参
第3章 悲劇の末路
薫の死のにおいは怨霊によるものではないか――茜の関与を疑ったイザヨイは念のため縁神が管理する縁図を改めるが、やはり薫と茜の間に関係はなかった。しかし薫を観察するため尾行していたイザヨイの目の前に忽然として茜が現れる。
「――おまえ、何をするんだ!」
私は叫んだ。あたかも薫を狙うかのように右手を翳す茜に。
その瞬間、青信号の交差点に大きなバントラックがブレーキも踏まずに突っ込んだ。
「きゃ!」
しかし悲鳴を上げて尻もちをついたのは、別の若い女だった。
トラックは七十メートルも先でようやく止まり、薫は信号を渡り切ったところで驚いたように人が轢かれなかっただろうかと現場の様子を伺っている。
「茜」
声が震えた。彼女が交通事故に遭わせようとしたのは実際には薫ではなく、一秒の差で助かった女の方だろう。ほんの数時間前に彼女の縁図上で名前を見た誰かだ。
「眞輝を案じて戻ったのではなかったのか……?」
「マサキ」
虚ろな声で、背を向けたままの茜が答えた。
「……誰?」
耳を疑い、私は恐る恐る尋ねた。
「おまえは、何がしたいんだ?」
「わからない」
だらりと手を下ろして、彼女は言った。
「ただ許せないの……あの女が幸せでいるのが」
その女が誰であるのかも覚えてはいないのではないか――そんな気がしたところへ、彼女がゆっくりと振り向いた。
その顔を見て私は息を呑み恐怖に慄いた。
腐敗して肉が崩れ、目は空洞になっていた。
「私が死んで、どうしてあの子が笑っているの」
茜は答えを求めてふらふらと動き、私は思わず後退りする。
その時茜の背後に大きな影が舞い降り、鈍い光の軌跡を描いて太刀を振り下ろした。
おぞましい断末魔の叫びをあげて切り裂かれた茜は倒れ、アスファルトの上に溶けてタールのような黒い水たまりになった。
腹の底から込み上げる恐ろしさに震える私の前に立つのは、煙色のローブに冷気を漂わせる、祟神のラゴウだった。
「初めて見たのか。これが冥界に入らぬ死霊の成れの果てだ」
冷たい声で言い、ラゴウは重そうな太刀の先で水たまりを指す。
「肉体の滅びた者は霊魂もまた腐敗する。此岸の気とは腐らせるものなのだ。人格はやがて失われ、記憶もまた自我とともに抜け落ちる」
自らは慣れきった口ぶりだ。皮ベルトの鞘に太刀を納め、単調に続ける。
「幼少期に己を苦しめた者たちに復讐していたようだが、あの腐りようではもう何者であるかを認識してはいなかっただろう。つまりは怨みに動かされていただけだ」
言い終わると、金に近い琥珀色の瞳が私を見下ろした。
「それで。あなたはなぜここに?」
灰色の短い髪と相まって、狼に見竦められているようだ。
私は慌てた。冴の件でウミヤメ様に報告されたことが思い起こされたのだ。
「いいえ、私は私のケースを追っていて――たまたま居合わせてしまっただけです」
「ラゴウ。始末してくれとは頼んでいない」
もう一つの声がしてラゴウは振り向いた。いつの間にかそこに現れていたのは、銀縁の眼鏡をかけ鈍色のガウンを着込んだ年齢不詳の男神だった。
「冥府に連行して裁かなければならなかったのに」
「あれはもはやただの怨霊だ。私は私の職務を果たしたまでだ」
やれやれ、と首を振り、冥府の神であるらしい男は私を見た。
「そちらは?」
「死神課のイザヨイだ」
ぶっきらぼうに、ラゴウが答えた。
「ああ。あなたが、例の」
気になる言い方をして、男神は眼鏡を押さえるとこちらへと進み出た。ラゴウとの間に割って入り、私の顔をじろじろと見る。
「へえ、女神なんですね。てっきり男神かと思っていました」
失礼とも思わない様子で言うと、今度はラゴウの方を向いた。
「君はさっきの子を追うべきじゃないかな、死神の彼女に構っていないで。そこの建物の陰にいただろう?」
ラゴウは舌打ちすると、私に一瞥をくれて急ぎ去って行った。
男神が小さく溜息をついた。
「すみませんね。ラゴウは誰に対してもああいう物腰なので。怖いでしょう?」
腰に手を当て、決して感じがいいわけではない笑みを私に向ける。
「僕が彼に協力を頼んだんですよ。個人的にも仲がいいのでね」
