伍
第5章 何のために
二度目のケースというものを初めてもたされたイザヨイは大夢の絶望の深さに圧倒され、何ができるのか方々へと助言を求め始める。他方、タマホメに拾われ改心したはずの冴は茜の件への関与を疑われて祟神に追われていて――
大夢を救えなければ、私たちの仕事の意義そのものが破綻してしまう。
重圧を感じる私の心に真っ先に浮かんだのはタマホメ様の御顔だった。人間の心をもつタマホメ様なら、大夢の苦しみにどう向き合われるだろうか――。だがタマホメ様に相談したいなどと畏れ多いことを、私ごときが望むわけにはもういかない。
他方で私の頭は、あの場面で感じた異様な空気について冷静に考えていた。
己を貶め虐げるあの呪いのような言葉は、大夢の言葉ではなかった。彼の深い絶望や、病が言わせた言葉でもない。薫も自分に関しては他者の言葉しか出てこないきらいがあるがそれとも質が違う。声が重なって聞こえたのだ。何かが憑いているような気配を感じた。
また何か厄介なモノを相手にしているのか――。
頭痛を抱えながらも、翌日私が出向いたのは西第七庁舎だった。ついこないだ茜の縁図を照会したいと押しかけたばかりの、福神課である。
縁班の窓口の鬼は、また来た、という顔をした。私こそ気まずい。
「先日文書で申請した応援要請の件で、お呼び出しをいただいたのですが……」
「縁切係の件ですね。担当の者を呼びますので、お待ちください」
鬼は素っ気なく応えると奥へと消えた。縁班の中に管理係、縁結係、そして縁切係がある。
縁を切るのも分類上は人の幸福を司る福神の仕事なのだった。
しばらくすると、前回同様、鬼に続いて縁切神が入って来た。それは白衣に鳩羽色の切袴という身なりのほっそりとした若い女神だった。手には私が死神課から提出した書類を持っている。
「死神課のイザヨイさんですね。どうぞ、そちらへ」
美しい所作で示されたのは事務室の片隅の四名席のテーブルだった。向かい合って座ると、縁切神は懐から職員証を出して見せ何某と名乗った。そして極めて事務的な声音に口調で、さっそくですが。と、机上に書類を広げる。
「通常、一対一の案件であればこちらから縁切鋏という専用の道具をお貸しするのですが、今回のご依頼は随分と……複数人との関係を断ちたいとのことですので、貸出は難しいというのが上の判断なのです」
そこまで説明すると、彼女は背筋を伸ばして私の顔を見た。
「ですので本件については、特例措置として私が儀式を代行することとします」
ここまで来て断られるわけではないとわかり、ひとまず安堵するのと同時に、私の胸には別の感情が沸き起こった。
「承知いたしました。何卒よろしくお願いいたします」
「つきましては、この秋山久礼亜という人物とこれらの者たちとの繋がりについて、詳細をお伺いいたしたく」
おそらくは儀式を執り行う時が、私と久礼亜との縁も切れる時になるだろう――そんな予感がしていた私には、その場にこの縁切神が立ち会うのだということに、多少思うところがあった。もちろん先方の対応に従うものであり、我儘など言えないことはわきまえている。けれど彼女についての深い話を初対面の神にするうちに、今さらながら、私は私の力の及ぶ限りで久礼亜への介入を完結させられなかったのか、と悔やまれた。
それほど私は彼女に情をかけている。だからイナミさんにあらぬことを疑われたのだろうとも、自覚している。
縁切神は久礼亜の身に降りかかった不幸を眉根一つ動かさずにじっと聴いていた。
「なるほど、よくわかりました」
同情も何も、特に感想もない様子である。縁切神の仕事柄、縋る人間の物語にいちいち心を動かしてなどいられないのかもしれない。
「本当はお近くの縁切り神社までお越しいただくのが一番なのですが、今のお話を聞く限りではなかなかそういうわけには」
「……それは、難しいかと思います」
「そうですよね。ではこちらで色々と準備が必要になりますので、日を改めて日程のご相談をさせていただくということで、よろしいですか」
清々しいほど、あくまでも仕事の打ち合わせという振る舞いなのだった。
「はい。ご連絡をお待ちしております」
再び礼を言って頭を下げ、退出しようとしたところで、事務室の玄関扉に張り紙がしてあるのに気がついた。
