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外伝. その如月の望月の頃

願わくは花の下にて



 記憶はやがては物語となり、昔とは、結局はその姿を失ってゆく。

 死んだ者は遺された者の心に生き続けるが、永遠に語り継がれてゆくわけではない。一つ、二つの逸話に生きているのはせいぜい、親の親の、親くらいまでであろう。何百年も守られる墓に眠るのは、ほとんどが当代の墓守さえも生前を知らぬ先祖ばかりである。

 人の住まなくなって久しく、忘れ去られた集落の外れを(たえ)はゆっくりと歩いていた。今は畦道も草に埋もれた田圃の中に、巨大な桜の老樹が立っている。


     ***


 「これは、これはお懐かしい」

 打ち捨てられて百年にもなろうかという風情の廃墟を訪ねると、奥の闇から出てきた老婆は皺だらけの顔をほころばせ、さあさ、と中へ招き入れた。縁の擦り切れたボロを着て、ぼうぼうとした白髪頭に先の丸くなった角が二本突き出している。

 「まさか再びお会いできましょうとは。何十年ぶりでござりましょう、最後にいらっしゃった時には確か、この村にはまだ人がおったような」

 老婆はヨタヨタしながら、嬉しげに酒の用意などしようとする。

 「ああ、まだ人がいたよ。どうか気を遣わないでくれ。それとも私がしようか」

 腰が曲がっているのにと見かねて手を貸そうとすると、老婆は頭を上げてよくよく妙の顔を眺めた。

 「しかしまあ、貴方様はいつまでもお変わりのう、若々しゅういらっしゃいますな。わしばかり斯様(かよう)に老いぼれ果てて、齢では同じのはずでしょうに」

 妙は微笑み、酒器にされた焼き物の急須を老婆から受け取ると、もう片方の手をそっと底に添えた。白の直綴(じきとつ)はそのままに今は雲水のような身なりをしている。髪ばかりは早くに真っ白になったが顔立ちの瑞々しさは未だ衰えず、腰も背中も曲がらず凛として、鬼になった日から歳を取っていないようにすら見える。

 「そうでもない。近頃、手に力が入らなくなってな」

 老婆は驚いたように目を剥いて、妙の指の長い手を見据えた。

 「槍がすっかり重くなって、手が滑る。だから私も老婆だ」

 「さようですか。――手に」

 老婆は噛みしめるように言い、何か思う顔でひとり頷いた。

 今はさすがに少なくなった、妙の昔馴染の鬼の一人である。

 「冥界の神の御役目を解かれて、如何なされているかとずっと気にしておりました。お隠れにでもなれば風の報せがあるだろうとは思いながら」

 それも遠い日の事になっている。外の光の薄らと射し入るだけの薄暗い玄関を縁側代りに、湯吞茶碗をぐい吞み代りに酒を酌み交わす。

 「どうというほどのこともない。私には元の旅暮らしに戻ったようなものだ」

 「では、今も諸国を訪ね歩いていらっしゃるので」

 ああ、と答え、妙は茶碗から口を離した。

 「鬼が増えた。怨霊ではなく、鬼になる人間が。大きな都市を歩くとその多さに驚く」

 老婆はさほど驚かなかった。顔をしかめて一口を飲みこみ、茶碗を節くれ立った指に包む。

 「人がおらぬようになって間もなく、山より獣らが下りて参りました。熊、猪、猿に鹿、狐狸(こり)。それらに引かれてさらに山奥からもののけが。この頃では町からも、増えた鬼に押し出され流れて参りますよ」

 「ひと頃はほとんど見なくなっていたのにな」

 「そうですよ。我らの居場所は無くなるのだと嘆いていた頃が懐かしゅうござります」

 人の世が大きく様変わりするのを、老婆も妙も、季節が廻るがごとく幾度も目の当たりにして来た。国を開き、異国と交わり、戦に焼かれ、異国と交わり、生まれ変わり――。

 「今はどのような者が鬼に変わるのですか。いかなる次第にて」

 「それがよくわからない。人の扱いのまましばらく日陰に潜み、闇に紛れていくような、曖昧な変わり方をする。生きた肉体を留めているために、祟神には怨霊や魑魅魍魎のようには始末できない」

 妙は自由の身になってからというもの、この老婆のように土地のモノを束ねている長に昨今の様子を尋ねて回る旅を続けていた。その中にはかつて妙が拾った幼い死霊が長じたもののけも多い。