横断歩道の手前では、腰を抜かしたままいつまでも動けずにいる女が通行人たちに助け起こされていた。現場にはすでに警察と緊急車両が駆け付け、複数の赤色灯が点滅し騒然としている。薫は去ったようだった。
冥府の神はガウンの下から銀色に輝く液体の入った小瓶を出すと屈み込み、怨霊の残骸に静かに撒いた。
「それは、何をしているのですか」
どす黒い水たまりは液体に触れると沸騰するようにジリジリと音を立て、焦げ臭いにおいを放ちながら白い煙となって消えた。後には濡れた跡も残っていなかった。
「僅かでも穢れを残してはならない。きっちりと浄化するのも僕たちの仕事なんです」
消えた地面を見つめたまま、眞輝に知られることがなくてよかった、と思った。
茜の本当の最期がこのようなものであったと知れば、眞輝は苦しむだろう。
「冥府に連れ帰れなかったのは残念だけど、こんなところでイザヨイさんに会えるとは思わなかったから、それはラッキーだったかな。ラゴウまでもその名前を口にするあなたに一度会ってみたい気がしていたんだ」
彼は腰をのばし、改めて私の顔を見た。目の高さはほぼ同じである。
「死神課のイザヨイ。冥府ではそこそこ有名になっていますよ。なにしろ初任者が長に直々に相談をするとは、只者じゃない。肝の据わり方が違うし、あの恐ろしいウミヤメ様の御寵愛を受けて、タマホメ様にも気に入られているというのだから。それで僕は勝手に男神だと思い込んでいたわけです」
言葉の端々に嫌味を忍び込ませる神だ。
「……冥府の方なのですか、祟神と親交のある」
ラゴウと同様、格上であるのは確かなので、私はなるべく不快感を露わにしないように声音に気をつけて尋ねた。男神は思い出したという様子で笑った。
「ああ、そうか。これは失敬、まだ名乗っていませんでしたね。僕は冥府の者で、マカツといいます。こうして冥界の外に出て迷子を捜すことが多いので、他課の神々ともなるべくパイプを持ちたいと思っているんですよ」
そう言って右手を差し出す。
「噂によればあなたも他課との連携に積極的だそうですね。僕と気が合うかもしれない。もう少し一人前になったら、一緒に仕事をしましょう。まあ僕もラゴウとはよくつるんでいるから、またすぐに会うことになるかもしれないけど」
***
なぜ私の名が他課にまで知れているのだろう。
「それって俺のせいやんな」
冥府ばかりでなくもしかすると縁班の福神にも名を覚えられていたかもしれない話をすると、アシタレは極まり悪そうに言った。
「俺がイサちゃんにタマホメ様に頼んでみやってゆうてしもたんやわ」
「ああ……」
私にアシタレを責めるつもりはないのを見ると、奴はほっとした顔になり、頭を掻いた。
「そやけど、死霊がずっと此岸を彷徨ってたらそないなことになるなんて……俺も知らんかったわ。なんとなく覚えてるあの子やったかどうかは、今となってはわからんけど、かわいそうなことしたなあ」
「そうなんだよ」
知っていたら私も、ウミヤメ様に待ってほしいとはお願いしなかった。
「あまりにも凄まじい最期だった」
アシタレは私を心配そうに見守っている。
「ま。イサちゃんは自分のせいとか思わんことや。アホやったとすれば、俺や」
「……いや、それも違うだろ」
今日は私ももう夜着に直して休むつもりになっている。マカツが去った後は気分が悪くなってしまい、切り替えられそうにもなかったので他の予定は取りやめて、早々に戻ってきてしまった。それで、アシタレと行燈を挟んで向き合ううちに、ようやく落ちつきを取り戻しつつある。
「それにしてもいけ好かん奴なあ、そのマカツっていうの。元から冥府のもんは嫌いやけど、なんなん。女の長神の寵愛を受けるなら若い男やろとか、勝手に嫌らしいこと考えよって。女やろうと男やろうと、仮にそないなことがあったら俺が許されへんわ」
「おい、何の話をしているんだ」
気にいらないと思うところがおかしすぎて、笑ってしまう。
アシタレが来てくれてよかった。
そんな夜を超えたにも関わらず、翌日になっても私は浮かない気持ちを引きずっていた。北第四庁舎の回廊ですれ違う神々に頭を下げても、そう思ってみると顔を見られているような気がする。
アシタレは庇うようなことを言ってくれたが、仕事の相談でタマホメ様にお会いしたいとウミヤメ様にお願いをしたのは、そんなに大胆で身の程知らずな、恥ずかしいことだったのだろうか。
