4 おむすびころりんの鼠浄土……昔話の謎解きと修験道の思想について
楽しく読めるものを書こうという信条であったはずなのに、だんだん内容が小難しくなってきてしまったので、ここらで、ポップなものを挟もうと思います。
歴史民俗に関する話で、もっともポップなものといえば昔話の「おむすびころりん」です。仏教民俗学の権威、五来重先生があれこれ書かれていたので、ちょっと考えたいのですが、おむすびころりんは、昔、お爺さんが持ってゆくのがおむすびではなく、団子であったバージョンがあって、これは死出の旅に出る死人に持たせる団子のことで、つまり物語は、昔の葬送儀礼のメタファーになっているのだとか。
おむすびが転がり込んだ穴の中の世界は、地底の他界で、つまり古来より伝わる黄泉の国というわけです。地獄なんかもこうした地底の他界なのですが、つまり、これは穴の中が、死後の世界(他界)であるということを意味するそうです。ここで鼠たちがたくさん出てくるのは一つのバージョンですが、さらに昔のバージョンだと、代わりに地蔵菩薩が出てくるので、やっぱりここは地獄のメタファーなのだとか。地獄といいながら、それは浄土(仏国土)のメタファーでもあって、これはつまり「鼠浄土」ということになるわけで……。
面白いのは、五来重先生の論理においては、昔話をとにかく、昔の葬送儀礼のメタファーと捉えるところですね。ファクター(要素)からメタファー(暗喩)を導き出す。そしてそれをかつての葬送儀礼と比較して、共通性を発見してゆくのでしょう。こうした手法を学ぶのは大変、有益な気がします。ただ、この昔話の研究方法については、そもそも昔の葬送儀礼を知らなければ推理できない、と批判されている方もいます。
まあ、それはまた、いずれ議論するとして、ここまでの話で、見えてくるのは「山の中のお爺さんは、死後の世界に入って出てきた」つまり「お爺さんは一度、死んでいる」ということです。これは「擬死再生」という修験道の思想に通じてくるのだろうと思います。
五来重先生によれば、なんでも修験道の修行で、やたらと苦行をするのは(滝行したり、唐辛子の煙に燻されたり、縄で縛って岸壁から谷底を覗き込んだりします)、死の世界の実在を体感するためで、いわば臨死体験を味わおうとしているのだそうです。
古来より、山中に死体を風葬する習慣から、日本人の霊魂は死後、山へとこもるものでした。そして荒御魂として、まだ鎮まらぬうちは大変恐れられていました。そうした存在は「鬼」や「天狗」となり、いわば魔性のものとして、恐ろしく捉えられていました。荒御魂といえば御霊、タタリ神もそうです。中間神霊ともいいます。これらは供養によって鎮魂され、その罪業が浄化されると、自我意識が無くなって、先祖神となります。先祖神は、サトにおいて信仰され、山の神にもなり、田の神ともなる重要な存在です。
こうした信仰を集める山は、遠く仰ぎ見るもので人が絶対に入ってはいけない神域でした。しかしある時代から、修験道の呪術者たちは、この畏れ多い山中の死後の世界に、自ら入っていって、こうした鬼や天狗や神といった存在と合一することによって、その霊験から、呪術力を得ようとしました。これが験力というものです。
こうした修験道の修行は、死後の世界に入ること、死を体感すること、臨死体験を味わうことが習俗の根底にあったわけですから、苦行というスタイルがもっとも適していたのだということがわかると思います。
してみると、この「おむすびころりん」の昔話も、やはり山中に住むお爺さんが、死後の世界を旅する話ですから、確かに修験道の思想や、葬送儀礼のメタファーだと推理することができるわけですね。仏教民俗学の権威、五来重先生の研究はさすがに面白い。
昔話というのも、実際、身近なものの癖に、謎めいたものが多くて、こうして一つ一つ謎解きをしてゆくとなかなかに面白いな、と思っています。明日、文学フリマ東京39に初参加という日に、こうして物思いに耽るのもいいですね。