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第2章 笑顔の奥

イザヨイが新しく組紐を結んだ「薫」は経歴も華々しく、一見して自殺の恐れがあるようには見えない。ところが彼女からは死のにおいが漂うのだった。



 あの時も、彼は明るく笑っていたのだ――。


 あれから薫に改めて接触することはしないまま退勤してしまったが、帰宅して一息つくと、燃えさしが勢いを取り戻すようにそのことで心が落ち着かなくなった。

 萌木(もえぎ)色の組紐だった、淳也(じゅんや)。記憶に蘇るのはもちろん、唯一私が判断を誤り死なせてしまった彼のことだ。

 鬱病に苦しみながら短時間勤務でも働いていた彼は、最後となったあの日、眩い夕日の中で、すっかり気持ちが楽になったような晴れ晴れとした笑顔を見せたのだった。何かの節目だったわけでもなく、特別な出来事があった日でもなかった。

 私には今でも、彼がなぜその翌朝に死んだのか、わからないのだ。言い換えれば、なぜ死ぬ前日にあのように笑えたのか、理解できずにいる。淳也の死から私が得た教訓といえば、笑っていても人は死ぬこと、理由の見当たらない明るさは危険信号であること。それから、彼から漂っていたあの花のような不思議な香りが、死のにおいであること。

 ――要するに、私は何かを学習したと言えるほどには、何も解っていない。

 床に起き上がったままそんなことを考え込んでいることにふと気がついて、首を振って頭から叩き落とす。

 駄目だ、駄目だ。仕事の気がかりで眠れなくなるなど、あってはならない。

 溜息をついて、なんとなく奴がいつも上がり込んでいる空間に目をやった。

 昨夜、今夜と、アシタレは来なかった。おかしくも珍しくもないことが少し応える。

 寒いせいで。


     ***


 振り返ってみると、新任の頃は短期で落着するようなケースばかりを任されていた。問題も取るべき措置もはっきりしている、いわば簡単なケースだ。だから前半期は月に六件くらい片が付くのは当り前という感覚だった。それがだんだん四、五件でも上出来になり、秋になって急に沙智や眞輝のような難しいケースを割り振られるようになった気がする。

 今も当然ながら私が受け持っているのは薫だけではない。久礼亜(くれあ)の救出作戦も進行中だ。私の手首には現在、二十八本の組紐が色とりどりに結ばれていて、男が十五、女が薫を入れて十三である。実際の自殺者数は男の方が多いのに、我が班が対応している例の男女比がおよそこの通りであるのが、私には当初からずっと謎だ。その中には、以前ナマメが嘆いていたように、本当に死神の介入が要るのか疑わしいケースまで含まれている。

 誰が何を以て出動を見極め、担当を割り振っているのか――ふつうに考えれば自殺対策班の長であるイナミさんだろうが、それほど大きな権限を持っているようには見えない。そうなると自殺対策班創設の経緯からも死神の長であるウミヤメ様となろうが、ご多忙であられるのにそこまでなさるだろうか。真相は私たちには明かされていない。

 三日目は薫とじっくり話したいと思い、順番を後に回して先に十件の訪問を片づけた。その十番目に、私は久礼亜に会いに行った。


 久礼亜の救出作戦は時機を見て十月三十日に開始した。彼女については極めて繊細な問題を扱っていくことになるため、担当させたい者の対応できるタイミングをとらえる必要があったのだ。ある状況に対してどのような対応が取られるかは、窮極的には担当者に依る。的確に機転を利かせて丁寧な仕事をする者もいれば、冷たく手を抜こうとする者もいることから、誰に当たるかの運が重要になる。

 そのため今回は私が担当者を指名するに近い形で、日付が十月三十日に変わると同時に運のプログラムを組んだ。措置として認められているとはいえ、そのような介入は何をしてもよいというわけではない。事前に管理職の許可を得ねばならず、具体的な内容を示して正式な申請を行う。申請が通れば呪術に使う専用の巻紙と筆とが授けられ、儀式用の室を使用できることになる。

 オペレーションにも様々あるが三十日の(まじな)いは脱出の段取りということで、私はフローチャート式のものを巻紙に書いた。儀式の()はそれ自体が結界の中に設えられた小さなお堂のようなもので、四方の壁は明かり障子になっており、月の明るい夜であれば中は仄かに明るい。四隅に燭台を置き中央に式を書いた紙を広げ、神はその前に半跏趺坐する。マントの裾を払って座り、記した彼女の名の上に左腕を掲げ、久礼亜の檸檬色の組紐を右手に握り呪文を唱えると、組紐と巻紙は呼応して光を放ち、篝火のように明々と室内を照らした。その輝きの中で私が書いた墨字の式は紙から浮かび上がると、ゆっくりと渦を巻いて溶けるようにして消えた。


