陸
第6章 愛と怨み
大夢にも薫にも、一向に落着への道筋が見えない――そんなある夜、お尋ね者になっている「冴」がふいにイザヨイの家を訪れる
「――冴」
私が驚愕するのを見て冴は不気味な笑顔になった。
「追われてるの。知ってるでしょう?」
私の家の前まで来た。そのことに底知れぬ恐ろしさを覚えて、私はその濡れた石のような黒い瞳を見据える。
「中に入れてよ。匿って」
「駄目だ」
アシタレが後ろから顔を出す気配があり、冴はもう一人の存在に気づくと、私の肩越しに憎たらしそうに奴を睨む。その一瞬の隙を突いて、私は彼女の子どものような腕を捻り上げた。冴は驚いたような声を上げた。
「痛い。放してよ」
「このまま投降しろ」
「あたしを祟神に差し出せるの?」
瞳の奥に見覚えのある光をぎらつかせて、冴は尋ねた。
「沙智が死ぬのを止めようとしていたくせに?」
沙智の顔が目の前に浮かんだが、私は負けなかった。
「おまえは、沙智ではない」
彼女の目元がぴくり、と引き攣った。アシタレが横をすり抜けて言う。
「俺が先に行って祟神に報せたる。北第二やねんな」
「おまえ、茜のことに関わったのか?」
暗闇の中で睨み合ったまま、私は尋ねた。
「ちょっとだけね」
冴はニヤリとして、その話をしてやりに来たのだ、とばかりに説明した。
「戻って来てみたら虚しくなっちゃったんだって。あの女たち、子どもの頃に茜を苛めてたくせに、そんなことは忘れたみたいにふつうに幸せになっててさ、茜は理由もなく事故なんかに巻き込まれて死んじゃって。真面目に頑張ってやってきたのに、自分が生きた意味って何だったんだろうって――。話聴いてたらかわいそうになっちゃって、ちょっとだけ背中を押してあげたの」
「……何をした?」
「会った時はただの幽霊だったから、祟れるように冴の力を分けてあげたんだよ」
悪びれもせずに言って、私の反応を伺っている。
「なぜ」
さあ怒ってみろと、冴は私が挑発に乗るのを待っている。
わかっていて、私はこのことばかりは問い質さずにいられなかった。
「タマホメ様を裏切ったのか? おまえを助けてくださったタマホメ様を」
「冴のこと庇ってくれると思う?」
俄かに表情をかき消して、冴は言った。
「あたしが本当は悪い子なの知っても庇ってくれると思う? どんなに可愛がってくれたって、いい子にしている間だけだったらタマホメ様の優しさは偽物でしょ。あたしはそれを確かめないわけにいかないの。だってあたしは、沙智は誰からも本当には愛されてこなかったんだから」
私が信じ難い思いで見つめるのを悦んで、冴はさらに煽った。
「もしかしたらタマホメ様も困るかもね。こういう悪霊を引き取ったことで咎められるんじゃない。茜があれだけ殺したんだもの」
「ふざけるな!」
アハハハハ、と冴は声を上げて笑った。ほとんど恍惚とした顔をしていた。
「行こうよ、祟神のところに。イザヨイも困るかもしれないけど!」
***
冴の身柄を引き受けたのはラゴウではなく、宿直していた見知らぬ祟神たちだった。
「ああ、イザヨイさんなんですね。死神課の」
後に残った女の祟神が言った。皆がラゴウと同じ煙色のローブを着込んでいるため、見分けがつきにくい。死神課は黒無地であれば自由だが、彼らはそれが制服であるらしい。
「自殺対策班でしたっけ。あれの生み主を知っておられる方だと承知しています」
「はい――それで私を頼って現れたのかもしれません」
私の顔を見て、女神はフフッと笑いを漏らした。
