9.聖女エクレールの最期
本当のエクレールが消えてから数ヶ月経ったある日、それは唐突に起こった。
ふと、わたくしの中から聖なる力が喪失したのだ。突然の出来事に言葉を無くし、唐突に会話が途切れる。
それを不審に思った殿下が首を傾げた。
「エクレール。どうかしたのか?」
殿下はわたくしが女神であることを知らない。気が済んだら本物のエクレールとまた入れ替わって、あとは彼女に任せればいいと思っていたから、秘密にしていたの。そうすれば彼女は予定通り聖女になれるわ。名実共にね。完璧な計画でしょう?
でも今はそれよりも、力を感じなくなった事の方が重大。わたくしは適当にその場を切り上げると、急いで部屋へ戻った。
そうして天界への道を開こうと念じる。……どういうこと!? 何も起きないだなんて!
「どうして!? なぜ道が開かないの?」
いえ、それどころか天界の気配すら感じられない。おかしいわ。女神として創られてから、こんな風に天界の気配も聖なる力も感じられなくなった事なんてなかったのよ。
一体何が起きているというの? 何度試しても天界への道は開かない。
完全に混乱したわたくしは、手当たり次第に物を投げ飛ばした。殿下から貰った宝石や、臣下から受け取った高価な壺やらが音を立てて割れていく。いつもなら些細な音で侍女が駆けつけるのに、この日はそれが無かった。それがおかしいということに、この時のわたくしは気付いていなかったのだ。
『それは、あなたがもう女神ではなくなったからよ』
「……誰!?」
突然、声がしてわたくしは振り向く。けど、誰もいるはずが無い。わたくしの部屋には誰も入らないよう、きつく言いつけているのだ。
きょろきょろ見回すわたくしを嘲笑うかのように、くすくすと女の笑い声が響く。
『やだ、もう忘れちゃったの?』
「その声……まさかエクレール!?」
『そ。当たりよ』
消えたはずのエクレール。なのにその声は明るくわたくしの中に響いた。
その段になって、彼女の声はわたくしの心の中で起きているのだと気付く。
「どういう事なの。どうしてあなたが念話など」
『念話っていうのねこれ。そちらじゃ神託とか言ったと思うけど』
「わたくしの質問に答えなさい!!」
わたくしが強く言うと、ふっと笑う気配があった。
『力を失った聖女が、女神に対してその口の聞き方はないでしょう?』
「聖女? 力を失った……? いえ、ちょっと待って。女神ってなんの事よ。女神はこのわたくしよ。何を言っているの」
『察しの悪いこと。あなたはもう女神ではないって言ったでしょう』
「え……?」
瞬きするのも忘れて、わたくしはその言葉を反芻する。
女神ではない? 女神として主神に創られたわたくしが?
そんなはずないでしょう。でも、だけど。わたくしに宿っているはずの聖なる力が何も感じられないのはなぜ?
感じた事のない鼓動に震えていると、エクレールの声がわたくしの心に響いた。
『女神の職務を放棄して下界へ渡り、人間の心を弄んで世を乱す。そんなものに女神の座は任せられないそうよ』
「それは……誰の……」
『聞かなくても、元女神のあなたなら分かるでしょう。主神からのお言葉よ』
「う、うそよ、そんなの」
『残念だけど本当なの。現にあなたの力は失われている』
「嘘よ!!」
『本当だってば。天界どころか、自分の力も感じられないでしょう?』
「…………!!」
わたくしは大きく息を呑んだ。……エクレールの言葉は事実だったから。
いいえ、けれど、主神がそのような判断を下すなんて、何かの間違いよ。だってわたくしは、ちょっとだけ逆ハーというのを味わいたかっただけだもの。エクレールを天界へ送ったのも、少しの間役割を代わって貰うつもりだっただけ。
「あ、え、エクレール。ごめんなさい、すぐに戻るわ。だ、だから、わたくしに女神の力を返してちょうだい」
『エクレールとはあなたの事よ。聖女の力を失った哀れな娘』
「は?」
返ってきたエクレールの声は冷え切っている。必死に祈っていた声と同じとは思えないほどに。
その声のまま、エクレールは続けた。
『此度あなたは女神を裏切った。聖なる力の存在を振り翳し奢侈に耽け、女神への祈り、主神への感謝を怠った。その事に主神は嘆かれました。結果、あなたの内なる聖なる力を取り上げる決定を下された』
「嘘」
『主神の決定は覆りません。それはあなたも知っているでしょう』
むしろあなたの方が詳しいのでは? エクレールはそう続けた。
もちろん知っているわ。主神たるパノラセウス様の判断は、この世の理となる事くらい。……つまり、この娘の言った通り、それは変えられない命運……。
「このまま下界で暮らせと言うの……?」
『そうなるわね』
「嫌よ、そんなの!」
『そこもそんなに悪いところじゃないと思うけれど? みんな良くしてくれているんでしょう』
「ふざけないで。下界は時が過ぎるのよ。わたくしの美しさが損なわれてしまうじゃない!」
『真っ先に気にするのがそれなのね……人の世を見てきたあなたなら、自業自得、という言葉を知っているはずよ』
「……! 生意気な口を……い、いえ」
わたくしは思い留まった。聖なる力を失ったのなら、この娘に頼る他ない。
すう、と息を吸い込んで気持ちを落ち着ける。……女神たるわたくしが、という思いはぐっと抑えたわ。ここは堪えねばならない。
「エクレール、あなたからパノラセウス様に弁明を。もう天界へ戻って務めを果たすわ。そ、それにね、元々ほんの少しだけのつもりだったのよ? もう戻るつもりでいたの。だから」
『聖女エクレール。あなたの加護は失われたわ。そしてもう二度とその国に聖女は生まれない』
「えっ?」
『それがあなたの罪だそうよ。まあ、聖女の加護なんてなくても今までやってこれたんだし、無くてもなんとかなるでしょう』
「何を言っているの!? あなた、それでも聖女なの!?」
『そう呼ばれていたけれど、わたし、聖女らしい事なんてしていないから』
「そんな事ないでしょう? だってあんなに」
わたくしは必死にエクレールを説得した。けれど、彼女が態度を変える事はなかった。
『それもこれも全部、女神様がわたしの力を発現させてくれなかったからだけどね』
「ッ!!」
エクレールはあっさりと言ったけれど、きっとそれだけではないのでしょうね。だって彼女がどれだけ必死に祈っていたかは、わたくしがよく知っているもの。
『それをあなたはずっと見ていたんでしょう? わたしも見ていたから知っているわ』
女神は水鏡で下界を監視し管理する。何らかの災いや間違いがあれば、それを正す。その為に聖女を通じて言葉を伝えたり、奇跡を起こさせたりする。だからエクレールがわたくしを見ていた理由は分かるわ。
『わたしの祈りはあなたに届かなかったのかしら』
けれど、それがどういう事なのか、その時のわたくしは理解していなかった。
その言葉を最後に、エクレールの念話は途絶えた。その声はあまりに冷え切っていて、わたくしの臓腑を凍りつかせたのだった。
その後、〝エクレール〟は予定通り、王家に迎え入れられた。国民は聖女と王子の婚姻に大いに喜んだが、間もなくして大量の魔獣がキステナス王国を襲い、王国は滅んだ。
エクレールは聖女として奇跡を祈り続けていたが、ついに女神がそれに応える事はなかった。
一説にはそれは、エクレールが女神の怒りを買ったからだと言われた。しかしエクレールは聖女として力を奮った時期があった。それなのになぜ女神はエクレールを見限ったのか?
女神の声を聞ける者が居なくなった今では、真意を問うこともできない。