漆
第7章 別れ
茜の犯行を幇助したとして罪に問われる冴。しかし共に審判の場へと引き立てられ冴に関しての責任を問われたタマホメは、茜の件を含めすべては自分が責めを負うべきことであると冴を庇ってみせる。そして自分を試した冴にただ一言、おまえは私と共に死ぬ覚悟があってやったのか、と問いかけるのだった
《今はタマホメなどと堅苦しい名を与えられ、このように立派な袈裟まで着せられているが、いずれもあまり好きにさせぬよう、私の動きを封じるものだ》
以前西でお会いしたとき、私は素性が違うのだと、タマホメ様はお話しになった。
その時のことを、私は目の前の情景に重ねて見ていた。
審問長は閉会を宣言し、場内はざわざわとして多くの神が席を立ち、出口へと向かって行く。その場に留まっていると誰かに声をかけられた。
「予想以上に厳しい処分になりましたね」
見ると、銀色の眼鏡をかけた年齢不詳の男神がいつの間にかすぐ側に立っていた。
「マカツさん」
私に目配せをして、声を出さないようにと指を立てる。
「タマホメ様はね、あれでも冥府では上から三番目くらいに偉い神様だったんですよ。何しろ強くて恐ろしいし、人気が高いんです。特に鬼の間では」
マカツは私の反応を見て、面白いだろう、と言うようにその話を続けた。
「冥府は神こそ専門職だけど数では鬼の方が圧倒的に多くて、働く者の七割をも鬼が占めるからある種の力を持っている。そして鬼たちはタマホメ様が好きなんです、大半の神とは対照的に。人間でありながら鬼になった経歴にも好感を持つようだし、一番は賽の河原を改革して託児所みたいな性格のものにしてしまったことかな。あれは鬼たちの間では大昔から可哀想だと批判されていて、廃止を求める声が根強くあったものだから」
ある時に賽の河原は変わったというのが、タマホメ様の功績であったとは。しかしマカツの語り口には敬意が感じられなかった。私を神だと認めている神はいない、とタマホメ様が話されたのを思い出す。
「救済制度は存在していたし、理は理であって時勢などに合わせるべきではないんですけどね。誰もやりたがらなかったのがわざわざ希望する鬼が出てくるような配属先にはなった。それで冥府としてはあのお方の扱いにずっと悩んできたわけです。それがとうとう」
――天邪鬼に影を喰われ、その天邪鬼の影を奪ったという話も初めて聞いた。
天邪鬼のおこりはその昔、主神を陥れた罪で邪鬼として祓われた下層の女神にあるというが、後には悪霊と呼ばれるモノのうち、下界に居て、特に人間の心を探り読み、口真似などで欺く悪鬼をいうようになった。悪鬼の悪戯とは人を喰うことであるから、出会ってしまったが運の尽き、という類のモノだ。その天邪鬼を凌いだとなれば闘いの顛末は壮絶なものであったと推し量られる。
タマホメ様はどのような思いでその後の二百五十余年を生き、最後に冴のような子どもを引き取られたのだろうか。
おそらくは冴に試されているのだとわかっておられた。止めなければご自身の立場を危うくすることも当然おわかりであっただろう。それを敢えて庇ってみせられたのだ。
「本当にタマホメ様が好きなんですね。それは良くないな」
私の顔をまじまじと見るマカツは、例によって感じの悪い薄笑いを浮かべている。
「命取りになりますよ、あまり傾倒してしまうと。人間に堕ちてしまう」
「まさか」
「そういえば、あの時は瘴気にあてられませんでしたか」
ラゴウにも言われたことだと思い首を傾げると、彼は言った。
「知らないんですか。死霊はね、腐敗が進むと周囲の気をも穢すようになるんですよ。それを不用意に吸い込むと、神でも病気になるんです」
「ああ――、いえ、少し気分が悪くなりはしましたけど、精神的なものかと」
ふうん、と鼻を鳴らして、マカツは目をすがめた。
