肆
第4章 青の組紐
薫との対話を重ねても、どうにも死のにおいの原因を突き止められない。このままでは落着に向けた手も打てないと、イザヨイは上司に相談する。
「なるほどねえ。本人からは一向に手がかりが得られない、か」
私の話を聞くと、イナミさんは椅子の背にもたれて顎をさすった。人間でいえば見た目は四十絡みのこの上司は、祟神課から異動してきたためかラゴウと似た型の黒いローブを着こみ、灰褐色の髪を後ろに束ねている。ちょうど事務の鬼を通して呼び出されたので、薫のことを相談してみたのだった。
「優先順位を下げたらいいよ」
驚く私に、イナミさんは事もなげに続けた。
「誰が担当しても難しいケースも、だんだん任せていくからさ。難しすぎると思うものはむしろ優先度が低いと考えた方がいい。何事もバランスを取ることを覚えないと」
「バランス……」
死のにおいがするのだが、とは、最初に伝えたはずだった。
「そう。僕たちの仕事は人助けではないからね。自殺しないで済むように色々としてやるけど、それは手段であって、目的ではないんだよ」
私は私の中で何かがずれるのを感じた。それは忘れるには大きな違和感だった。
さて。と手を叩いて、イナミさんは本題の物を机の下から出した。
二本で一組になっている、藍色の組紐だった。
「これも難しいかもしれないけどね……二度目なんだよ、自殺対策班にかかるの」
***
カーテンを閉め切り電気も暖房もつけない部屋で、暗い色のパーカー姿の青年は一人ワークデスクの前に座り、スマートフォンに撮り溜められた写真を眺めていた。
「こんばんは」
薫の部屋が例外的で、正直いって私たちはこういう部屋を訪れる場合が多い。ただ一つ他と違ったのは、彼は暗闇に立つ私の姿を見て驚かなかった。
「ああ……、やっぱりそうなるんですね」
まるで死神が来るのを予期していたかのように、彼は沈んだ声で言った。
「まだ、駄目ですか。もう一通り、できるだけの努力はすべてしたつもりなんですが」
スタンドライトをつけ、明るい画面を机に伏せて、椅子ごとこちらへ向き直る。憔悴した様子で目の下にはクマをかき、眼鏡は脂汚れに曇っている。
「もう……自分の中でははっきりと結論が出てるんです。私には無理なんだなって」
苦悩の言葉とは裏腹に声に感情は表れず、表情も乏しい。
「まだ生きないといけませんか」
二度目のケースというものに当たるのは、私にはこれが初めてだった。
「あなたが自殺しなくて済むように、私たちは来るんですよ」
様子からして鬱病なのだろう。それもかなり重そうに見える。どう接するべきなのか、私は慎重に考え、昼間のイナミさんの言葉を引いて答えた。
「食事をしていますか」
「……いえ、それが、ついつい抜けてしまって。二日くらい食べてないかもしれないです」
1Kの室内に食べ物のにおいはなく、久礼亜が暮らしていた部屋のようにゴミが溢れているわけでもない。むしろ、ゴミはなかった。
「空腹感は?」
「うーん……空いたような気がすることもあるんですけど、何を食べたらいいかわからなくて。そうしているうちにまた半日とか、一日とか」
事の深刻さに顔を曇らせると、彼は申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい。それで、そんな調子なので、風呂もついつい」
におわないかと気にするように、紺色のパーカーの袖を鼻で嗅ぐ。
そしてこんな状態の彼からは、死のにおいはしないのだった。
「食事をしましょう。何か食べられるように呪いをかけてあげます」
部屋に備蓄がないなら買いに出させるしかないが、そういう見守りもできなくはない。
「いえどうか……勘弁してください。食事の世話なんて、神様にしていただくようなことじゃないです。私がちゃんとすればいいだけなので」
病院には行っているのか、行っていないのか。前回は担当が説得を続けて、初診に持っていくのに半年もかかったのだと聞いた。
昼間のうちに、前の担当に直接会って引継ぎを受けたのだ。社会人になりたての頃に鬱病を発症した彼は、休職の後に退職し、自殺対策班としては極めて珍しく、数年がかりのフォローをしたらしい。その間には、抗うつ薬が効きはじめた頃の副作用による自殺未遂があったそうだ。複数のドラッグストアを巡って総合感冒薬を買い集めようとするのを、担当は阻止しようと尽力したのだが空しく、結局は本人の意志が及ばなくなったところで危うく繋ぎとめたという。立ち直るまで二人三脚のようにして支えて、やっとのことで縁が切れたのに、また数年で介入が必要になったことを聞くと、前任者は肩を落として首を振った。
