 「それは、希死念慮というよりは虚しさのようなものですか? 周囲の目に映っているのはあなたが演じている櫻井薫で、本当のあなたではない、というような」

 「前にも訊かれたように思うけど、わたしはそういう話をするのが嫌いなのよ。本当の自分だとか、ありのままを受け入れてくれる他者だとか。内面と外面が違っているのは悪い事なの? わたしにはそれが不健全な事だとは思えないわね」

 その声音に彼女の闇には分け入るべきではないと直感した。

 それ以上に彼女のプライドに触れることは害悪になると判断して、私は頷いた。

 「そうですね――薫は立派です。どんな話をしても、感心するばかりです」

 薫は答えなかった。机の上に伏せたきりの写真盾を見ていた。


 薫のために私は何をしてやるべきなのか。道筋が見えたように思えた。


     ***


 「ただ鬱病だろうとだけ言われましたよ」

 大夢は開口一番にそう報告した。初診の予約をなるべく早く取れる精神科に行き着くよう、運を動かした結果だった。

 「いただいたのは眠剤だけです。抗うつ剤は、行動に移してしまう危険がある人には出せない、と言われました。事実、私には前科がありますし」

 今夜も部屋の隅に壁に背をつけて蹲り、ワーキングデスクの方へと顔を向ける。処方された薬が入っているらしい小さな紙袋が置いてある。

 「でも、この先もしも抗うつ剤も出されることになったとしても……飲むかどうかは迷います。一度飲み始めたらまた、終了までに何年もかかるので」

 「そうとは限らないのではありませんか」

 「もう一度行くかどうかもわからないです」

 彼のような重症例では心療内科よりも精神科の方が適応しているらしいことが判明したため精神科にしぼり、いい加減な処方を取る医院ではないという視点でも、慎重に選んだつもりだったのだが。本人の感触としては満足のいくものではなかったらしい。ケース会議での先輩からのアドバイス――病院に行かせて、薬と通院を勝手にやめないように監督するくらいがせいぜい死神にできることだと言われたのは確かにその通りで、それだけでも決して簡単ではないのだと、新たな教訓を得た気がしてくる。

 大夢は申し訳なさそうに頭を掻いた。

 「神様にわざわざ関わっていただいているのに申し訳ないです。ただ――私自身としてはやっぱり積極的に治療したいとは思えないのが正直なところなんです。そんなことをしたって意味がない。寛解しても無駄なんですから」

 「無駄、というのは」

 大夢の声には再び別の声が重なっていた。以前聞いた時よりもはっきりと。

 「前にもお話したように思いますけど、生きたところでどうせ私は人並みの人生には戻れない。社会的には、もう終わってるんです」

 そう言って、自分の言葉に傷つけられたようにうなだれる。

 「それは、誰かが大夢さんに向かって、そう言ったのですか?」

 ややあって、彼は本当かどうかわからないことを言った。

 「誰かが私に対して直接というより、ネットにはそういう意見がままあります」

 「本当ですか? 何を見ていますか」

 彼は口ごもり、つじつま合わせをするように言葉を濁した。

 「……ネットはそこまで直接的じゃないかもしれないですけど、要するにそういう事を書き込んでいる人は多くいますよ。それへの賛同や、同調する意見も。見なければいいんでしょうけど、避けているつもりでも目には触れます」