恥ずかしいといえば、あの入職式での辞令の時の方だ。
新神が一万も集う中で、〈死神〉と出て私だけが大きな声を出した。
あれは恥ずかしかった。
冷たく冴えた気の中で顔が熱く火照る。しても仕方がない反省をするのはよそうと顔を叩いて詰所へ向かって行くと、角を曲がった先の執務室の方から死神ではない影がこちらへやって来た。気配だけでもわかった。私は立ち止まり、ラゴウは私を見下ろした。
「瘴気の影響は受けなかったようだな」
何のことやらわからずにいる私を見て、ラゴウは軽蔑するようにフンと鼻を鳴らした。
「怯えるくらいなら余計なことに首を突っ込むな。死神が死霊ごときに、情けない」
「私は、偶然居てしまっただけで――昨夜そう言ったではありませんか」
ウミヤメ様に私がまたあらぬところに居たと言いつけたのかと疑えば、それよりも厳しい言葉が返ってきた。
「昨夜のことではない。そもそも死霊のことなどに自ら関わろうとするなと忠告しているのだ。ただ冥府に通報し、任せておればよかったのだ。いつぞやの生霊の例も然り、生半可な覚悟で我ら祟神の職務を妨害し、その反省も自覚もないようでは始末に負えん。責任を負う立場にない死神は死神の役割に留まれ」
ドン、と腹に響く声だった。冴の一件では、悪霊として排除されるべき場に行ったことは掟破りであったとはいえ、私が妨害したというのは言いがかりだ。
けれど、とてもではないが反論できなかった。
「……申し訳ございませんでした」
私が頭を下げるのを見ると、ラゴウは納めるように息を吐いた。
「報告が目的で来たわけではない。誉められたことではないが、昨夜はあなたがあの怨霊の気を引いたおかげで一人犠牲にならずに済んだ」
ならば何をしに来たのだろうか。
「今日はネズミを捜しに来たのだ。ウミヤメ様にはその許可を得ねばならんからな」
頭を上げないままの私の側を過ぎ、気になることを言い残して、ラゴウは去って行った。
明るい日の射し入る詰所は無人で、後ろで戸を閉めるとさすがの私も呆然としてへたり込んでしまった。あれほど威圧的な神を他に知らない。「怖いでしょう?」と半笑いで言ったマカツの声が耳に蘇る。
ネズミ。と、去り際にラゴウは言った。そのラゴウに、マカツは言った。
《君はさっきの子を追うべきじゃないかな》
《そこの建物の陰にいただろう?》
――冴。あの時も、さっきも、私の頭に浮かんだのは彼女のことだった。
茜は眞輝に呼び戻されたのだそうだ、とタマホメ様が教えてくださったとき、一緒にいたあの子は確かにこう言った。
《でももし変な動きをしたら、冴が止めてあげるね。あたしが茜の見張り役だから》
どういうことなのか、実は私もずっと気になっている。それこそもう気にしてはならないことだと頭ではわかっていても。
嫌な予感がする。
***
「昨夜はかなり衝撃的な出来事に遭遇したのよ」
その夜、薫は私を見るなり自分から話し始めた。
「ニュースもずっとそのことで持ち切り……たまたまわたしが渡ったばかりの交差点に、暴走トラックが突っ込んだの。報道を見た友達は皆わたしが巻き込まれたんじゃないかと思ったみたい。でも、もっと信じられないことには、それで誰も死ななかった。驚いて転んだとかいう軽症者だけ。運転手は持病でもないのにその瞬間だけ気を失っていたとか、とてもふつうの事件だとは思えない」
今考えてもゾッとする、という様子で口元に手をやり、私の顔を見る。
「ねえ。こういうのにも死神は関係しているの? 故意に人を殺すとか、生かすとか」
「死神に限らず、どの神もそのようなことはしません」
私がその場に居たことも、昨夜は怨霊の仕業だったことも、彼女には話さない。
「恐ろしい思いをしましたね。薫が無事で何よりでした」
私が何事か隠しているのではないかと疑う目をしながら、薫は無言で正面を指し、私に座るよう促した。
「会いに来たからには時間があるんでしょう。珍しい機会だから少し話しましょうよ」
新しい局面だった。私はベッドに腰を下ろし、腕組みをする彼女と向き合った。
「イザヨイが死神だから敢えて訊くわ。人の命の重みは平等なの?」
彼女の目がまっすぐに私を見つめていた。
私は間を持たせずに率直に答えた。