 ほとんどの子どもは親が亡くなれば後を追いかけて成仏したが、そもそもが口減らしのために命を摘まれた子らなどは冥府に渡らずそのまま妙の側に留まることも多かった。時の流れぬ開かずの間の天邪鬼(あまのじゃく)の力を得たためか、妙の霊力に守られている限りは死霊でありながら腐敗することがなく、一定の時を経て自身が十分な霊力を得れば、彼らは一人前のもののけとして独り立ちを果たした。

 そのようなことをしていたので、道理を(たが)えていると冥府に目を付けられたわけである。筋を通しているのは妙の方であり(さい)河原(かわら)などへやられることこそ不条理と考えたのは、神の間では逆縁の子の運命に心を痛めていた死神のウミヤメだけだった。ただ、妙は自らが神になることは望んでいなかった。

 旧知の仲間は、妙が神の籍を廃されただの鬼に戻ったのだと聞くと憐れむどころかそれを喜び大いに労ってくれたものだ。

 「生命があるから当然冥府にも取り締まれない。今さら私の耳に聞こえてくるわけではないが頭を悩ませていることだろう」

 「なるようになってゆきますよ。この度も、これからも」

 神々の事情など知らぬ。老婆の顔にはそう書いてある。

 「そうだな」

 妙が世の有り様の移ろいを眺めているのも、誰に任された役目でもない。生来の何でも見たがり知りたがる好奇心が変わらずに生きているようなものである。

 二人の間にしばしの沈黙が流れた。どこからか花の香りが漂ってくる。

 「そういえば、前にお会いした時に連れておられた娘っ子は」

 「(さえ)か。今もそこにいるぞ」

 妙は茶碗の手で表を指した。

 「気が引けて、あなたには顔を見せたくないそうだ」

 「おやまあ」

 老婆は聞こえるように声を大きくして、いたずらっぽく表を伺った。

 「捻くれた目をしていたのをよう覚えておりますよ」

 妙はクスッと笑った。切れ込んだ目尻に綺麗な皺を幾筋も刻んで。

 「あの頃はそうだったかもな。今は変わったぞ」

 「立派な天邪鬼に育ちましたか」

 「悪さはしないさ。私が未だに生きているのがその証だ」

 待たせているのだとは二人とも頭の隅に置きながら、こうして会うのは最後だろうと思うが故にずるずると、その後は昔の思い出を日が暮れるまで語り合った。


     ***


 「今日はどこへいらっしゃるのですか」

 街道から遠ざかってゆく背中に冴が問いかけた。今は大人の背丈になり、妙を真似て尼僧に似た身なりである。尼削(あまそ)ぎ頭に白い頭巾を被り、額に生えた小さな角を隠している。

 「花見だ。前にここへ来た時に、大きな桜の樹があっただろう。あれがまだ生きているか確かめたい」

 冴は寂しげな表情をした。どうした、と振り向かれ、その顔を見られまいと伏せる。

 「昨日から何か言いたそうにしているではないか」

 そのことではなかった。だが妙がそこに立ち止まったまま待っているので、冴は遠慮がちに打ち明けた。

 「沙智(さち)が死んだようなのです」

 欲望から己を生み落として魂の宿らない人間となった女、それが沙智だった。

 妙は冴の顔を見つめたまま瞬きした。

 「そうか」

 はい。と答えて、冴はふっと口元に微笑を浮かべた。

 「若い頃にあれほど命を危うくしておいて、よくも今まで生きたものだと思います」

 春の日差しが暖かく、暑いほどの日だった。菜の花畑のあちこちに、ぽつりぽつりと桜が生えている。満開であるため遠目にもそれとわかる。

 「沙智がどうしているのか、おまえにはずっとわかっていたのか」

 また歩き出して少ししたところで、黙って付いてくる冴に尋ねた。

 「私の体ですから」

 肉体から分かれた時の、冴が憑こうとした恋人と、最終的に沙智は結婚したのだった。その報告を受けた日の事を妙は思い出していた。

 「なるほどそうか。おまえは、もともとは大人の娘なのだったな」

 歩を緩めて横に並ぶと、冴は急に恥ずかしそうになって目を泳がせた。妙にはその様子がおもしろく見えた。

 「私は十歳で人の娘ではなくなってしまったから、大人の事は知らない。恋する心というものも、自分ではわからないままでな」

 こういう話を誰かとするのはおそらく初めてだっただろう。

 「でも、憧れなら私にもあったぞ。兄のところに来たお義姉(ねえ)様の花嫁姿が美しくて――。無邪気といえば無邪気だが、十五にもなると縁談が聞こえ始めるのが当時だったから、周りが羨ましくて、悔しかった」