「イザヨイさんが咎められることはないと思いますよ。その心配をなさっているのなら」
銀色とも見紛う青い瞳と目が合う。銀髪のかかる頬にかたえくぼを浮かべる彼女は、よく見ると美しい顔立ちをしていた。
「イザヨイさんには生み主との関わりしかありませんし、我々怨霊班に退治されるはずであったものを引き取られたのは、冥府のタマホメ様ですから。捕らえれば冥府に引き渡す約束になっていたのはそれゆえです。タマホメ様の従者ともなれば、我らには勝手に始末することができません。あれはそういうこともよくわかっているのですよ。尤も、タマホメ様の庇護を失えば己がどうなるのかまでは知らないのでしょうが」
冴の言ったことが思い起こされ、私は尋ねた。
「この度のことで、タマホメ様に累が及ぶことはないのでしょうか」
「それは冥府が決めることですから」
余計なことを考えるな、と釘を刺すように美しい祟神は言った。
「お気になさらないことです。あなたには関係ないのですから」
庁舎を退出するとそこにアシタレが待っていた。
「まあ、何百年も色んな子らを救ってきはったタマホメ様や。あの子みたいな恩知らずの困りものにも、慣れてはるやろ」
「……裏切りに遭って傷つくお方ではないのかもしれないが」
ずっと前にウミヤメ様が仰ったことを覚えている。タマホメ様の道理に縛られぬお働きには、冥府も常々手を焼いているのだと。冥府はもともとタマホメ様をよく思っていないのだ。このうえ冴の助命嘆願などするつもりはない。だが、タマホメ様が冴のことで責めを負う事にでもなれば、あまりにも不条理だ。
その夜私は眠れず、朝になってもなお、冴がタマホメ様の愛を試そうとしたことが信じられなかった。ラゴウから命を救っていただいたのに、その恩を忘れて。沙智も恋人相手に愛情を試すことを繰り返していたが、そこまでだとは思っていなかった。
そういえばあの祟神は気になることを言った。
《尤も、タマホメ様の庇護を失えば己がどうなるのかまでは知らないのでしょうが》
あれはどういう意味だろう。実は茜のことがあってから、私は不思議に思ってきた。タマホメ様は人間の娘から鬼になられて以降子どもの死霊の保護をなさっていたのだ。かつては懲罰的であったと聞く、賽の河原へ行くべきはずの子どもたちを。それこそは冥府に咎められ、ウミヤメ様によって冥府の神にと推挙された所以であるわけだが、異色の神であられるタマホメ様には死霊の腐敗を抑える霊力でもあるのだろうか。
そんなことが頭を離れないまま、私はその日一番に大夢を訪問した。十二月になってから再び籠りがちになっているためだ。
「外に出たくないんですよ。クリスマスが近いので」
その日、大夢は初めて写真を見ていなかった。ベッドの側に膝を抱いて蹲り、スマートフォンは机の上に伏せられている。
「見たくないんです。幸せな人たちを。恋人たちも、家族連れも」
何かこれまでと違うものを感じて、私は彼の前に膝をついた。
「わたしにはもう一生、大切な人はできないんだ」
「……そう決めつけなくても、良いとは思いますが」
「つい考えてしまうんです」
腕に顔を埋めたまま、彼は呻くように言った。
「彼女がね、いずれ別の人と恋をして、結婚をして、子どもを産むんだろうなって」
《虚しくなっちゃったんだって――真面目に頑張ってやってきたのに、自分が生きた意味って何だったんだろうって》
冴の声が囁き、私ははたと彼を見据えた。
――彼の挫かれた愛は、怨みへと変わるだろうか?