「前の担当からは引継ぎを受けています。ですが私の方でも色々と、あなたから直接お話を伺いたいと思っています。私はイザヨイといいます」
彼は眼鏡を外すと、ショボショボとした目を袖口でこすった。
「何回か教えてください……私は人の名前を覚えるのが苦手なので」
「構いませんよ、一度で覚えてくださる方の方が珍しいですから。あなたのことは、何と呼びましょうか」
「大夢でいいです」
「わかりました。では、大夢さん」
特別な理由もなく、私は彼を呼び捨てにしなかった。
私が結び付けた藍色の組紐を彼はスタンドライトの光に照らして目を凝らした。
「……前は、明るい青緑でしたね。何年も付けてたからさすがに覚えています」
「翡翠色だったそうですね。でも、今度は新しく、私とのご縁なので」
言いながら私はすでにこの件が相当に手強く一筋縄ではいかぬことを予期していた。
***
「これは差戻しだね」
私が提出した申請書を机上に突き返して、イナミさんはきっぱりと言った。
「駄目ですか?」
久礼亜のための最後の措置願いだ。正直通らないとは思いもよらなかったので、私は不服であることを態度に表してしまった。イナミさんの口調は厳しくなった。
「君がやろうとしていることは復讐に近い。彼女に危害を加えた者たちへの捜査に介入しようとすることは明らかに死神の分限を逸脱している。縁切神の力を借りて彼女とその者たちの間の縁を切れば十分だろう。課として許可できるのは福神課縁班への応援要請のみだ。そのように書き直しなさい」
復讐、という強い言葉は私の胸に深く刺さった。
それは正しくない。仮に私がその男たちへの処罰感情で動いているとするなら、私は介入の申請などではなく、祟神課の天誅班に依頼する。天罰が下るとか、神の怒りを買うといった事象を取り扱う部署だ。天誅もまた理の綻びを正すための措置であるので審査は厳しく、事実上はこういった個別の相談には応じないというのが通説なのだが。
いずれにしても、私は久礼亜から恒久的に脅威を取り除きたかっただけだ。
「わかりました。書き直します」
それだけ答えて頭を下げ、イナミさんが目の前でその申請書を破き棄てるのを見届けて背を向けた。その場で改めて書けばよかったが、気持ちの整理がつかないように思えて退出してしまった。上司に口答えするほど愚かではなくても、悔しさが突き上げている。
あーあ。なんだか、最近こんなことばかりだな。
もうこのまま下界に行ってしまおうか。詰所の戸を後ろで閉めた私はその場を離れようとして、そこに張り紙がしてあるのに気がついた。
来た時には気づかなかった。
「イザヨイ」
名を呼ぶ声にはっと引き戻されて首を巡らせると、同期のナマメが回廊の向こうから手を振っていた。引きずるような黒のロングコートの襟を立て、さらりとした白い髪を背中に流し、真っ赤な口紅で笑っている。
「久しぶり。まーた難しい子を任されちゃったって?」
ああ、と私は苦笑した。トミテからでも聞いたのだろうか。毎日出勤しているとはいえそれぞれのスケジュールで動いているので、私たちはそう頻繁に顔を合わせるわけではない。ナマメに会ったのはこないだの飲み会以来である。
「降臨前に何か食べとこうと思ってるんだけど、一緒に行く?」
北の中心部へ十分ほど歩いて行ったところに、鬼が商いしている軽食屋がある。普段一人で外食することはほとんどなく今も特に空腹ではないが、気晴らしがしたい気もして、彼女に付いて行くことにした。
「大変だねえ、期待されてる人って」
今しがたの出来事を知らないナマメは、私が新しいケースのことで悩んでいる風に見えたのか同情的な声で言った。冷たい風に吹かれると「寒っ」と震えて、立てた襟を顎の下で閉じ合わせる。
「うう、寒い……店が遠い……私は北四の前に北四のためのカフェが開業されるべきだと思うのだよ」
彼女の歩調に合わせるうちに小走りになる。ナマメといると、時々学精時代の気分を思い出す。特に何も悩むことのなかった頃の自分に戻っているような気になる。
「でなけりゃ詰所の中にカフェコーナーを作りたい……作ってくださいって私もウミヤメ様にお願いしてみようかな」
「ええ?」
「香りって大事よ? 深夜の詰所の陰気臭いの、コーヒーの香りがあるだけで絶対に違うって。昼間だって寂しいし、イナミさんが居たら居たで微妙に気詰りだしさ。あの空気が香りでちょっとでも和んだら、少なくとも私のモチベとパフォーマンスは格段に上がる」