 彼のスマートフォンは今ベッドの上にある。

 「大夢さん自身はそんな風に考えているのですか?」

 違うのだろうと念を押すつもりで、私は尋ねた。大夢は答えた。

 「私自身そうだと思うんですから、まあ私の考えといっても差し支えないと思います」

 「では同じような状態にある他の人についても同様に考えますか?」

 「いえ、それは違います」

 大夢は慌てたように声を大きくして、素早く否定した。

 「それは違います。あくまでも私個人に対して、そう思うだけです」

 気まずい沈黙が流れた。お互いにというより、大夢が気まずくなったようだった。彼は自分が他者に向けるという視点に立てば、それが酷い言葉であることを理解している。

 「では同じような人に対して、あなたならどんな言葉を投げかけますか」

 「……そんな冷たい奴らの言うことなんかに負けてはいけない。終わってなんかいない。って、言ってあげたいです」

 声が震え、大夢の目から大粒の涙が零れた。

 だが、さらに言葉が続いた。

 「無責任ですけどね……言うだけなら、他人は何とでも言えますから」

 もらい泣きこそしないが彼の苦しみに胸が痛んだ。想像力もなく、無責任に人の心を踏みにじり、嘲り、大夢をこのようにした者たちへの怒りを覚えた。

 初任者研修で私たちは教えられたのだった、傾聴に求められる共感的態度を同情や同調と混同してはならないと。悲嘆その他あらゆる事柄についてケースとは心理的に距離を置くこと。語られる言葉に引き込まれないこと。同じ目線に立たないこと。

 私はその技術を比較的すんなりと習得した。私の仕事は彼らに歩める道筋を示し、それを阻む障害を理に適う限りで取り除いてやることで、大夢には何ができるのか、今この瞬間も探っている。

 けれど目の前で泣く人の思いには想像を巡らせてはならないこと――それはもはや、私にはできないことになっていた。



 翌日は正午を待たずに登庁し、大夢のために、詰所に置いてある儀式の辞書を調べた。薫の六法全書の倍の厚みはある、巨大な書物だ。

 生者が生す邪悪なモノとは、生霊だけではない。言葉そのものが呪う力を持つことがある。私の推理では、おそらく大夢が自らそのような歪んだ思い込みをするようになったのではなく、病を得た彼に対して実際にそれらの言葉を投げつけ侮辱した何者かが存在したのだ。その心の傷をさらに抉るようにして、彼がいうところのインターネット上の言説が断続的に這入り込んで祟りつき、彼の精神を蝕んでいる。

 大夢が抱える問題とはこのように複雑なものだ。治すべき順序として、病そのものは最後かつ先輩が言うように人間の医療に委ねるべきものなのだろう。そして心の傷を治す以前にしなければならないのが、この言葉の呪いの影響の排除だ。それこそが悪しき気への感染を防ぐために私がやるべきことであり、死神の私にできうる処置だろう。

 しかしこれまでのところ私が施してきた奇跡はほとんどが運や人との繋がりの操作であり、呪いを解くというのは経験がなかった。時間をかけてようやく見つけ出した方法は難解で、かなり大きな力を使う高等術であるように思われた。夜にせよ昼にせよ、これを行う日は通常の訪問を行うことは私の体力を以てしても無理かもしれない。

 真昼の光の射し込む詰所で私は考えた。

 鬱病は死の病だ。自殺対策班が乗り出しているからには本当に死ぬかもしれない。また邪悪な人間によって傷つけられ今も蝕まれ続けている精神が生霊を生む事態になれば、彼は沙智のように霊魂を失い、その霊魂は祟神によって駆除されてしまう。捨て置けば理を害する悪しきモノとして。

 一人のために他を疎かにしてはならないと、ウミヤメ様に教えられた。

 そのウミヤメ様への憧れだけで、私はこの仕事に留まり務めてきた。あの辞令の日、まさかの死神課への配属にすっかり気落ちして、始める前から半ばやる気を失っていた私にとりあえずの情熱を授けたのが、美しく凛々しいウミヤメ様の威厳だった。


 《そなたにすっかり憧れておるのだ。それにあまり言うことを聞かぬ》


 私の前でタマホメ様に言われたお言葉が耳を過ぎていく。

 タマホメ様は真似をするなと仰る。マカツもタマホメ様に傾倒するなと言う。

 だが私は、真似をするのではない。やはり一度(ひとたび)縁を結んだ者を切り捨てることはできない。薫のことも然りだ。もしナマメと導きだした残酷な仮説が自殺対策班の真実の顔なのだとしても、この先その色が示す優先順位に従って手を抜くことなどできない。

 なぜなら人の命の重みは平等であり、死の重みもまた平等なのだから。



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