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 大きく綺麗な陸上競技場で、観客席が人でいっぱいになっている。

「さあ、五レーンはジム・ワグナー。オリンピック後、絶好調。すごい声援です」

 その人々の声に応えるように、ワグナーは右手を上げた。

「そして六レーンのニック・ライアンは、ワグナーと反比例するようなかたちで負けが続き、声援ではなくブーイングが起きています」

 ライアンは批判的な状況下でも冷静な顔で、レースに集中している雰囲気だ。

 時間が来て、選手たちは位置に着いた。

「ワグナーとライアンはオリンピック以来の直接対決です」

 スタート音が鳴った。

「さあ、スタートしました。ジョンソンが体一つぶんリードか。ワグナーが前に出てきました、第五レーン。ちなみにライアンは六位辺りか。ワグナー、速い、速い! 他を置き去りだ! 今、ゴール!」

 歓声がわき起こった。

「おお! 九秒五八が出ました! 前回に続き、二レース連続の自己ベスト更新です! 手を振って声援に応えています。一方のライアンは……七着。もう、このまま終わってしまうのでしょうか」

 明と暗を象徴するような風景がそこに広がっていた。


 レースの数時間後、競技場内の通路を歩いてきたライアンの先にマイクが立っていて、声をかけた。

「よお」

 マイクはライアンの肩を軽く叩いてねぎらった。

「残念だったな。でも、お前の中にはイメージがあるんだろ? どれくらいかかるかわからないけどさ、頑張れよ」

 笑顔を見せたマイクは、負けた直後のライアンを気遣い、もう一言だけ口にして立ち去ろうとした。

「期待してるぜ、ワールドレコード」

 そして離れかけたが、背後から声がした。

「嘘だよ」

 マイクは立ち止まり、振り返った。

「え?」

「嘘だって言ってるんだ」

 後ろ姿のライアンが、そのままの状態で続けてしゃべった。

「あんな走り方でワールドレコードを出すなんて、できるわけねえだろ」

 マイクの表情は凍りついた。

「なに?」

 マイクはライアンに近づいて体を振り向かせ、壁に軽く押しつけた。

「どういうことだ、それ? おい」

「うるせえ! 俺が何をしようと俺の勝手だ!」

 ライアンはカッとなった感じで、マイクの手を強く払いのけた。

「本当か?」

 マイクは払いのけられたことよりも、ライアンの言葉がまだ信じられない様子で、見開いた瞳で尋ねた。

「本当に本当なのか?」

 ライアンの顔は若干こわばり、後ろめたさを感じているようにも見える。

「ああ」

 少し間はあったものの、はっきりそう答えた。

「ふざけやがって!」

 マイクはライアンを思いきり殴り、ライアンはその場に倒れた。

「お前がやってるのは、真面目に汗水垂らして頑張っている他の選手たち、そして陸上競技そのものに対する冒とくだ! キャサリンも傷つけやがって!」

 そう怒鳴ったマイクは、つぶやく感じで言った。

「終わりだ、お前とは」

 そして最後に、また強く言葉をぶつけた。

「二度と俺に顔を見せるなよ!」

 マイクは足早に通路を去っていった。

 一方のライアンは虚ろな表情になっていた。殴られた痛み以上の苦痛を感じているようである。

「くっ」

 顔をゆがめ、体を持ち上げるようにして立つと、ゆっくりその場を後にしていったのだった。


 とある放課後の高校。ほとんどの生徒はもう校舎を出ている。そこの廊下を、女性教師のムーアが歩いている。四十代で、かけているメガネをはじめ外見からはかなり真面目そうな印象ではあるが、それほどお堅い人ではない。

「先生」

 職員室に入ろうとした彼女に、別の方向からやってきた若い男性の職員が呼びかけた。

「お客さまです」

 男性職員の後方に、ライアンが立っていた。彼を見て、まだ残っていた数人の生徒がクスクスと笑っていた。


 校内にある、緑に囲まれた中庭のような場所に、ムーアとライアンは移動した。

 季節も時間帯も、散歩するにはもってこいといった感じの、快適な午後だった。

「どうしたの?」

 二人は一緒のベンチに並んで座っており、ムーアが話しかけた。

「何か用があって来たんでしょ? なんで何もしゃべらないの?」

 ライアンは職員室前で彼女に会った時点から硬い表情で、口を開いていない。

 ムーアは戸惑いの顔で軽く息を吐くと、仕方なく自分のほうから話を始めた。

「もう卒業して何年になる? あんまり経っている気がしないわ。あなたとの日々は昨日のことのように覚えているから。なにせ手のつけられない不良だったものね」

 現在のライアンしか知らない者なら、相当驚くであろう事実だ。それくらいライアンには紳士的な印象しかない。

「どうしたらいいか、夜も眠れないほど悩んだものよ」

 ムーアは当時を思いだし、苦笑いのような表情を浮かべた。

 続けて、彼女は左側に目をやり、少し先にある道のほうを指さした。

「そうそう。あの辺りを走っていく姿を見たのよ。私、すぐに『これだ』って思ったわ。私も学生時代に陸上をやっていたから。そして思った通り、あなたは持っていた素晴らしい才能を開花していった。嬉しかったわ」

 彼女ははちきれんばかりの笑顔になった。

「さらに、スーパースターと呼ばれるようにまでなっていって、あなたは私の悩みの種から自慢のネタになった。しょっちゅう教え子たちに自慢してきたのよ、私が陸上を勧めたんだって。よく、『先生、もう何回も聞いたよ』って言われて——」

 すると、突然ムーアの顔から笑みが消えた。

「でも、何なの? 近頃のあなたは」

 ライアンは最初から変わらぬ無表情だが、目だけは大きく見開かれた。

「また問題児に逆戻りしたみたい。それとも、最初から何も変わってなかったの?」

 ムーアは眉をひそめて、視線を落とした。

「残念だわ。あなたのことを自慢なんてするんじゃなかった」

 吐き捨てるようにそう口にすると、彼女は腰を上げた。

「用がないみたいから、そろそろ行くわね」

 そして歩き去っていった。

 ライアンはずっと同じ姿勢で座ったまま、ぴくりとも動かず、まるでそこに固まってしまったかのようだった。


 ライアンがゆっくりと、茫然とした感じの表情で街なかを歩いている。

 そのままの状態で、人の多い通りに差しかかった。

「あれ? なあ、あれ、ニック・ライアンじゃねーか?」

 どこからか、そういう声がした。

「本当だ。なんか雰囲気暗くねえ?」

「そりゃ、最近の調子じゃなー」

「でも、あれは自業自得だろ」

 ライアンに気づく人が増えていき、その誰もが近づかず、距離をとって彼を眺めた。それは遠くからだとパレードを見物するような光景だったが、実際は罪人が見せしめで人前を歩かされているのを皆が見ている感じに近かった。ライアンの様子に変化はないなか、その周りの人々は、怒って向かってこられることを恐れてか堂々とではなく、誰が発したのかわからない小さめの声で、ライアンに冷たい言葉を次々に浴びせだした。

「負け犬が」

「ダセー」

「消えろよ」

「バーカ」

「キャハハハハ」

 ライアンはそれでも変わらず、ただ黙って歩を進めていった。


 夜、ライアンは自宅で、リビングのソファーにうなだれるような格好で眠ってしまっていた。テーブルの上には大量のビールの空き缶が置かれている。

 真っ暗な室内で、砂嵐のテレビの画面だけが光を放っていた。


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