ラゴウの顔が頭をちらつき、背筋がゾッとして言葉を返せなくなった。
大夢を沙智の二の舞にしたくない。彼がラゴウの世話になるなど、受け入れられない。
けれど何ができるのだろう。私に考えられた手は、祟神課ではなく祟神の出であるイナミさんに訊いてみることだった。
***
「その可能性は排除できないね」
翌日、昼間の詰所でさっそくその件を尋ねた。今日も書類の山に埋もれるイナミさんは仕事の手を止めることなく答えた。
「心の傷に悪しき気が這入り込むと膿が溜まるんだよ。怨み、高じれば復讐心という膿が」
「……どうすれば食い止められるのですか」
「できることはあまりない」
そうですか、とは引き下がれなかった。
「みすみす悪くさせて、牡丹の例のようにはしたくないのです」
熱を込めて言うと、イナミさんはやれやれと顔を上げた。
「心の傷を癒せるのは福神だけど、他所からの依頼は受けたがらないからね。どうしてもと思うなら、自分で行って頼んでごらん」
「福神課の、幸福班ですか」
本当に相談するつもりかと半ば呆れて、鷹のような黄色い瞳が私を見返す。
「ところで、僕の方でも君に用があったんだ。先ほどウミヤメ様がわざわざいらして、君が来れば執務室に寄るよう仰せになった。他の事は後にして、今から行きなさい」
不穏な予感しかせずにその足で参上すると、ウミヤメ様は執務机の向こうから金刺繍を施した黒の打掛を翻し、跪く私の前に立たれた。
「久しいな、イザヨイ」
「はい」
最後に拝謁したのは、冴を追った咎で停職処分を言い渡された時だった。私のように役職に就いてもいない者が長神に呼ばれることはふつうない。良からぬことには違いないと覚悟して待つと、ウミヤメ様は私が想定したよりも恐ろしいことを仰った。
「必ずしもそなたに声をかける必要はなかったのだが、興味があるかと思ってな。明日の朝、我は冥府に出向く。タマホメの事で話をしてやらねばならぬゆえ」
驚いて顔を上げると、ウミヤメ様は膝を折って私の上に屈みこまれた。
「そなたも来るか? タマホメに会いたければ、引き合わせてやるが」
「あの――」
青ざめる私を見て、ウミヤメ様は安心させるように優しく微笑まれた。
「心配するな、そなたに責めを負わせることはない。何か咎められるとしてもそれは長である我が引き受けるものだ。そうではなく、そなたはタマホメに心酔しているようだからな。あれがどういう者なのか、知るにはよい機会かもしれぬ。どうする?」
ウミヤメ様にまで話が及んでいる。それだけでもどういう事態であるのか、私にはおおよその見当がついた。庇ってくださろうとも私が発端であるものを、呼ばれておいて知らぬ顔をするわけにもいくまい。おそらく私自身が罪に問われて引き立てられるよりも遥かにつらい場に行くのだと悟りながら、私は随行することにした。
***
雲に覆われて一際冷えた、薄暗い朝だった。
ウミヤメ様にいわれて私はふつうの礼装で参上し、付き従って冥府に足を踏み入れた。傍聴者はそれぞれの身分を傍目にはわからぬようにするものらしい。
ただ白い砂地を白い幕で四角に囲っただけの広場にはすでにまばらに老若男女の神々や鬼が集まり、正面の壇上にはマカツが着ていたのと同じ鈍色のガウンを着込んだいかにも貫禄のある神が五名も並んでいた。ウミヤメ様とは入り口で別れ、私は傍聴席の前の方に一人で座った。それは会場の両側に背面式に設けられた席で、審問官ではなく審判を受ける者の顔が皆に見えるようになっているのだった。場内はいつしか満員になり、仲間で連れ立って来る者もいるのか、日頃聞くことのない音量でざわついている。それが、審問官席の中央に座る長が一つ鐘を鳴らすと水を打ったように静まり返った。
その静寂の中に二本の角をもつ異形の神が入って来られた。縛めはないが四方を武装した神々が護送している。それらに抜き出る長身に白の直綴、金色格子の白い七条袈裟を纏う。束ねられた御髪は絹のように白く、目尻の切れ込んだ御顔は瑞々しく御年齢をまったく感じさせない。遠目にも見惚れるその御姿は凛として、このような場にはおよそ似つかわしくなくやはり美しかった。その後には冴が後ろ手に縛られて、こちらは鬼に連れられて来た。タマホメ様は中央に敷かれた筵に座り、冴はその左の地べたに座らされた。