「一月程度ではあそこまで腐らないものなんですけどね。おそらくはあの子が傷に穢れを塗り込むようにして力とともに〈悪しき気〉をうつした。タマホメ様があのように庇われたからといって、お咎めなしというわけにはいかないと思いますよ」
私ははっとして尋ねた。
「その〈悪しき気〉とは何なのですか? マカツさんがあの時、穢れを残さないようにと怨霊の残骸を浄化されたこととも関わりがあるのですか」
大夢について尋ねたことで、イナミさんの口からもその語句を聞いた。福神に相談すべきか考えていたところだった。
「死霊と生霊とを問わず、悪い霊が広める穢れで、憑けば霊魂を蝕む病原菌のようなものというのかな。死霊に憑けば腐敗を早め、生身の人間に憑けば憎悪や怨念を掻き立て、そのまま生霊にまで育てることもある。要は感染性があるんです」
「では、その〈悪しき気〉への感染の兆候を見せた霊魂に対しては、治療法にあたる手立てはあるのですか?」
マカツは肩を竦めた。
「僕は取り締まる方を仕事にしているのでね。治療のことなら、福神に訊かないと」
審問官たちが戻って来て、聴衆もまばらなところで冴の審理が行われた。審理といってもこちらは形式的な手続きといった具合で、結局冴は天邪鬼と烙印されるのみで後はタマホメ様の願われた通りになった。
冴が連れて行かれると、タマホメ様は迎えに来た武装の神々に応えて再び立たれた。ウミヤメ様が遠くから私に目配せをして外へと向かう一行に近づかれ、私もそれに続いた。
「於妙よ。あのように己の非を認めなければ、これほどまでに大袈裟な沙汰を下されることはなかったのではあるまいか」
ウミヤメ様が問いかけられると、タマホメ様は意を得たように苦笑いをされた。
「あいすまぬ、わざわざ庇いに来てくれたというのに。だがあの子に任せたのは私だから、私が責めを負うのが道理だろう。それに私が鬼になったそもそもの理由が己の親不孝への報いであったからな、これは因果だ」
御顔はウミヤメ様を向いておられても、私に語られているかのようだった。
「もう百年にもなるのか。私はここで、死罪ともなるべきところをあなたによって神に推し挙げられた。こんなに長くやるとは思わなかった」
「我は、そなたがここまで変わらぬとは思わなかった」
タマホメ様は微笑み、私は変わらぬよ、と言われた。
「それで。なぜイザヨイをこのような場に連れて来た?」
今度はウミヤメ様を非難されるような御声である。
「そなたにすっかり憧れておるのだ。それにあまり言うことを聞かぬ。こうでもしなければ慕って追い回すかもしれぬと思ってな」
「おや。前にも言ったのだがな」
タマホメ様は呆れた御様子で私に警告された。
「私の真似をするな。身を滅ぼすぞ」
「タマホメ様。そろそろ」
畏まる私の前で護送の神が促す。
「うむ。ところで私はもうタマホメ様ではない。名を呼ぶならば妙でよい」
《今も昔も私は妙だ》
あの時もタマホメ様はそう名乗られた。その御名を大切にされている御様子で。
別れを告げるように私たちと目を合わせられると、於妙様は前を向いて去って行かれた。
***
偶然にも、久礼亜の縁切りの儀式を執り行う日だった。
先に本人に予告した通り先日の縁切神とともに降臨すると、久礼亜は人見知りするような顔をして小さく頭を下げた。すでに目当てのホームに入所し、様々な事情を抱える少女たちとの共同生活を始めている。
久礼亜が人目を忍んで庭に出ると、縁切神は円形の結界を張り外界からの干渉を遮断した。その中央に久礼亜を座らせ、額に手を翳して呪文を唱える。すると彼女の背中から幾筋もの青い光の糸が線のように伸びて辺りの闇の向こうと繋がった。縁切り神は袂から銀色に光る鋏を取り出すと、その糸を一本ずつ切断した。
儀式は短く、あっけないものだった。
「これであなたは自由です。後の憂いなく健やかにおなりなさい」
縁切神が言った。私は久礼亜の側に座して彼女と揃って頭を下げた。
「では私はこれにて」