「ええ。命の重みは平等です」
それは本当か、と疑うような間があった。あるいは格差はあると仮定していたのかもしれない。だが次に問うべきことも彼女は用意していたようだった。
「そうであるなら、昨日のような事に巻き込まれて死ぬ人たちって、どう選ばれているの? 運が悪かったというには残酷な、理由のない死……それは宿命的なものなの?」
「――薫は、何を知りたいのですか」
そうね、と、彼女は考えるような目をした。
「例えば、そういう災いはわたしにも平等に巡って来るのか、ということ」
「不安になったのですか?」
答える代りに、机の上の写真に目をやる。
「留学したての頃、わたしは見た目には観光客と区別のつかないジャパニーズだった」
写真の方を向いたまま、彼女はゆっくりと語り始めた。
「その、向こうに馴染むまでの短い間に、わたしは自由主義の光と闇を見たの。人には話してこなかったけど……物乞いというものに初めて遇った。観光に来ている日本人なら持ってるだろうっていう雰囲気で、道で話しかけられるのよね。中でも一番深く印象に残っているのは……賑やかな街を歩いていたら、道端で曲芸をしている人がいたの。若い人だったけど背中が曲がっていて、すぐ脇には車椅子が置いてあった。見たことがない光景だったから、わたしはちょっと立ち止まったのね。すると彼はすかさずわたしの目を見て言った、カネをくれるかって。わたしは反射的にノーと言ったわ。そういうことをしたら次には何が起きるものなのか知らないから怖いと思った。それで足早にそこを立ち去った」
薫の目の前にはその時の情景がありありと蘇っているようだった。
「片やキャンパスに見学に行ったりすると、アルバイトらしい売店のお兄さんは生き生きとして輝いていて、その仕事に誇りをもっているし、今にビッグになるんだ、という顔をしているのよ。親の考えで留学なんかさせてもらったわたしもだけど、人間の生まれながらの境遇にはそれだけの格差がある。この国にも」
彼女は言葉を切り、再び私を向いた。
「――それで、この運命の不平等は何によって決められているの?」
彼女の話を慎重に聴いていた私は唸った。
「死神課は人の死を司る部署なので、運命には関与していないのです」
運命の神の所属は産神課である。無論、それは話すことではない。
「薫は正義感が強いばかりでなく、自分とは異なる背景の人々の生にも思いを馳せることができるのですね」
「意外?」
薫はニヤリとして髪を掻き上げた。
「そう、櫻井薫が言いそうなことではないかもね。たいていの人から見て、わたしは黙っていてもお高くとまっているお嬢だから。負けず嫌いの負け知らず、世間知らずの恩知らず。さぞかし、同じ闘いの土俵に上っても来られない人たちのことなんて、見下しているんだろうと思われるでしょうね」
「……誰かがそう言うのですか?」
「いいえ。でも客観的に見たらそう思うでしょう。他人のことは見えるところを一面的に見ただけで知ったような気になるのが人間というものよ」
私はまた唸り、改めて彼女の顔を眺めた。
「周りがそのような印象をあなたに抱いているとすれば、それはあなたの本当の人柄からはかなり解離しているように思います。そういう息苦しさはありますか」
「別に。わたしは素直にそういうキャラクターを演じているだけ。今はね」
おもむろに立ち上がり、今日も机上に置いてある分厚い六法全書に手を置く。
「わたしはそれを越えていく。自分の力で、皆がわたしに抱いてきたイメージから抜け出してみせるの。わたしにはそれができると信じているわ」
見ていなさい、というように、彼女は私を見返した。
「だから。わたしはあなたの世話になる人間じゃないのよ。いい加減わかってくれない」
死神から聞き出そうとしたことは教えてもらえなかったためか。結局は、彼女は私との関係を忌々しいものに切り捨てたがるところへと立ち戻るのだった。
私の方では、色々と核心に触れるような話を聴くことはできたが、彼女の謎に迫る手がかりは何も得られなかったと感じていた。
「必要がなくなれば、組紐が切れるんです」
こうも取っ掛かりがなくては、落着へと導くこともできない。
ふてくされる薫からは今日も死のにおいがする。