自殺対策班の詰所の外に貼られていたのと同じものだ。
私がそこに立ち尽くしているのを見て、奥に戻ろうとしていた縁切神が言った。
「先日祟神課の方が来て、縁班にも貼って行ったそうです」
死神課で鉢合わせした時、ラゴウはネズミを捜しに来たのだと言った。
あの時直感した通りだった。あらゆる課に張り紙がされ、冴はお尋ね者になっている。
***
「それは、あなたの悲しみと関わりのある写真なのですか」
いつも通り画面を眺めていた大夢に尋ねると、彼はほとんど反射的に伏せた机上のスマートフォンに顔を向けた。
「何があったのか、そろそろ知る必要があるのです」
ややあって口を開いた彼は、打ち明けるのを恥ずかしく思ったようだった。
「恋人に振られてしまったんです」
思いがけず、彼はそれを差し出して見せてくれた。別れた恋人であるらしい、落ち着いた雰囲気の女性が明るく笑いかけている。
「マッチングアプリで知り合った人でした。私には珍しく会話が弾んで、どこへ出かけても楽しくて。私は真剣に交際していたんです。だけど、いざ結婚を申し出たら」
私が尋ねなくても、彼は続けた。
「駄目でした。若い時に鬱病で離職したのがその理由でした。正確には、彼女は自分自身が気にするというより……ご両親を説得できないから、という言い方をしたんですが」
膝の上で手を握り合わせ、うなだれるようにして自嘲する。
「どうすることもできないですよね、過去のことを問題にされてしまうと。それで思ったんです、あの時死なずに生きた意味は何だったんだろうって」
声を詰まらせ、彼は顔を伏せたまま首を振った。
「こんなことのために生き延びたなんて。馬鹿馬鹿しくてやってられない」
それは間違いなく大夢自身の言葉だった。
そうであるが故に、私にはかける言葉がなかった。
「病気に意味を見出すのは難しいよね……」
顎に手を当てて、先輩は唸った。大夢に対してどうすれば良いのか、また、二度目のケースを持った先輩がいないか、私は初めてケース会議というものに諮ったのだった。
北第四庁舎内の詰所と同じ造りの会議室で、私を含めた十名が長机を囲んでいる。
「まあ死神にできることとしては、病院に行かせることと、薬と通院を勝手にやめないように監督すること、くらいじゃない」
「たぶんそういうケースだよね……」
先輩たちは顔を見合わせた。他にあまりアイデアがないような、重く沈んだ空気だ。
「支えになってくれるような友人がいればとも思うのですが」
その場で思いついたことを口にすると、初めの先輩が「いや」と目を瞑った。
「友達はね、こういう事には駄目なのよ。苦悩とか死にたいとかって、扱いにくいし面倒だから誰も関わりたがらないんだよ。だから遠目に見守る感じになって、むしろ周りからいなくなっちゃうの」
「……そういうものなんですか」
斜向かいに座る別の先輩も言った。
「私が持ったケースでは気にかけてくれる友達が一人いたけど、結局繋ぎ止めるだけの力にはならなかった。そういう存在が慰めになるのは確かだけど、それで生きられるくらいなら鬱ではないというか」
「私たち死神も病気を治せるわけではないから、快方に向かうまで時を稼ぐしかないということはよくある」
私はいつかナマメが先輩の助言として教えてくれた言葉を思い出した。
自分が救うと思わないことだと。
「疫病神には相談できないですか」
庁舎が北第三である以外よく知らない課なので尋ねたが、これにも先輩たちは首を振った。
「疫病神課は人口調整局だから、違うんだよ。悲しい、虚しいというのは福神課なんだけど……鬱は死ぬからって、逆に死神課に回したがるんだよね」
そうそう。と、苦笑いが広がる。
せっかくの機会だったのだから、私は例の重なって聞こえた声についても尋ねてみればよかった。けれどあまりにも消極的な意見しか出てこないので、頭に上らなかった。
「これも……一年目で任されるようなケースじゃないよね」
正面の先輩の同情的な言葉に、誰かが言った。
「私も青を渡されると、うわ、って思うからな」
先輩たちも言いにくい事ばかりで気まずそうなまま、カンファレンスは終わった。皆が沈黙の中で席を立ち、黒ずくめの集団がぞろぞろと会議室を出る。傍聴に来ていたナマメが後ろから声をかけてくれた。