上の世代はその辺のことがまだわかってないと思うんだよね、という彼女の愚痴を聞く間に、店に着いていた。暖かい店内に飛び込み、ナマメは注文カウンターの上のメニューを見上げる。彼女の橄欖石のような黄緑の瞳にふと目を引かれて、私は大夢のことが頭に浮かんだ。前の時は翡翠色だったものが、今回は藍色へ。ケースと結ぶ組紐の色には何か意味があるのだろうか。
「組紐の色、ねえ。考えたことなかったな」
ホットドッグをもぐもぐしながら、ナマメは首を傾げた。
「トミちゃんが言うなら何かあるのかな。私はまだ紫って経験ないから、なんとも」
「もし紫に特別な意味があるなら、他の色にも意味があるのかと思ってさ。そもそもの色の決め方に法則があるというか」
うーん、と唸り、彼女は自分の手首に結ばれている組紐にちらりと目をやった。
「あーそういえば、わかんないけど、鬱病だけの人って色が寄ってる気がする。赤とか暖色系では見たことないかも」
それを聞いて、何かヒントを得たような気がした。
萌木色、縹色、翡翠色、藍色。確かに緑から青に集中してはいる。
「なんか雰囲気変わったね、イザヨイ」
ナマメの目が私を見ていた。
「そうかな」
「変わった。そんな風に立ち止まって何かを考えるようなキャラじゃなかったよ」
どういう言い方なんだ、それは。思わず片頬が引き攣る。
「……前はどう見えてたんだ、私は」
「別に変な意味じゃないけど。私と違って迷ったり悩んだりしない感じ? トミちゃんがドライならイザヨイはクールで。自信家なんだなって」
自信家、だっただろうか。
ただ、彼女と最後に会ったあの飲み会の夜は、ウミヤメ様から三日間の停職処分を受ける前、タマホメ様とも出会う前だった。
思えばあれから半月ほどの間に、色々なことがあり過ぎた。
「あのさ。また近いうちにトミちゃん誘って三人で飲まない? もう毎月でもいいから集まってパーッとやらないと、この仕事やってらんない」
「どうかしたの」
ホットコーヒーのマグから唇を離して尋ねると、ナマメは窓の外へと視線を逃がした。
「また一人死なれちゃったんだ、私。それもうまく行ってると思ってた子に」
「……そうだったんだ」
うん。としおれた声になって、ナマメは呟いた。
「慣れないよね。何人死なれても」
***
以前訪れたのとは別のキャンパスの学生ラウンジで、薫は数名の学生仲間とレジュメを囲んで議論をしていた。たびたびつるんでいる仲良しグループとは違う顔ぶれである。
ガヤガヤと混雑している中でふと目を上げた薫は出入り口付近に立つ私に気がつくと眉を顰めて立ち上がった。仲間にはトイレだという風に断って、人混みを縫ってこちらへ来る。私が人気のない静かな方へと足を向けると、そのまま付いてきた。
「外にまで出てくるの? やめてもらえない」
薫は私に追いつくなり文句を言った。
「今日はこないだのように話してもいられないわ。用があるならまたにして」
「あの人たちは同じ課のお仲間ですか。過去の裁判について議論していたようですね」
構わずに尋ねると、彼女は舌打ちをして、早口で答えた。
「自主ゼミというのよ。法学部の仲間ではなくて、色々な分野から集まった有志――哲学や社会学、心理学、医学の人なんかもいる。まだ何回かしかやってないけど隔週くらいのペースで、それぞれの専門から皆で議論できるようなトピックを順番に持ち寄るの。それで今日はわたしの当番で、有名な冤罪事件について取り上げていたわけ」
外はまだ明るい。やがて日が落ちれば、学生たちは大方居なくなることだろう。けれど薫はまだこれから自分の校舎へ戻るつもりであるように見えた。
「随分と顔が広いんですね。どうやってそれほどの人脈を得たのですか」
「どうって。予備校時代の仲間と誘いあって、それぞれ知り合いにも声をかけたってところよ。言ったでしょう、わたしは今の位置に留まるつもりはないの。誰にもできない仕事をする人間になるには、学科で一番を取るくらいでは足りないのよ。そんなつまらない、井の中の蛙にはなり下がりたくない。自分の専門に閉じこもらずに、もっと色々な分野の視点を取り入れて、もっとこの世界を奥行きあるものに捉えられるようになりたいの」
そこまで語ると、彼女は腕組みをして向き直り、挑戦的に私の目を見た。
「それで? わたしが学際的な自主ゼミをしている事実を押さえて、あなたはどういう仮説を導き出すの。わたしが自殺しそうな理由を探し続けているんでしょう」