 経験してきた中では最も大掛かりな操作をしている。

 三十日はまず近隣住民がゴミに関する相談として自治体に通報し、翌朝にはさっそく自治体職員が部屋を訪問した。その場で犯罪が絡む事情であることを知った職員は警察に通報し、警察の保護を経て、十一月四日現在、久礼亜は一時的に女性シェルターに身を置いている。今後は二十歳まで受け入れてくれる自立援助ホームへの入所を目指して、引き続きプログラムが作動中だ。

 彼女の緊急保護の受け入れに応じたのは県外のシェルターで、移送された時点であの呪わしい部屋から遠く離れたため、長く絶望に打ちひしがれていた久礼亜はそれだけでも幾分穏やかな明るい表情をしていた。

 「施設の環境はどうですか。つらいことはない?」

 ベランダに出て夜風に当たっていた久礼亜は恥ずかしそうに微笑んだ。

 「何も。明るくて暖かくて清潔で、ご飯がもらえるんだよ。それにここは絶対、あの人たちには見つからないんだから」

 そう言って腕を広げて大きく息を吸い込み、幸福そうに空を仰ぐ。

 「寒いでしょう。中に入ったら? 風邪を引きますよ」

 「星が綺麗。あんなにたくさん」

 はしゃぐように星を一つ一つ指さし数える久礼亜は、もうあの奇妙な「懺悔」の儀式を私に求めないのだった。

 「福祉事務所の人がお金のことを考えてくれてるみたいな話をしてたんだけどね」

 マフラーに鼻を埋めて、彼女は初めて気がかりを口にした。

 「色々と手続きをするようなら、ボクは家族の家に帰らなきゃいけなくなるんじゃないかな……」

 元々、家族がつらくて家出をした彼女だ。帰りたくないことはわかっている。

 「大丈夫、あなたの家庭背景は家出の理由になります。そもそもは児童相談所に保護されるべきだった。そのことがちゃんと考慮されるように、私が図ってあげる」

 私を見上げる彼女の落ち窪んだ目は潤んでいた。

 「すべて上手くいく」

 こくんと頷くと、久礼亜は私の左手に触れた。

 「神様。また会いに来て」

 どき、と刺されたような感覚が胸に走った。

 私の手首に檸檬色の組紐を探り出すと、愛おしそうに撫で、重ねて言う。

 「いなくならないで。もう少しボクの側にいて」

 私は口を開き、ほんの刹那、答えに詰まった。

 「組紐が繋がっている限りは、あなたが呼んでくれればいつでも」

 組紐で縁が繋がっている限り、とは、私には我ながら頼りない約束に思われた。

 私がすべきことは残すところ、将来にわたって危険を除くため、彼女に危害を加えた者たちが犯罪者として裁かれるよう警察の捜査を動かすことだ。それを見届けた時が久礼亜との縁の切れ目である気がしている。だが、縁はしばしば私にも思いがけぬタイミングで切れる。直近では、引き続き見守りが必要だと思っていた(はなだ)色。そして、怨霊を生み出したことで切れた、牡丹色の沙智(さち)だ。

 久礼亜はじっとうつむいたまま何も言わなかった。別れは近づいているかもしれないことを、彼女も予期しているようでもあった。


     ***


 暖房の利いた明るい部屋で、薫はブランドのものであるらしい上下のルームウェアに暖かそうな毛織のストールを羽織り、マグカップを片手に読み物をしていた。

 「勉強ですか?」

 私の存在に気がつくと、薫はあからさまに嫌な顔をした。よく似合う金縁にダークグリーンのつるの眼鏡も洒落ていて高そうに見える。

 「本当にまた来るなんて」

 彼女は溜息をつき、読んでいたコピーの束を伏せた。

 「それは法律の勉強ですか?」

 「勉強というか。判例を読んでいたのよ」

 彼女は面倒くさそうに、傍らにある分厚い辞書に手を置いた。

 「六法を覚えるには判例に当たる方が、効率がいいの」

 表紙に大きく六法全書と書かれたそれは、私たちが学精(がくせい)時代に試験の度に暗記した教科書のような厚みの辞書だった。人間もこれくらいの情報量を吸収することに新鮮味を覚えつつ、私は自分が学精であった頃に思いを馳せた。

