1 はじめに……宗教の発生について
文学フリマ東京39まで、あと僅かでありますが、なかなか緊張感が抜けないので、気分を紛わせるために、歴史民俗エッセイでも書こうと思い立ちました。おそらくあまり読んで頂けることもないでしょうが、あれやこれや、仏教や神道、歴史民俗について思ったことを書いてゆきたいと思います。僕は、ミステリ小説を書く人間でありますから、歴史民俗に関する知識を披露したり、持論を展開する機会が無いわけではありません。また、忍者ものの時代ファンタジーでも、こうした知識は活用することができました。それでも、まあ、なんと言いますか、本当に面白いところまでは語れた感じがしないのです。
タイトルが思い浮かばなかったので、とりあえず「千手千眼観世音菩薩の正面の眼は」というタイトルにしました。
本日は、宗教の発生というところからお話ししていきたいと思います。宗教の発生というのは、つまり意識的と無意識的と、ふたつの意味で言えるそうですね。宗教には、意識的なものと、無意識的なもののふたつがございます。キリスト教やイスラム教のような宗教では、意識的に入信する、信仰を自覚することが大切だそうで、無意識な信仰なんて、そんなものは生温いと思われてしまうとかなんとか、本当かどうかわかりませんが……。仏教もそうした面はありますが、日本人が宗教という場合には、わりに無意識な話をするもので、サイコロ振って出た目で決断するというのがひとつの「宗教意識」だというわけで、これはつまり「無意識な信仰」のことを言っています。
日本人はこの考え方が好きらしく、意識的には信仰心なくとも、無意識的には信仰心が根付いている、という言い方をよくします。自己の無意識に、神や仏を信じたり、やたらパワースポットを好んだりします。そのせいか、死体を単なる物体として踏み越えることもしないし、稲荷神社で狐の悪口を言わない。たぶん。そういうのは民間信仰なわけですが、こういうのは、つまり無意識な信仰心であると言えるわけです。
この考え方でゆくと、なんでも、人類に宗教が発生したのは、人間が「死の観念を自覚した時」らしいですね。それはなんでも、原始人の時代だったらしいのですが、人間と違って、動物は死を畏れているわけではないのです。肉食動物を見ると、草食動物は逃げ出すわけですから、それは死への畏れだと人間はそう思ってしまうのですが、そんなこともないらしい、人間のような畏れ方ではないというのです。つまり人間が、原始時代において「死の観念」を自覚し、それを畏れたところから、宗教意識(無意識?)というのが発生したと言えるのでしょう。
「死の観念」が自覚された時、対立概念にして、相互依存的な概念でもある「生の観念」もいよいよ、その意味合いを深めてゆきます。ここで「人生観」という問題も出てくる。つまり「生」が自覚されたのは「死」が自覚されるよりも後だったが、ほぼ同時であったのだと思います。
輪廻転生説を生んだインドの土壌も、霊魂昇華説を生んだ日本の土壌も、生んだ信仰の内容こそ違え、まあ、根源的には原始時代の「死の観念の自覚」というところから起こったとみてまず間違いない。
もうひとつは、生産形態からくる、生活のルーティーン、つまり労働的生活みたいなものも重要になってくる。日本人にとってはとにかく農耕です。いや、島国日本では漁業もかなりの地域を占めます。それは置いておいて、たとえば、米や麦の農耕が信仰の基盤となっていることは、誰も否定することができないでしょう。
弥生時代、収穫米を貯蔵した高床式倉庫は、稲倉といって、のちに神明造の神社建築へと発展しました。稲の神は、宇賀之御魂という穀霊です。そしてこの宇賀神を祀るのが、稲荷神社です。
日本の年中行事をよく見てみると、わりに農耕のサイクルと密接に関連していることがわかります。
また古墳時代になると大王が巨大な古墳を作るようになり、この権力者が、後に天皇となるのはご存知でしょうが、これはなんでも「米の王」なのだとかなんだとか……。
こうしたことは日本だけでなく、中国やインドにも同じことが言えそうだけど、その点についてはまたいつか考察したいと思います。
そもそも宗教と一口にいっても、なんのことか、定義が難しいところであります。宗教と民間信仰を分ける考えもあります。その考えでは、宗教は教祖と教義があるものをさし、民間信仰はそれらがない信仰をさすのだといいます。
しかし、そもそもユダヤ教やキリスト教やイスラム教といった一神教の宗教と、民間信仰ごちゃ混ぜで、多神教や汎神論や民間信仰の複雑に入り混じったバラモン教、ヒンドゥー教、道教、仏教、神道とではだいぶタイプが違います。そして、孔子の儒教のようなものも宗教と一括りにするのですから「宗教」と一口で言う場合にはそれなりに注意が必要です。
このエッセイを読むことで、かなりハイレベルな宗教論が述べられるようになることをとりあえず保証します。こう言っておいて、ならなかったらすみません。また筆者が、江戸時代専攻だったため、時々、江戸文化の話に移ることもあります。最後になりますが、文学フリマ東京39に参加致しますのでよろしくお願いします!