「ありがとうね、来てくれて」
ナマメはううん、と笑って首を竦めた。
「イザヨイが検討会を召集するなんて初めてだったからさ。なんか、トミちゃんから聞いてたケースと違ったけど、大変だね」
何かしら少しは手立てへのヒントが得られると思ったのだが。
同情されただけで終わってしまった。
「それより、最後に誰かが言った、青を渡されると、ってどういう意味だと思う?」
うん? と、ナマメは横から私を見上げる。私たちは庁舎の外へ向かって歩いている。
「青は鬱なんだろうか。前にナマメが言っていたみたいに」
「ああ、その話」
肩に纏わりついた自分の抜け毛を払いながら、彼女は言いかけた。
「関係があるかはわからないけど、こないだ下界でそれと似たような話を聞いたんだよね。大きめのビル火災で旦那さんを亡くした人を担当してて……何ていったっけな」
その時だった。庭の植込みで、ガサゴソと音を立てて何かが動いた。
「何、今の」
ぎょっとして二人立ち止まり、ナマメが言った。
「まさか、例の張り紙の?」
「まさか」
下界じゃあるまいし他に何がと思いつつ、私は否定した。
祟神課は北第二、死神課とは目と鼻の先だ。
「……私、イナミさんに言いに行く。念のため」
冴は、かつて私が担当した沙智の霊魂だ。ナマメは私を気づかうように上目遣いに断ると詰所の方へと去って行った。彼女が話しかけたことは、聞けずじまいになった。
***
その夜、薫は珍しくスマートフォンをいじっていた。
「珍しいですね」
ああ、と答えて、薫はそれをベッドの上へと無造作に放り投げた。
「恋人と別れたの。バークレー時代の」
「え?」
思わず聞き返すと、薫は片方の眉をひょいと上げた。
「わたしが振ったの。それで今一通りブロックして、データを消したところ」
「データ、というのは」
「データよ。写真も過去のメッセージのやり取りも、全部」
私が絶句するのを見て、薫はおかしそうな顔をした。
「どうしてまた、お別れすることに?」
「こないだの週末にビデオ通話をした時に、わたしの自主ゼミのことで衝突したの。そこから喧嘩して、お互いに我慢できなくなって」
破局と呼ぶべきものなのか。薫は落ち込むどころか苛々していた。
「自主ゼミというのは、先日少し様子を見させていただいたあの集まりの」
「ええそうよ。彼ね、わたしがとりわけ現象学に関心を持っていることを批判したの。そんなものに染まったら物事を正しく見ることができなくなるって。彼は人間の社会の事までも、万物に真実はただ一つだと考えていて――要するに社会科学を学問ではないと見下していて、視座によって様々な解釈ができるというわたしの考え方を真っ向から否定して、一方的に改めさせようとした。わたしから言わせたら彼こそ物理学の思考に染まりすぎて、ほとんど毒されているわ。人間は物理法則みたいに単純じゃないし、社会は様々な因子が複雑に絡み合ってできているのに。世界的に高名な大学のエリートだから偉いと思っているんだか知らないけど、そういう傲慢な人間になってしまったならもう無理。嘆かわしい」
そう吐き捨てて、片手で頭をわしゃわしゃと掻き毟る。
「薫も世界的に高名な大学のエリートだと思いますが」
その時私の頭に上っていたのは、大夢のことだった。
「あなたは様々な視点から物事を捉えようとするんですね。例えば社会的に弱い立場の人の目線にも立って」
「真に思慮深い人間は、自分の価値観で物事を単純化したりしないものよ。でも残念なことにありふれているのよね、世界を知っているはずの人間の間にも、特にわたしの周りにはたくさん――自分の狭い了見では理解できないだけのものを知ったような顔をして見下す人たちが。浅はかだと思うわ」
私の隣に来てベッドにどさりと腰を下ろし、今は机上に伏せられた、仲間たちとの写真を見つめる。一緒に写っていたメンバーの誰かが、その恋人だったのだろう。
「主観を交えない客観というものは成立し得ないのよ」
初めて出会うタイプの別れ方だ。熱くなる焦点も薫らしい。
「それだけ広い視野と豊かな想像力を持っているなら、きっとすばらしい裁判官になるでしょうね。なりたいと思ったきっかけは何かあったのですか?」
「どうかしら。わかりやすいエピソードみたいなものはないわね」
