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第1章 紫の組紐



 まだ真新しい、高層ビルのような立派な校舎だった。その四階フロアの吹き抜けの手すりに一人もたれかかり、彼女は物憂げに一階のエントランスホールを見下ろしていた。大方の学生はすでに下校したものと思われ、今は一部の教室が講義に使われているのみで、彼女の他に人影はなく、辺りはしんとしている。

 「こんばんは」

 声をかけると、すらりと背の高い彼女はゆっくりと私を振り向き、不審そうに眉を曇らせた。都会的な色合いの洗練された服装に、ウェーブをかけた明るい髪を編み込みにして、丁寧に化粧をした彼女はこれまでに私が出会った人間の誰よりも垢ぬけていた。

 「何、あなた」

 低められた声は長い黒髪に黒ずくめの私をこの世のモノではないと悟って怪しんでいる。誰でも最初の時は驚くが、それは初めて見る反応であるように感じた。

 「私は死神課自殺対策班青年係のイザヨイです。あなたに会いに来ました」

 「……死神?」

 「自殺対策班の、死神です」

 彼女はじっと私を見つめ、やがて言った。

 「わたし別に変なことなんて考えてないけど。ちょっと考えごとをしていただけ」

 ショートブーツの足をクロスしてこちらへ向き直り、腕組みをする。

 「人違いじゃない?」

 問いかける彼女は悠々として手すりに寄りかかり、私に対して自分を大きく見せようとしていた。

 「それならいいのですが、櫻井(かおる)さんではありませんか。二十二歳で、法学部三年生の。自殺の恐れがあるとして上から出動命令を受けています」

 身元を言い当てられたことに彼女は一瞬不快感を滲ませた。腕組みのまま腹を抱えるように身体を屈めて、噴き出す前に。

 馬鹿馬鹿しい、といった笑い方だった。

 「誰にだって、死にたいと思う瞬間くらいあるんじゃない?」

 手すりを離れ、私の横を通り過ぎる。

 「思うことがあったって、わたしが現実にそんなことをするなんてあり得ない。死神が自殺対策だなんておもしろいけど、そういうことなら助けを求めている人たちのところへ行って。実際に行動に移してしまいそうな人、世の中にはいくらでもいるでしょう」

 確かに顔色が悪いわけでもなく、他のケースには必ず見られる自分へのなおざりな態度が見当たらない。私はそのことに違和感を覚えながら、彼女の使った言葉を繰り返した。

 「あり得ない。ですか」

 「ええ、最も縁のない人間ね。仮にわたしが自殺なんかしたら、誰もが驚いて不思議がるわ。あれほど恵まれて、悩むべきことなんか何もなかったはずなのに、って」

 「それでも我々としては、あなたの状態を重く見ているんですよ」

 薫が核心に触れることを言った感じを覚えつつも、私には彼女への介入を上が判断した理由がわからなかった。少なくとも緊急性は低いように思われる。

 「これから時々様子を見に来ます。名前は何と呼びましょうか」

 ――また来るのか。といいたげな表情が、振り向いた彼女の顔にはっきりと浮かんでいた。

 「……薫でいいわよ。呼び捨てにして」

 私はマントの下から葡萄色(えびいろ)の組紐を出し、彼女の白い手首に結び付けた。

 「これは私とあなたを結ぶご縁です。これが切れないうちは、あなたには死の恐れがあるということです」

 薫は小さな石の編み込まれた組紐に目を落とすと苦々しげに呟いた。

 「どういう夢なの。死神に因縁を付けられるなんて」


     ***


 釈然としない。

 一通りの訪問を終えて深夜の詰所に戻り訪問記録簿に印を入れながら、私は薫のことを考えずにいられなかった。自殺対策班(うち)が対応する者としては稀だが、人間社会でのステータスが高いケースである場合、我々はそれが彼らにとって何を意味するのか調べ、理解する必要がある。ひとまず明日は降臨する前に彼女の通う大学について調査しなければなるまい。同じように立派な校舎が何棟も敷地内に犇めくように聳え立っていた。

 下界のように激しい寒暖差はないものの、十一月の夜ともなるとだいぶ冷え込むようになった。さすがに寒い、とマントの襟を直すところへ物音がして振り向くと、同期のトミテが入ってきたところだった。トレードマークの黒いケープに身を包み、艶やかな黒髪のお下げ頭にフードをすっぽりとかぶっている。

 「あ、イザヨイさんだ」

 いつもの小さな声でぽそり、と呟き、彼女は暗闇の中をこちらへと歩いてきた。灯りは出入口と私の立つ記入台の手元に小さなランタンがあるのみで、明かり障子からの月影の限りなく弱い今夜は影そのものが闇に呑まれ、靴音だけがひたひたと近づいてくる。その音が私のすぐ横に止まり、彼女の紙のように白い顔が浮かび上がった。小柄で童顔のトミテは生まれた時から死神のような子だ。

