山中2
棚へ案内する蘭子の足取りは、湯上がりの猫が床をそっと確かめるときのように静かで柔らかい。前髪に残ったわずかな滴が白いブラウスの襟を濡らし、背中のリボンをほんのり色濃くしている。彼女が立ち止まると、色彩豊かなワックスの瓶がずらりと並ぶ棚が宝石箱のようにきらめいた。
「では、山中さん。まずお車の保管状況からお聞かせ願えますか?」
声はベルベットを指で撫でるように優しいが、質問の角度は鋭い。
「マンションの一階屋根下だ。雨は避けられるがホコリは入る」
山中は蘭子を見下ろしながら間髪入れずに答えた。白シャツの第一ボタンを外していても隙のない折り目が肩から袖口まで伸びる。誰かに見られることを常に意識している人間の所作だ。
「汚れたら洗う。これまではガソリンスタンド任せだったが、自宅の近くに小さな工場を所有しているのでね。そこで自分の理想まで仕上げるつもりだ」
言葉に熱はない。だが言外に“完璧であること”への執着が滲む。
「コーティング歴は?」
質問する蘭子の数メートル横で沙絵がタブレットを構え、淡々とメモを取る。ピンでまとめた黒髪が首筋に沿って流れ、瞳は測量士のそれのように冷静だった。
「GT‑R専門店で買った。何をされたかはわからないな」
「なるほど」
蘭子は短くつぶやき、次いで尋ねた。
「たとえば、どんな光沢にしたいかご希望はありますか? キラキラさせたいとか金属感を強調したいとか。ふわっとした感じでも大丈夫です」
山中は間髪入れずに応じる。
「そうだな。購入したのがシルバーの車なので、清潔感があれば良いと思う。金属感を強調したいというのはいい表現だ」
蘭子はニコリと笑い、三本の瓶を棚から取り出してアンティークのテーブルに並べた。ガラスジャーに黒いラベル、金色の蓋が否応なく高級感を放つ。
「これはイギリスのワックスで、アブソルート社の『ブースト』。こちらが『スティグラッシー』」
細く透明感のある指がくるくると蓋を回し、中身をのぞかせる。甘い香りがガレージ内に広がる
「そして、まだ発売前なのですが……」
遠慮がちに白紙ラベルのワックスを手のひらに乗せ、山中の胸元へ差し出す。
「名前は決まっていませんが、試作五号です」
蓋を開けると、他の二つとは異なる明るい朱色が現れた。
覗き込む山中。その傍らで大輔はモップを動かしながら横目で蘭子を見た。瓶を抱えるその仕草は、夏の庭で朝顔を摘む少女のようで、胸がなぜかそわそわする。
「お前、チラチラ見るな。覗き魔の本性が出てんのか?」
玲奈が呆れたように一喝し、大輔の脛を蹴る。
「す、すみません……」と、大輔は情けない声で苦笑した。
蘭子は提案をまとめる。
「この三つを順に試してみてはいかがでしょう?」
「全部いただこう」
山中の決断は一太刀、切っ先が揺れない。
「……ひとつに絞られては?」
沙絵が眉根を寄せる。
「全部使って最良を選ぶ。不満なら他の物と交換してくれ」
蘭子は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに苦笑いを浮かべた。
「え、ええと、申し訳ございません。使用済みのワックスは返品不可なんです」
それでも腰は引かない。焦げつきそうな空気を甘い笑みで包んだ。
山中の眼鏡が光をはね返す。
「それなりの値段だ。期待どおりでない場合の保証がないとは、誠意に欠けるな」
山中はあからさまに不満を口にした。
「原価がいくらかなど知らないが、利益は十分出ているだろう?一見客だからといってサービスは適当でいいのか?」
そう言いながら蘭子を真上から見下ろす。
「あいつ、ずいぶん高飛車なやつだな」
壁の花になっていた玲奈が、大輔の脇腹を肘でつつきボソッと呟いた。
やりとりを見ていた清掃員――大輔は、言葉を磨き終えた刃のように山中へ声を掛けた。