早々に切り上げて私を追い返すのは辞めにしたかのようだ。
「自分が思い描く解に向かってあれこれといい加減なストーリーを仕立て上げることから、神は自由なのかしら。興味があるわ」
「なるほど、薫らしい質問です。でも仮にそんなことをして、私たちにとってどんな利益があると思いますか」
薫は私が明言を避ける理由を、私は薫が今日は殊更に自分の知的な優越性を見せつけようとする理由を、それぞれに考えている。
「今のところ、私に仮説はありません。まったく不可解です」
「ないと認めるのね。それはつまり、わたしに自殺の恐れはないということよ。わたしにはこれだけの野心がある。わたしは自殺するというあなたの主張の根拠は、この組紐が切れないという事実だけ。でも、そもそも縁がないところに誤って縁を結んでいるとしたら、どういうことになるのかしら。切れるものも切れないということは考えられない?」
死のにおいがする。それがもう一つの、確かな根拠だ。
彼女のロジックには感心しつつ、私はまだ死のにおいのことを彼女に話すべきではないと考えた。依然として、それが彼女に投げかける影響を測ることができない。
「今ので大方、片は付いたと思うけど。さあ。言うことがないならもう行って。わたしは早く彼らのところに戻りたいのよ」
「どうぞ。あなたのロジックには感心します」
素直に称えると薫は得意げな顔をした。神の鼻を明かしたとばかりに。
***
過去に出会った誰よりも輝いている薫が葡萄色なのはなぜなのか。
紫は難しいというトミテの仮説に立てば、大夢のような重症のケースと向き合うたびに、そのことがより奇妙に思われた。
「二度目というのは、応えます」
受診するように再度説得すると、大夢は初めてそう答えた。
すでに何度か訪問して、説得を続けているところだった。部屋の明かりと暖房をつけるようになり、食事も一時期よりは意識的に摂る努力をしているようだが、もう一度心療内科にかかるよう勧めると蝋燭を吹き消したように沈黙してしまい、手応えを得られない状態がしばらく続いている。
「前の時は、あれでも、問題がシンプルだったんです。精神科の薬への期待もありましたし、お医者さんや、神様の仰ることを信じるなら、鬱病というのはきちんと治療すれば必ず〈治る〉はずのものだった。〈寛解〉というのは、〈治る〉のと同じ意味に捉えられていたんです。それに私自身、自分は全然頑張っていないと思っていましたから、甘えないで頑張らないといけないという考えが頭にあって、頑張る、というのが今は鬱病を治すことなんだと思えてからは、それが闘病へのモチベーションになっていました」
訥訥と、まるで前回から考えて用意していたことを頭の中から紡ぎ出すように、大夢は自分についての考察を語る。
「でも、今度は、そのどれもが前と同じようにはいかないんです。実際どうだったのか、結果が今、出ているわけですから……。治療に何年も費やして、その間に仕事を辞めて、探して、また始めて……私にとっては、自分なりに頑張りましたし、だいぶしんどい日々でした。あれをもう一度最初からやるかと思うとね、どうしても……そうまでしてまた生き直してみる意味があるのかな、と思ってしまいますね」
彼が語っているのは二度目であるが故の絶望の深さについてだ。それは、これまでの励まし方が彼には通用しないことを私に突き付けていた。
「生きていればいいこともあるよ、とは言いますけど……もう三十二歳にもなっていてね……自分のようになった者が生きられる人生なんて、たかが知れてますし」
不穏なものを感じて、私は声を低めて尋ねた。
「それは、どういう意味ですか」
「……健常な人に言わせれば、私は鬱病の間〈休んでいた〉わけです。だから、その間ずっと〈頑張っていた人〉と同じ幸せはもう、手に入らない。〈頑張っていた人〉に言わせたら、〈頑張らなかった奴〉の人生が自分と変わらないんじゃ、やってられないわけですから、それは〈当然のこと〉なんです」
「それは、かなり偏った価値観に支配された考えですね」
大夢自身の言葉ではない。
私は語気を強めて正そうとしたが、彼は遮った。
「でも現実はそうなんですよ」
言葉を継げない私に、彼は教えるように繰り返した。
「現実はそうなんです」
ワークデスクの上にはスマートフォンが伏せられている。今日来た時にも、彼は撮り溜められた写真をスクロールしていた。
いつ来ても、大夢は決まって、たくさんの写真の並ぶ画面を眺めている。