「ご両親はどのような方ですか。高校生のあなたを留学させたのでしたね」
薫は顔を曇らせた。
「そういうのは知ってるんじゃないの、神であるなら」
基本情報は得ている。法曹ではないが、父親は社会的にも地位が高く、専業主婦の母親も高学歴で、そもそも国際性の高い家庭に育ったらしい。きょうだいはなく、一人娘である彼女への期待と投資は大きいのだと思われる。
「薫にとってどのような方たちなのか知りたいのです」
「どのような? そうね……、いわゆる立派なご両親といわれる人たち」
「薫にとっては」
「いわゆる立派なご両親といわれる人たちよ。どう答えてほしいの?」
優しい、厳しい、好きだ嫌いだなどと、月並みな言葉を並べるつもりはないというのが聡明な彼女の答えであるらしい。そう思ったところへ、彼女がぽつりと続けた。
「わたしは恵まれている分、世の人の役に立つ人間にならなくてはいけない――小さい頃からそう言われて育った。それくらいかしら、両親の人柄を表すことといえば」
おや、と思った。
その時、彼女から漂う死のにおいは薄くなったのだ。
「それは、あなたにとってはどのような教えなのですか? 例えば人生の選択に深く影響を及ぼしてきたとか」
答えは淀みのないものだった。
「わたしは、やたらと両親や幼少期の体験に説明を求めることについては懐疑的なのよ。それに、親が子どもの生き方に願いを持つことのどこに問題があるの? 本当の西洋式の家庭教育というのはそういうものなのよ。日本よりも遥かに厳しい。自主性の尊重というのはその土台の上に立つもので、子の思うように好きなようにやらせる放任主義ではないの。そしてわたしはそのように育てられたことに疑問や不満を抱いてはいない」
「なるほど」
ただ、両親の方針は薫が実際に育った社会のものではなく、家庭と外界との間には齟齬があったのではないか――私はそのことを指摘するのは思い留まった。
「薫は、自分が恵まれていると思いますか?」
「思わなかったら嗤われるでしょう」
鼻で嗤っておいて、彼女はふと真顔になり、そして私を向いて不敵な笑みを浮かべた。
「でも――この先もずっとそうかなんてわからないわよ。とんでもない挫折を味わって転落する人生かもしれないし、それこそ人に恨まれて後ろから刺されたりするかも」
「どういう意味ですか?」
彼女は腰を浮かせ、机の方へと動いた。
「人間が皆平等であるなら、という話。イザヨイは死神だから知らないのだっけ、わたしがこれから先どういう運命を辿るのか」
「それは知りません。それに、仮に運命の神から聞いたとしても、お答えできるものではありません」
そう。と彼女は呟いた。薫がなぜそんなことを口にしたのか、私にはわからなかった。
***
「なるほど立派な心掛けやなあ。さぞかしええ裁判官にならはるやろ」
薫のことを話すと、アシタレも感心して言った。例のごとく私が帰ると上がり込んでいて、疲れているようだからと肩を揉んでくれている。
「話せば話すほどわからなくなるんだよ。あれでどうして死のにおいがするのか」
薫の後に大夢を訪ねると、大夢からは死のにおいがしないことが逆に不思議に思われる。彼は今日も別れた恋人の写真を眺め、終わった恋を悲しんでいた。
「死の願望はあるのを気の強さで抑えてるとか?」
「ああ……? そうなのかな」
「諸々うまいことやれてるうちはええけど、何かでバランスを崩した時はあかんかも、みたいな。知らんけど」
《誰にだって、死にたいと思う瞬間くらいあるんじゃない?》
アシタレに言われて彼女の言葉が耳に蘇り、私は初めて会った時の薫の姿を思い出した。彼女は一人で吹き抜けの四階から一階のエントランスホールを見下ろしていたのだった。
《わたし別に変なことなんて考えてないけど。ちょっと考えごとをしていただけ》
――何を考えていたのだろう?
最初に戻って考えてみようとしたが、そう思ったところで中断された。
外に物音を聞いたのだ。
「……風?」
いや、と応えたアシタレも不審そうに表戸の方を伺っている。
「俺が見たろうか?」
「いい」
心配する奴を制して自分で出ることにした。胸騒ぎがあったのだ。
果たして、戸の外を覗いた私は凍り付いた。
「イザヨイ、みーつけた」
すぐ前に冴が立ち、私を見上げていた。