縁切神は察したのか、それ以上は留まらずに去って行った。結界が消えて、街灯が一つぽつんと照らすばかりの闇に包まれ、私は彼女に向き直り、久礼亜は縁切神のかき消えた跡をどこか呆然として見つめている。
「久礼亜」
彼女の顔がこちらを向いた。目には薄らと涙の膜が張っている。
「もう大丈夫。あなたを縛り、脅かすものは何も残っていません」
「神様、行かないで」
か細い声で、久礼亜は訴えた。
「行ってしまわないで」
すると彼女の言葉が鋏であったかのように、私たちを繋いでいた檸檬色の組紐の二本ともが同時に切れ、それぞれの膝の上に落ちた。その膝に、久礼亜の涙が一粒落ちた。
私は微笑み、両手で彼女の手を包んだ。
「これが切れたということは、あなたは生きていけるということです」
久礼亜はぽろぽろと涙を溢し、私を見つめたまま首を振った。
「これからは、あなたの周りにいる人たちに支えてもらって、新しい人生を切り拓いていきなさい。大丈夫だから。幸せになって」
「ボクのことを忘れないでくれる?」
私は笑って頷いた。
「ええ、絶対に。ずっと忘れません」
彼女は袖で涙を拭った。私は二本の組紐を拾い上げると、懐から銀のライターを取り出し、火を点けた。切れた縁は明るく燃え、一筋の煙となって消えた。私の姿が見えなくなってゆくのを、久礼亜は瞬きせずに見守っていた。
離れがたい思いは、私たち死神はたとえ抱いたとしても、別れの時には完全に断たなければならない。再び繋がるような縁を後に残してはならないからだ。しっかりと切り替えてから次の訪問へ赴けるように誰もいないどこかの公園に降り立つと、堪えた涙が一筋、頬を伝った。心を込めて仕事をするからには感謝されたい。そんな私の煩悩を久礼亜は満たしてくれる存在だった。彼女の前では私は「死神」ではなかったし、まっすぐに私を必要としてくれた。それだから格別にかわいかったのだろうと、俗物な自分を自分で認めている。
けれどきっとそれ以前に、私は彼女を愛していた。そうでなければこんなに満足していないだろう。
「ほんまに長い一日やったなあ」
一通りの訪問を終えて家に帰るとアシタレが労ってくれた。昨夜は来ず、私からは話していなかったから、冥府の沙汰の件は川原で耳にでもしたのかもしれない。
「神様でなくなられたんは寂しい気もするけど、当のタマホメ様が納得してはる御様子やったんなら、何よりの救いや」
「本当に尊いお方だ」
最後に、皆が見ている中で冴に問いかけられた御姿が心を離れない。おまえは私とともに滅ぶ覚悟があってやったのか、と、尋ねられた時、私は鳥肌が立った。冴は答えられなかった。撃たれたように動かなくなり、それから慄き、ただ一言「ごめんなさい」と謝った後には嗚咽しか聞こえてこなかった。
なんと大きな愛を、あのお方は冴に注いでおられるのか。神の間で何と言われようとも、あれほどに大きなお方を私は他に知らない。
***
明けた翌日、私は登庁前に福神課に出向いた。縁切神に昨夜の礼をするだけのためではなく、大夢の件を本当に相談してみようと考えたのだ。だが聞いていた通りというべきか、対応してくれた幸福班の福神は困ったように首を捻った。
「まあね、心の傷は福神課ということにはなっているんだけど……」
幸福班の事務室で、縁班にあったのと同じような机を挟んで向き合っている。死神課では他所からの依頼はすべて長であるウミヤメ様に直接申し出てもらうことになっているが、他課ではこのように事務を介して役職者が応じるのが一般的なのかもしれない。このイナミさんより少し若そうな太った男神は、赤い頭巾を被り、ゆったりとした白い衣に赤い帯を締めている。華やかな女の福神と比較すれば飾り気のない身なりだ。
「怨みが絡みかけてるなら祟神の方に行ってほしいな……そっちの方になるとちょっと福神では対応できない」
「祟神課の怨霊班を出た上司に、こちらだと言われたのです」