 「熱心ですね。将来は司法試験を受けるんですか?」

 「ええ。でもそれは通過点。わたしは裁判官になるつもりだから」

 「正義感が強いんですね」

 彼女はうんざりしたように言った。

 「だから言ったでしょう、わたしには動機がないって」

 苛々として首を振り立ち上がる。そして再び会えば訴えるつもりだったとばかりに、自分の左腕に結ばれた組紐を突き出して見せた。

 「これ、外せないのね。解けもしないし、切れもしない」

 背の高い彼女だが、私の方がさらに高い。あまり女を見下ろさないであろう彼女の目が、悔しそうに眼鏡の下から私を睨み上げる。

 「夢だと決めつけないで訊くべきだったわ。あなたは何を代償に取るの」

 「代償?」

 「悪魔との契約には代償が付き物でしょう、魂とか、寿命とか。死神は何が欲しいの、人を死なせないとかいう、おかしな死神は」

 言いたいことがようやくわかり、意外に思って私は笑ってしまった。

 「ああ。その手のファンタジーも読んだりするんですね」

 「馬鹿にしないでくれる。それくらい冗談みたいな話じゃない」

 薫は思いのほかムキになって声を尖らせた。

 「何も。報酬は上からですので、あなたからは何もいただきません」

 胡散臭い、と、彼女の心の声が聞こえた気がした。

 言いながら私も、これほど胡散臭い台詞はないような気がした。

 こういうことを訊かれたのは初めてだ。死神と縁を交わすことへの拒絶といえば、ふつうは眞輝のように、そんなものは要らない死にたい。というものだ。自分の人生への不利益、などという問題に思いが至るのは、彼女には本当に積極的な考えがないことを意味しているのだろうか。

 それなのに彼女からは今も、束ねた髪の香りとは別に、死のにおいが漂っている。

 「その写真は、どこで撮ったものですか? 外国の人とも交流があるんですね」

 私は机上に飾られた写真について尋ねた。

 それとわかる西洋人と、アフリカ系、アジア系の若い男女に囲まれて笑う彼女が写っている。だいぶ印象の異なる原色のタンクトップ姿で大胆に肩を露出し、笑顔も溌溂として別人のように違って見えた。