タマホメ様はまるでこれが初めてではないかのように、常と変わらぬ涼しげな御顔をなさっていた。冴をラゴウから庇った時のように、背筋を伸ばして審問官たちと向き合う御様子は堂々として威厳に満ちていた。
審問長が口を切った。
「仁科茜という死霊が生前に怨みを抱いていた者を九名襲い、うち六名を実際に祟り殺した。この凄まじい犯行を幇助したとして、そこの、貴方が引き取ったばかりの邪鬼が嫌疑をかけられているのです、タマホメ様。事態をどのように受け止めておられるか」
「咎人は私です。この子に問われるべき罪はありません」
タマホメ様は開口一番に、平然としてそう言われた。
冴は首の後ろを係の鬼に押さえつけられたまま、タマホメ様の横顔を見上げた。
「私はこの子が隠れてしていることをすべて知っておりました。知っての上で、敢えて泳がせていたのです」
審問官たちは眉を顰めた。
「六名もの死者を生んだのですぞ。何ゆえ怨霊を止められなかったのか」
いずれかの審問官が問い質すと、タマホメ様はよく通る御声ではっきりと言われた。
「その者の成仏せぬ理由が恨む者への復讐へと転じたのであれば、果たせばよいと考えたからでございます。襲われ、葬られたのは仁科茜に怨みを植え付けた者ばかり。だがその者らの罪は冥府の法においてはあまりにも軽く、碌に成敗されるものではありませぬので」
私は目を見張り、場内にはどよめきが広がった。冴の顔は反対を向いていて見えないが、タマホメ様をじっと見ている。
「聞き捨てなりませぬな」
審問長が立ち上がると他の四名がそれに従い、彼らは壇上で頭を寄せて何やら合議し短い時間で頷き合った。
ざわめく聴衆を鐘で制し、審問長は咳払いをした。
「畏くも申し渡します。再三にわたる警告にも従わず理を軽んじる数々の身勝手な振舞い、いかにタマホメ様であられるとて冥府としてこれ以上は見逃せませぬ。まして怨霊の祟りにより死者が生じることを敢えて許したとは神にあるまじき行い。よって本日限りで神の名と籍を剥奪することとし、袈裟をお返しいただきます。この後は一介の鬼として余生を送られませ。ただし、次に此度のような問題を起こされた時には、天邪鬼から奪い得たその影を手放していただきます。この意味はおわかりになりますな」
眉一つ動かさずに聴いていたタマホメ様は他人事のように答えた。
「霊力を失えばこの身に二百五十年の時が流れ、たちまち煙となって失せましょうな」
そこへ審問官らの脇に控えておられたウミヤメ様が発言された。
「恐れながら、仁科茜の処分を待っていただくよう冥府に申し入れたのは私でございます。そのことがなければタマホメがこの件に関与することはありませんでした。その旨どうか今一度ご酌量いただきたく」
「私の命は天邪鬼に影を喰われた時に尽きたのです」
タマホメ様は重ねるようにして笑って言われた。
「今さらしがみつくものなど何がありましょうや。神の位にも我が身にも、もとより何の執着もございません。号も袈裟もこの場でお返しいたします」
ただ、と言葉を区切り、審問長のみを見据えなさる。
「この子の命ばかりは、此度だけはどうか私にお預けください。万が一にも再び害悪をなすことがあればその時に、私がこの子を連れて逝きます。それでお許しいただけませぬか」
審問官たちは苦い顔になり目配せを交わした。
「その者の沙汰は貴方とは別に、この後で下します。何かあるならばその場で改めて仰せになられませ」
後ろの二隅に控えていた白い衣の鬼が歩み出ると、タマホメ様は自らお立ちになり、その者らが神としての象徴であった七条袈裟を手際も悪く外すのに任せられた。
やがて鬼が下がると、タマホメ様は肩が凝ったとばかりに首を回し、清々しいような御顔をされて冴に微笑まれた。
正座のまま、冴はタマホメ様を仰いでいた。
「怒らないの?」
上擦った声で、冴は尋ねた。
「明日にでも死んじゃうかもよ。それでも冴と一緒にいるの?」
「怒るものか」
タマホメ様はそう言われると、膝をついて冴と目を合わせ、静かにこう尋ねられた。
「だがおまえは、私とともに滅ぶ覚悟があってやったのか?」