拾【完結】
第10章 死神として【完結】
腕時計を見ようとして、わたしはふと、そこに結ばれていたはずの紫色の組紐がなくなっていることに気がついたのだった。いつの間に切れていたのか。足元を探してもどこにも転がっていない。失われてみると、本当に存在していたのか疑わしくなってくる。
そういえばいつ頃からか来なくなったが、しばらくの間、女の死神に付き纏われていた。わたしに死期が迫っていると言うのではない。逆に、わたしが自殺をするかもしれないからそれを阻むと言うのだ。そういう縁があるからと一方的に結び付けられたのがその組紐だった。何度も来て、色々な話をしたような気がするけれど、何という名前だったか。名前があっただろうか。顔も、思い出そうとしてみると全然思い出せない。
きっと夢を見ていたのだろう。あの頃自分はどこでやっていきたいのか、日本なのかアメリカなのか、多少揺れていたからそんな夢を見たのかもしれない。
それにしても滑稽だ。死神に死ぬなと言われるなんて。まったく奇妙な夢だった。
***
「えっ、葡萄色が切れたの?」
カチャン、と箸を置いてナマメが声を上げた。
五月半ばのその夜、私たちはトミテも交えた三人で久しぶりに飲んでいた。
「どうやったの?」
隣に座る彼女に尋ねられ、斜向かいに座るトミテも手を止めて私の顔を見る。
「大したことは何も――彼女が自分を乗り越えられるように、環境を整えただけ」
私が思い出したのは留学中の仲間たちに囲まれたあの写真だった。恋人と別れて以来机に伏せられてしまったが、最後の対話の日に彼女はその写真盾を見ていた。
あの写真に写る彼女は、学科の仲間に囲まれている彼女とはかなり印象の違う、屈託のない笑顔を弾けさせていた。きっとあれが櫻井薫を演じていない素顔の彼女なのだろうと気がついた時、私にできることが目の前に拓けた。
私が目を付けたのはちょうど彼女が迎えつつある時期的な分かれ道だった。まずは、彼女が自分を磨くために欠かせないと考えている自主ゼミの存続だ。年末年始の休暇とその後に控える大事な試験期間、さらには大学入試のシーズンに春の休暇と、自主的な集まりは自然消滅し得る機会がいくつも続く。これらを乗り越え、新年度を迎えても定期的に集まれるようにするためには、メンバー全員が継続の意欲を強く保たなければならない。私は彼らの意志に働きかけた。進級試験後の一月半にもわたる長い空白期間には、むしろ大学の外などでも頻繁に集まり交流できるようにも働きかけた。
次には、薫が自分を〈他人の言葉〉でしか語れなくしているところの繋がり――現在でいえば学科の取り巻きたちと疎遠になるよう導いた。これは簡単なことだ、実際にそうなりやすい時期なのだから。ただ孤立感などを抱いて彼女の方から繋ぎ止める努力をしないように働きかけた。あくまでも自主ゼミの仲間との時間のウエートを大きくするために、学科の方を小さくして、彼女の拠点をそちらに移したということだ。
薫が素顔の薫でいられる場面が増えればそれだけ彼女は目指す高みへと力強く登ってゆけるだろう。彼女が最も価値を置くのはアカデミックな自分であり、華々しい経歴や高いスペックを見てちやほやする人たちとは違って、同じくアカデミックな興味関心で集まるゼミの同志は彼女のそのような魅力のみを評価するだろうから。
薫は必要以上に華やかに振る舞い笑って見せることをやめるだろう。だがその先は、すべて彼女が自分の努力で実現してゆくことだ。
「先輩たちが言う通り、私が救うと思わないことだった」
私の顔を見ながら聴いていたナマメは、ちらりとトミテの方を伺ってから口を開いた。
「なるほどねえ。よくそれだけで何とかなると思ったね」
悪気のない嫌味のようなことを言って、檸檬サワーのジョッキを持ち上げる。
「いやちょっと思いつかないわ。私は相手を信じてないってことなんだろうな」