「アンタ、一度使ったワックスを返品できないことくらい常識で分かるだろ」
山中の視線が真冬の湖面のように凍り、大輔を睨む。
「……なんだと?」
「どう仕上がるか試行錯誤するのが洗車の醍醐味だ。完成品だけ欲しいなら専門店に出せばいい」
大輔の声は濁りを洗い落とす水流のように透明だった。
「ちょ、ちょっと大輔君!」
蘭子が焦げたトーストを隠すように手を振る。
「お客様に失礼でしょ!」
山中は闘牛士が赤布を翻す前のようにジャケットの裾を払う。
「誰だ君は? ずいぶん言いたいことを言ってくれるじゃないか。僕が誰か分かって言っているのか?」
「知ってるよ、山中貴之さん」
大輔は麻縄で縛り上げられて真っ赤な手首をぶら下げたまま指で空を切る。
山中の眉が一瞬ピクリと動く。
「ゲーム会社〈グリフォン〉を二十代で立ち上げ、上場させた天才CEO。でも最近はワンマン経営で社内孤立が噂されてる。もっとも──今日見た感じじゃ噂よりひどいくらいだ。合ってる?」
片方の口角をあげて笑う大輔は山中の顔から視線を外そうとしない。
「ちょっと覗き魔君は静かにしてて!」と蘭子が言い、
「覗き魔! また縛られたいの?」と沙絵が睨み、
「お前、トラブルばっか持ち込むバグみたいなやつだな」と玲奈が呆れ、
「覗き魔? そうなのか? 覗き魔?」と山中がゴミを見る目で見下ろす――四方向からの合唱。
それを聞いた大輔は眉根を上げ、ぐぬぬ、と顔を歪めると「シャラーップ!」と全員の言葉を遮った。
玲奈がそれを見てくつくつ笑うと、山中にタメ口で迫る。
「へぇ、だけどお前が山中か。僕もグリフォンのゲームには世話になってるよ。ヒット連発だけど、社長は傲慢って噂どおりじゃん?」
山中の眼鏡に二度目の閃光。
「会社でも孤立、プライベートでもそれじゃ、人が離れて当然さ。裸の王様だよ、山中社長さん」
大輔はさらりと言い切る。薬局でモンスタークレーマーをあしらうときの冷静さが滲んでいた。
蘭子と沙絵は深々と頭を下げる。
「申し訳ありません! この二人は完全に部外者で――」
「謝るのはそっちの都合だよ〜」
玲奈は手を頭の後ろで組み、鼻歌交じりに応じる。
大輔も肩をすくめ、「本当のことを言っただけ」とつぶやく。無駄に息の合う二人。
山中の拳が瓶よりも硬く握られる――しかし次の瞬間、火口に蓋をするように急激に沈静化する。
「……分かった。三種類購入する。返品はしない。私の態度が悪かった」
言葉は湖底の石のように穏やかに沈む。
山中の急変に玲奈は一瞬「おろ?」と目を丸くしたが、すぐニヤニヤ顔に戻る。
「そうそう、人間、素直がいちばん!」
しかし、大輔は山中の瞳の奥に宿った静かな光を見逃さなかった。
(怒りを飲み込み、自分を俯瞰するときの目だ。なんで急に。一体どういう人間なんだ、山中貴之……)
「いや、すみません。俺のほうこそ目上の人に偉そうな口をきいちゃって」
大輔は右手で後頭部を掻いた。
決済を終えた山中は「とりあえず使ってみるよ」とだけ言い、袋を手に静かに踵を返す。濃紺の背中が午後の光を吸い込み、GT‑Rのドアが静かに閉じると、低く乾いた咆哮を残して去っていった。
「もうっ、二人とも! どうしてあんなこと言うのよ!」
蘭子が頬を膨らませる。
「だって僕、部外者だし~」
玲奈は口笛を吹きながらモップをくるりとスピンさせた。
一方、大輔は見えなくなったテールランプを見送りながら、週刊誌で読んだ山中の記事を思い出す。
(確か“車は持たない主義”って書いてなかったか? それがGT‑R? 小さな工場って……噂と違うな)
考え込む大輔の頭頂に、蘭子のチョップが落ちる。
「聞いてんの!?」
「痛!」
乾いた音が庭に響き、こぼれた笑い声が、未だ漂うワックス匂いにほんのり甘さを混ぜた。