 「お疲れ」

 「お疲れさまです。例の柿色の子、落着したそうですね」

 相変わらず彼女は、そんなことにまで耳が早い。だが私には薫の印象が強すぎて、驚くべきことに眞輝の落着の件はすでにかなり前の出来事のように感じられた。

 「うん。今日からまた一件増えたんだけどね」

 私は敢えて声を明るくした。

 「まあ、今度のケースは、そう深刻ではなさそうでさ」

 「――紫」

 トミテが被せるように鋭く呟いた。常に無表情な彼女が珍しく眉間を寄せて、私の手首に結ばれた葡萄色の組紐に目を注いでいる。

 「その子、結構手強いかも」

 「え?」

 「わかりませんけど。私の持ってきたケースで一人だけ、どうすることもできなかった子が菖蒲(あやめ)色だったので」

 目を見張る私をよそにトミテは自分の記録簿を開き、何も言わなかったかのように淡々と記入を始めた。

 トミテが「どうすることもできなかった」と言うのは、ただ事ではない。

 「その、菖蒲色の人は、つまり、亡くなったの」

 「ええ」

 それは何の感情も含まない、普段と変わらぬ淡白な声音だった。

 「……どういうケースだった?」

 彼女は答えなかった。聞こえなかったとばかりに聞き流し、記入を続け、それ以上のことは教えてくれなかった。


 組紐の色がたまたま同系色であるというだけで何を。と言えなくもない。ただ、トミテの言である、ということが私の心には魚の小骨のように引っかかった。

 何しろトミテは、自殺対策班の中ですでにその手腕と才能を評価されている。情報通でもあり、どこでそんなことを聞いてくるのかと思うことを色々と知っている。

 紫は難しい。というのはそんな彼女の直感か、あるいは、何かそういう話が本当にあるのだろうか。

 翌日は普段よりも早く出支度をして、私は死神課の北第四庁舎ではなく本庁にある大きな資料館を訪れた。薫の背景について輪郭を掴むためだ。人間界の様々な情報を集約している施設で、時の著名人や企業や学校等々、細々(こまごま)とした名称などはここへ来て調べる。彼ら人間にとっては一般常識でも、我々には関係のない事柄まで手広く把握してはいられないからだ。私の欲しい情報は単純なものなのですぐに見つかった。昨夜訪れたキャンパスの風格や彼女の知性的な雰囲気から察した通り、彼女が在籍している大学というのはその分野においても名門中の名門であるらしい。

 彼女の言葉がそのまま耳に蘇る。


 《ええ、最も縁のない人間ね。仮にわたしが自殺なんかしたら、誰もが驚いて不思議がるわ。あれほど恵まれて、悩むべきことなんか何もなかったはずなのに、って》


 あれは、世間に言わせれば。という表現だ。

 どういう意味だろう。

 人間がよくわからないことを言った時、言い回しを変えずに覚えることもまた一つの技術である。不思議な表現を自分の中で言い換えてはならない。解釈を交えれば記憶が歪むからだ。これは初任者研修で教えられたことではなく、最初の頃にその大切さを感じて私が個人的に気をつけるようになったことなのだが、今回はそれが特に重要であるような胸騒ぎがしている。

 薫は不可解だ。不可解であるものは、怖い。


     ***


 学友と一緒にいる彼女を観察するため私は通常より一時間ほど早く、まだ明るいうちに昨日の校舎に降臨した。学生たちで賑わう一階ラウンジの中ほどで、ラフな髪形の薫は外国人留学生と思われる男子学生と談笑していた。栗毛に鳶色の瞳の青年は年上に見え、テーブルに片肘をついて身体を彼女の方に向けている。対して薫は椅子の背にもたれて昨日のように腕を組み、テーブルの下では足組をしていた。流暢な英語で雑談をしている。

 白いファーの襟の暖かそうなコートを着たまま話している様子を見るとそう長時間滞在するつもりではないのだろう、と思ったところへ、果たして彼女の名を呼び、手を高く振る人物が現れた。ラウンジに入って来たばかりの少人数の女子グループの一人だ。待ち合わせをしていたのだろう。薫は顔を向けて応えると、青年に短く断わり、すぐに席を立った。

 「なーに、留学生?」

 薫を呼んだ女子学生が多少苦い顔で笑いながら尋ねた。

 「そう、院生らしいけど。こないだ図書館で困ってたから借り出しの仕方を教えてあげたら、顔を覚えられてたみたいで」

 彼女の雰囲気に合うブランド物のバッグを肩にかけ直し、明るい声で答える。

 「薫さん、彼氏は? こっちで留学生と仲良くしてるなんて知れたら大変なんじゃない」

 冷やかす友人に、薫は全然という風に笑い返した。

 「別に。向こうではあんまり、そういう細かいことってお互い気にしないから」

 あっけらかんとした言い方に、友人たちは顔を見合わせた。

 「そうだよねえ、小さな事でごちゃごちゃ言う男なんかと付き合わないよね、櫻井さんは。さすがは大きな世界に住む人」

 「まあね」

 そんな会話をしながらグループは屋外へと出て行く。同じ大学の学生集団の中にいても、薫は一際垢ぬけて華があり、輝いてすら見えた。

 ――やはり、そう深刻ではなさそうか。

 無理に話しかけることもないか、と思った。初めの三日は続けて観ることにしているが、ただ観察するに留めることもある。今日は薫が海外にも明るいことと、友人たちとの関係は微妙であることが掴めたから、これでよしとするか。

 首を傾げながらも去ろうした矢先に、嗅ぎ覚えのあるにおいを微かに感じて、私ははたと振り向いた。正門へと向かう一行を追い、薫に気づかれないように近づく。

 ――どういうことだ?

 確かめると私はその場に立ち尽くし、笑っている彼女の背中を見送った。

 香水ではない。何かの花のような、あの甘い香り。

 薫の襟元から、死のにおいがした。



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