 大名の姫君などとは違い木綿の着物を着ていた妙には金襴緞子(きんらんどんす)の花嫁装束が眩しくて、十歳の少女の心にはまだ、嫁入りといえば花嫁装束、といった具合だった。嫁いで来た義姉(あね)たちが幸せであったのかは知らない。

 一族は知らぬ間に滅びていた。墓などはもう、跡形も残っていないだろう。と、とりとめもなく思いを巡らせる。何もかもが遠く、自分も確かに娘であったことが、愛おしい。

 「ああ、ほら」

 あれだ、と指さして、妙はにこやかに振り向いた。そうこうしているうちに求めていた巨大な桜が見えてきたのである。それは少し先の小さな森の陰に隠れていた。何事か言い出したそうにしながら、冴はおとなしく従って行った。妙の旅の供をするうちに、冴は己を抑えることを覚えていた。人間の感覚のままでいればとてつもなく長い年月を共にするうちに。

 その年月に比べれば、遠くに見えた樹の下まで辿り着くのはあっという間だった。

 「咲いていたか。この春も」

 今年が最後ではなかろうか。樹はほとんど(うろ)(えぐ)られて、まだ花を付ける力の残っていることが不思議に思われるほどだった。その枝をしみじみと眺め上げる様を、冴はやはり寂しそうに見守っている。

 「さて。一休みするとしよう」

 灰色がかった幹に背をもたせて座り込み、冴を見た。

 「どうした。いつもなら冴の方から休みたがるではないか」

 そうではない。妙の方から休もうと言うようになったのだ。

 「何を悲しそうにしている?」

 思いつめたように紅梅の裾を払い、冴はその前に膝をついて座った。

 「ずっと訊きたかったのです」

 目は赤く、涙を湛えている。

 「どうしてあの時、私を庇ってくださったのですか」

 妙の目に、あの冥府の審判を受けた日のことが蘇った。

 「命を助けていただいたのに試した、庇ったところで何の得にもならない愚か者を」

 その顔を優しく見つめ返し、昔語りをしてやる気になって、目を閉じた。

 「昔、愚かな娘がいてな」

 閉ざした瞼の裏には、柳の下で町の子らに怪談を聞かせていたあのみすぼらしい老婆の姿が蘇る。あれも鬼であったのかもしれない。

 「親には近づくなと言われていたのに、天邪鬼が居ると聞いて開かずの間を暴いてしまってな。そして影を喰われてしまった。人間とは愚かなことをするものなのだ」

 小さく息を吐き、遠い目をする。

 「消えたくないと思った。一人で天邪鬼に立ち向かって。消えたくないと言ってしまったがために、悔やんでも死ねない体になった。どうでもよい、いつ何のために投げ出しても構わない我が身だから、やりたいことをやりたいようにして(ながら)えて、気がつけば三百年だ」

 長すぎた。

 笑いを漏らして、再び冴の顔を見た。

 「それをやりたいと思ったのだよ、私が。おまえを引き受けたいと思った」

 冴は涙を落とし、今度も何も言ってこなかった。

 昼下がりだというのに陽だまりが心地よくて頭がぼんやりする。はらはらと散る花びらを数えるうちに、ふと尋ねたくなった。

 「冴よ。この先はどうしてゆくつもりか」

 沙智が死んだ今、墓のある冴は成仏することもできる。

 「仏になるか。それとも、天邪鬼のまま生きてゆくのか」

 「いつまでもお師匠様の側におります」

 涙に声を詰まらせて、冴は答えた。

 「――それがもはや叶わないなら、いただいたこの命がある限り、旅を続けて参ります」

 妙は頷き、尼僧頭巾の頭を撫でた。

 「そうか」


 どの旅もいつかは終わる。その物語も時が流れれば忘れ去られ、一切は無に還る。

 暖かな春の風が吹いて、桜吹雪は夢のような景色だった。


 日が落ちれば、満月が昇るだろう。







これで本当の完結です。ありがとうございました



※歌の出典は西行法師「願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月の頃」です。

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