半分くらい残っているのをいつものように一気飲みする様を見ていて、ふとトミテと目が合った。トミテは普段通りの無表情な顔で言った。
「よかったですね。落着して」
そしてナマメも私も多少気づかっているのを察してか、自分からその話をした。
「私が持った菖蒲色の案件は失敗したので。事後処理班が対応したものと思っていたら、変なことになっていたそうですけど」
本当は訊きたかったというように、ナマメが食いついた。
「その話、私も噂に聞いた。何が起きたんだろうね……?」
対するトミテの答えは、常のごとく極めてドライだった。
「さあ。私の手を離れた後の事なので。冥府の管轄なら捜査はそちらにお任せです」
顔を見合わせる私たちの前で塩辛をつつきかけて、彼女は手を止めた。
「そうそう。今日は二人に伝えておこうと思っていたことがあるんです」
箸を置いて、改まって姿勢を正す。
「ちょっと早いですけど、六月から私は特殊係の方に異動します」
えっ、と私たち二人の口から同時に声が漏れた。
「何で? 特殊係っていったら青年係よりも――一番難しいっていうところじゃん」
ナマメが言う通り、特殊係とは特異的な問題を持つケースばかりを扱う、自殺対策班の中でも最も仕事が難しいとされるチームだ。
「私が志願したんです。私は最初から、死神課自殺対策班が第一希望で来たので」
そういう者もいるのか。
絶句する私たちの前で、トミテはニッと魔性の笑みを浮かべた。
「だって一番面白い部署じゃないですか。人間の心も苦悩も、生きることも死ぬことも、私たち神には解り得ないものだから」
凍り付いた空気を破ったのは、酔いの回り始めたナマメの明るい声だった。
「そっかあ、皆それぞれの道を行くんだね! トミちゃんは栄転するし、イザヨイも難しいケースやっつけて新境地って感じだし。私は逆に、何だかどうでもよくなってきちゃった。初めの頃はケースに死なれるのが怖くて悲しくてクヨクヨばっかりしてたけど、今はもう、死んじゃったらそれはその人の寿命だったんだなって。思うことにしてる」
だけど二人は偉い。と手を叩いて、ナマメはおかわりの手をあげた。
「飲もう、今夜は。飲んでお祝いしよう、とりあえずは葡萄色の落着? それでさ、これからも時々はこうして三人で集まろうよ。特殊係の話も聴きたいし、私も話したいし!」
***
大夢の三度目の邪気祓いを行う日だった。
昨夜トミテが言ったことを考えながら、私は今回の分の浄化剤をもらいに、祟神課の廊下を歩いている。北第二庁舎は死神課の北第四庁舎とほとんど同じ構造の木造建築で、塗装がないためどこよりも質素に見える。
――人間の心も苦悩も解り得ない。生きることも、死ぬことも。
私たちはそれを忘れてはならない。トミテが言ったのは、本当の事だ。彼女こそは真っ当な神で、優秀である所以もその純粋な好奇心にあるのかもしれない。
私はどうやら、トミテのようには過ぎたことを過ぎたものとすることができないようだ。迷うたびに、私の目の前には淳也が立ち、沙智が現れ、茜の影がよぎる。それらの後悔を繰り返したくないと強く思う。その思いの先には、ウミヤメ様と於妙様の背中が見える。
優秀な死神にはならないかもしれないが、追い続けたいと思う背中だ。
複数の靴音が聞こえて目を上げると、向こうからラゴウが数名の部下を従えて歩いてくるところだった。太刀を帯び、弓矢を持つ者もいる。狩りに行くのだろうか。
私は脇に退いて頭を低くした。
ラゴウは私を見下ろすと、歩みを止めずにそのまま前を過ぎて行った。
靴音が遠くなってから頭を上げて、煙色の一団を見送る。次は衝突か協力か、いずれにせよいつかまた彼らの世話になる日も来るのだろう、と思いながら。
それから前を向いて、黒いブーツの足を踏み出した。
最後までお付き合いいただきありがとうございました――
※巻末として次のページに登場人物と組織構成を纏めました。
※その後に「外伝」があります。妙と冴のその後談のような短編です。