うーん、と唸って、福神は額を掻いた。
「そうだよねえ……、死神課のイザヨイさんというから、イナミさんのところの子だよなとは思ったんだけど」
どういう風に知られているのか。これほど行く先々で言われるとさすがに気になる。
「ただねえ、人間というのは本当に身勝手な生き物で、福神に来る願い事はほとんどが理を外れたものでね。仮に欲しがったものが手に入ったとしても、まだ足りないと言ったり、持て余して悩んでみたり、他のものを欲しがり始めたり。あれがほしいこれがほしいという願いを聞いてやっても人間は幸せにはならない。だから心の傷もね、縁切神のような儀式があるわけではないから、何を施せば癒えるのか、というところで結局は同じ問題に行き当たるんだよ。その人間だって、自分を捨てた恋人が戻ってくれば慰められるのかい? それは相手にとっては幸福なことなのだろうか。気の毒だとはいっても、何ができるのかを考えてもらえたら、わかるんじゃないかな」
それを一緒に考えてほしかったのだが。
ここまで聞いただけでも、私は食い下がっても無駄であると感じた。福神の仕事もまた、理の綻びを正すことに限られる。立ち返ってみれば当たり前のことだった。
「死神課の方は皆さん真面目で熱心だから、がっかりさせてしまう」
顔を見ると、福神はすまなさそうにしていた。
「尊い仕事をされていると思いますよ、僕らから言わせたら。特にあなたの班は」
「……いえ。恐れ入ります」
「ではこの件については、相手の不幸を願うような方向へ傾いてしまった時には祟神課に行っていただくということで。よろしいですか」
そうなるのか。ラゴウには会いたくないと思いつつ、頭を下げて席を立つ。
「まあまあ。少しは肩の力を抜いて。あまり根を詰めないように」
事務室の戸口での別れ際に、福神はそう言って綺麗な色の飴玉をくれた。
根を詰めない。そういうことではないんだけどな。
「やっぱりそんな回答になっただろう」
西を出て死神課に登庁し、収穫がなかったことをイナミさんに報告すると、笑われた。
「福神に幻滅したかい。でもね、我々自殺対策班の方が異色なんだよ。自殺を阻止しようという生前介入はウミヤメ様が変死班の長であられた時に改革された考え方で、それ以前にはなかった。神の仕事の基本は問題が生じた時に動くというものだから、未然に何とかしようとする発想そのものが他課には馴染まないんだよ。第一そんなことを言い出したらすぐに飽和してしまうからね。失恋も心の傷も病も、あまりにもありふれている」
「……はあ」
冷たい。と思うのは、私がおかしいのだろうか。
以前の私であれば、冷たいとも思わなかっただろうか。
「ところで、出たところの張り紙を見たかい」
何のことか思い当たりもしないと見て、イナミさんは言った。
「昨日の夜下界ではとある著名人が自殺したんだ。影響を受けて後を追う者が出るかもしれないから、リスクの高いケースについては動向を注視するように。詳細については張り紙に記載があるから。ちゃんと読んで」
他課の協力は得られないとなると、大夢の事はどうしようと頭を悩ませながら退出したところで、張り紙を読んでいたナマメと目が合った。
「びっくりした」
同時に言って、おかしくなって笑う。
「なんだ。よく会うよね、最近」
「ねー。ああでも、会えてよかった。こないだは話の途中になったでしょ」
ナマメははっとしたように詰所の中に気を配り、周囲には誰か聞いていないかと首を巡らせると、私の腕を掴んで近くの資料庫へと連れ込んだ。古い記録を集めてある、滅多に使われることのない狭い部屋だ。きっちりと戸を閉め、念を押すように外に聞き耳を立ててから、彼女はようやくひそひそ声を立てた。
「色の話。私さ、下界でその話を聞いた時にぱっと組紐のことが頭に浮かんで、似てるな、って思ったの。トリアージっていって」