 「ああ。それは高校時代に、バークレーに留学してた頃のよ」

 ハイスクールの仲間。と、私から写真へと視線を移す。

 「留学の経験もあるんですか」

 薫は腕組みをして、写真の方へと身体を向けた。

 「一年だけね。あとは、サマープログラムとか短期の物にはいくつか」

 「いつもバークレーですか?」

 「全然。アメリカとも限らないし」

 「では世界のあちこちに友達がいるんですね」

 「他人はそうやって羨ましいことみたいに言うけど」

 彼女はこの会話が気に入らない様子で遮った。

 「わたしに言わせれば別に、言うほどのことではないって感じ。高校留学のおかげでこっちの大学へ入るのは一年遅れたし」

 相槌を打たずにいると、言葉が続いた。

 「刺激は受けたわよ。特に高校時代のは。ホストファミリーは毎週末のようにホームパーティーを開いたし、向こうのママの紹介でロビー活動の集会にも参加して」

 「どのような思い出なんですか、薫の中では」

 彼女は椅子に座り、低い声で答えた。

 「……青春ではあったんじゃない」

 色々言っているが、今一つ彼女自身の思いが出てこない。

 話を聴いていて、私はそんな風に感じた。

 「もう行ってくれない。切りが悪いから、あんまり遅くなりたくないんだけど」

 資料を表に返したそうに手を置いて、邪魔そうに言うので、私も答えた。

 「そうですね。お邪魔しました。組紐で繋がっていますから、あなたから呼んでくれればいつでも駆け付けますし、私の方でもまたそのうちに様子を見に来ます」

 「話したいことはないから、わたしに付き纏わないで」

 私は肩を竦めた。死のにおいのことは、現時点では彼女に言うべきではないだろう。変に刺激して、どう反応するかまだ予測がつかない。

 「邪魔しないようにはしますよ。では、また」


     ***


 動機不明の自殺には稀に死霊の祟りが混ざっている。

 そのことを思い出した時、頭をよぎったのは茜のことだった。

 年が離れているためほとんど考えられないが、関係者の縁者であるとか、薫は知らなくても茜は知っているというような繋がりが絶対にないとも言い切れない。

 本人に希死念慮が見られなくても死のにおいがする事実は看過できないため、私は翌朝さっそく福神(ふくのかみ)課に出向いた。

 「縁図(えにしず)の照会ですか?」

 (えにし)班の窓口の鬼は困った顔をした。前回眞輝について情報提供書を申請した際はえらく待たされたため、急を要するということで直接足を運んでみたのだが。

 「……原則として、申請手続きは窓口ではお受けしていなくて、文書での提出をお願いして、通常は二週間程度のお時間をいただいているのですが」

 「急いでいるのです」

 面倒くさそうな間を置いて、鬼は席を立った。

 「わたくしでは判断いたしかねますので、少々お待ちください。担当の者に訊いてみます」

 私は私で苛々した。窓口はこういう期間を長めに言うもので、二週間とは実際には中四日程度であったりするし、死神課(うち)の事務は中三開庁日がふつうだと言っていた。しかし今のような対応を見てしまうと、前回縁班からの返信に十日ほど待たされたのはあれでも急いでもらったのかもしれないし、産神(うぶがみ)課の運命班や冥府は尋常に所定通りの日を置いただけなのかもしれない。他課の神々はなんとのんびりしているのか。

 十分も待たされた挙句、奥から戻ってきた鬼の返事はこうだった。

 「この場でご覧になりたいということでしたよね。今、担当の者が責任者に問い合わせておりますので、一時間後にもう一度いらしてください」

 死神は怖いと陰口の種になるのも嫌なので、私は溜息を飲み込んだ。

 「わかりました。よろしくお願いします」

 仕方がなく事務室を出た。福神課の西第七庁舎は、先日の停職処分中にヌリコに会いに訪れた産神課の西第八庁舎とおおよその雰囲気が似ている気がする。白い大理石の回廊を抜けて明るい空を見上げると、なんだか肩の凝りを感じた。


 あーあ。本当は私、仕事嫌いなんだけどな。


 首を回していたら通りがかった福神と目が合った。福神課も幸福班の福神様なのだろう、といういでたちの美しい女神だ。裾を引きずる花柄のドレスに臙脂色のゆったりとしたカーディガンを纏い、紗のストールを羽衣風に腕に掛け、幾重にも重ねづけられたネックレスの珠がしゃらしゃらと音を立てるのが聞こえてくるようだ。華やかで羨ましい。顔を伏せるようにして会釈した私はといえば、頭からつま先まで黒ずくめで色彩は左の袖の下だけ、それもお洒落で取り合わせたブレスレットではなく、人の命と繋がっている組紐である。

 眩しいばかりの景観に一際異質なものに浮き立ち、死神の自分が今さら惨めに思われた。

 本当は、人間庁なら福神課(ここ)に配属されたかった。華がある部署で、人間に感謝されて、仕事はゆるゆると楽しくやりたかった。

 方形の広場に出ると、中央に立つ樹齢千年ほどかと思われる巨木の下にベンチを見つけた。木陰に入り腰かけて、昨夜の薫の話を思い出す。我々の棲む超自然界に資格試験というものはなく、あるのは学校の進級試験と卒業試験、そして志望者のみが受ける神の試験だ。一昨日彼女の大学のついでに調べたところによれば、法曹資格を得るための司法試験とは、合格率自体は私が受けた神の一般職と同じ程度のようだが、内容としてはおそらく専門職である冥府の神の試験に相当するものだと思われる。

 つまり彼女は志も高い、相当のエリートということだ。

 返事を一時間待つ間に、他のことをする気になれなかった。たまにはぼーっとして時を過ごしても罰は当たらないだろう。薫と話すと疲れる。猛烈にこちらを振りまわそうとした沙智とも、不気味であった眞輝とも、また違う。


 《他人はそうやって羨ましいことみたいに言うけど、わたしに言わせれば別に、言うほどのことではないって感じ》


 陽が暖かくてこのままうたた寝しそうな私の耳を、彼女の声が掠めていった。



 ぴったり一時間で戻ると、窓口の鬼がやや呆れた顔で言った。

 「一応、特別の許可が下りまして、縁管(えんかん)係の長立ち会いのもとで閲覧できることになりましたので。そちら様の職員証をお預かりして写させていただきたいのと、こちらの様式に照会されたい人の氏名と身元確認のできる情報の記入をお願いします」

 受付の机上に出されたのは要するに通常の申請を行う際の様式だった。調べたいのは茜の方の縁図だ。眞輝に付き纏う様子を目撃した時に、報告ついでに冥府の出張所へ出向いて先方が特定済みであった彼女の身元を照会した。調査要請した情報が一向に集まらないので業を煮やし、死神課にあるはずの記録から死亡経緯だけでも調べたいと思ったためだったが、まだ覚えていたのが役に立った。私は記憶力だけはいい方だ。

 一通り書いて職員証と一緒に差し出すと、鬼は受け取って腰を上げた。上の話が纏まったためか、先ほどとは変わっててきぱきとした応対だ。

 「お預かりします。お待ちくださいね」

 再び奥へ引っ込んでしまったので、何分待たされることやらとその場に立っていると、鬼は意外とすぐに戻ってきた。後から入って来たのは、緋色の(ほう)を着た白髪交じりの男神である。私を見ると親切そうな微笑を浮かべ、鬼の差し出す書類を取って目を通した。

 「死神課のイザヨイ君ね。はいはい。こちらへどうぞ、ついてきて」

 親しみやすそうな、気さくな口調だった。

 「君は確か、先月にもうちに情報提供を求めていたよね」

 回廊に出たところで尋ねられた。

 「はい。その際は文書で申請しましたが……」

 名前を覚えられていたということだろうか。驚かずにいられない。

 「今回は故人のものを開示してほしいということだけど、珍しい要望だから一応その理由を聞かせてもらおうかな」

 後ろに従って歩きながら、謹んで答える。

 「私が自殺対策で対応している一人が、どうにも動機になるような要因を見出せないのですが、死のにおいがするのです。そのような事例には稀に死霊による祟りがあると聞いたことがあり、私の知る中に生前に関わりのあった者を連続的に祟り殺していると容疑をかけられている霊がおりまして、もしやと思いまして」

 「それがこの仁科茜という人物なの?」

 「はい」

 ふうん。と、縁神(えんのかみ)は唸った。

 「実は私もこの名前はよく知っているんだよ。この数日で三度目なんだ、仁科茜について尋ねられるのは」

 即座にラゴウの顔が目の前に浮かんだ。私の勘はおおよそ当たった。

 「最初は冥府だった。此岸に逃げたままで捜査している死霊がいるが、このところ若者の不審死や不審な事故が続いているので、被害者との関係がないか調べたいと言われてね。次に怨霊班の祟神が来た。捜索に役立てたいので、これから狙われるかもしれない人物を把握したいということだった。そして、君だ」

 回廊の突き当たりに接続しているような巨大な建物の前まで来ると、縁神は縦に長い観音扉を重たそうな音を立てて開いた。中は古びた紙のにおいに満ちて、塔のような高さから天窓の光が柔らかく射している。その壁面は数百段もの棚でできており、分厚く綴じられた名簿帳がぎっしりと詰められていた。

 どうやって探し出すのだろうと見ていると、縁神は片腕を上げて彼女の生年と苗字を唱えた。すると一冊がひとりでに抜け出て、彼の手の中へと降りてきた。

 「生年ごとに氏名の五十音順に収録されている。五十年ごとに死者の分の頁を纏めて抜いてね。下段の棚ほど若い」

 なるほど表紙と背表紙には彼女の生年に加えて「に―した」と書かれている。その後ろの方に仁科姓が並び、私は朱の罰印を付けられた茜の頁を見つけた。教卓ほどの高さのある台に置かせてもらい、見落としのないようにくまなく櫻井薫の名前を探す。

 薫の名は、なかった。

 関係者ではない。という結論を得てみれば、当り前か。という気になる。

 「気味の悪い話だ。関係なかったなら、よかったね」

 私は礼を言い、申し訳なくも思って何度も深く頭を下げた。

 さてと。ならば、どうしよう。



 次の手が考えられないまま、その夜は薫を尾行することにした。

 大学の最寄り駅の前の賑やかな通りを、カフェのようにお洒落な外装の店から出てきた彼女は数人の仲間と一緒に歩いていた。まだ忘年会ではなかろうから、一昨日見た集団とおおよそ被っているところを見ると仲の良いグループなのだろう。彼女たちは年頃の娘らしくクリスマスのイルミネーションにはしゃぎ、一人が薫の背後から尋ねた。

 「櫻井さんは、クリスマスはバークレーの彼に会いに行くの?」

 「まさか」

 薫は鼻にしわを寄せて首を振った。

 「それだけのために渡米なんかしない。そんなお金ないし」

 ええー? と友人たちの間に笑いのどよめきが広がる。

 「またまたー。誰よりもお金持ちじゃない」

 駅前で別れると、彼女は踵を返して大学の方へと歩き始めた。大学から徒歩五分の高層マンションに一人暮らしをしているのだ。

 私の存在に気づかないまま、彼女は十五メートル先を歩いていく。そして、大きな交差点に差し掛かった時だった。

 私は目の前に忽然と現れた青白い影にぎょっとした。


 それは茜の背中だった。



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