山中
錆すら愛おしいブリキの看板を壁に飾ったガレージは、夜目にもほの白い蛍光灯の光で満たされていた。ワックスのフルーティーな甘い匂い――そこに、場違いな一本の汗の匂いが紛れている。
グレーの作業椅子。その座面に座らされた大輔は、麻縄でぐるぐる巻きにされ、まるで博物館の“動く展示品”のようにぽつねんと鎮座していた。
「どうせ後で解くんだから、もう少しゆるく縛ってくれても……」
弱々しい抗議は、沙絵のパチンという指鳴らしにかき消える。
「油断は禁物。あなたが再犯率0%の聖人かどうか、まだこちらは判断しかねるの」
玲奈はその横でカメラとスマホをもてあそび、レンズを天井に向けてシャッターを切ってみせた。カシャリ。静かなガレージに乾いた音が跳ねる。
「ほんとに風景しかないな。海、空、崖、潮騒。エロの“エ”の字もないじゃん」
「そ……それは誤解だったと証明されたわけで……」
大輔は胸をなでおろそう――として、縄の摩擦で両腕を動かせない事実に気づき、気まずく咳払いした。
そこへ、扉の向こうから軽い足取りが近づく。
「お待たせー」
白いブラウスに淡いエンジ色のフレアスカート、金色の髪飾りが湯上がりの雫を受け止める。蘭子が着替えを終え、ふわりと甘い石鹸の香りを連れて現れた。
「大輔さん、でしたよね?」
カメラバッグの中を点検していた玲奈が顔を上げる。
「まだ“変態さん”で十分だろ」
「いえ、正式にご挨拶をしなきゃ。身分証も確認したし」
そう言うと蘭子は続けて「誤解だったのに……痛かったでしょ?」と眉根を下げ、大輔の前髪をそっとかき上げて額をのぞく。
まだ温もりを帯びた石鹸の香り。それを発する蘭子との距離に、大輔は思わず静かに唾を飲み込んだ。
玲奈がガレージの奥にあるアンティークのデスクに並べたのは、名刺、健康保険証、運転免許証。それぞれに『中嶋大輔』の活字が整然と並び、顔写真は少し引きつった笑顔だった。
「中嶋大輔、二十六歳。職業は東京都板橋区の薬局勤務の薬剤師。趣味は風景写真の撮影──ですって」
沙絵が尋問した内容を淡々と蘭子に伝える。
「け、経歴詐称は一切ありません。本当に今日は休みで風景の写真を――」
「発言権は認めてないわ」
沙絵の視線が鋭い。だがその目尻には、尋問の熱がすでに薄らぎつつある影があった。
カメラの液晶をめくり、沙絵がスライドショーを再生する。どこまでも続く水平線、逆光の崖道、苔むした灯台。そして砂浜に置かれたクーペスタイルのBMW。
「……ねえ、本当に芸術的じゃん」玲奈が肩をすくめる。「裸なんて一枚もないよ」
「でしょ?」大輔は愛想笑いとともに安堵の息を漏らし、椅子ごと前のめりになりかける。縄が軋み、首筋に汗が滲んだ。
「疑いは晴れたわ」
沙絵は指を顎に当て、少し考えてからそう結論づけた。
蘭子はほっとしたように目を細め、しかしすぐ真顔に戻る。
「ですが――紛らわしい行動は今後控えてくださいね」
眉根を上げ、いたずらをした子どもを優しく諭す教師のように大輔へ注意を促す。
「う……」
大輔は「申し訳ない」と苦笑し、後頭部を掻こうとしたが、拘束された腕が軋みを上げた。
「勝手に私有地に入った罰としては、反省文と、このガレージの床掃除が妥当だろ」
玲奈がモンキーレンチをくるりと回し、金属の響きを鳴らす。
「よ、喜んで……!」
沙絵はふっと笑い、縄を解きかけたところで――
ピンポーン。
乾いた電子音が屋敷に反響した。時計を見ると十時五十七分。
「やだ、十一時のお客様!」
蘭子と沙絵が同時に声を上げる。
「予約の方がもう来ちゃった……どうしよう、まだガレージは散らかってるし」
「全部こいつのせいだよな?」玲奈が親指で大輔を示す。
「ま、まあまあ!」大輔は縛られたまま恐縮する。「僕が門の外で待機しましょうか?」
「余計あやしいからいい!」 三人の声がそろった。
沙絵がインターホンの子機を取る。
「山中様ですね。はい、今すぐ門をお開けしますので、エントランス右手のガレージへお回りください」
通話を終えると、彼女はリモコンで門扉を解錠しながら、大輔へ冷たい視線を投げる。
「動かないでよね。まだ“仮免”状態なんだから」
「は、はい……」
***
まもなく、シルバーの R35 GT‑R が開かれた門から滑り込み、敷地内の白砂利を静かに踏んだ。定規で引いたようなプレスラインを、昼前の光が鈍色に撫でた。
運転席から姿を現したのは、濃紺のアンコンジャケットにライトグレイのスラックス、明るいタン色の革靴を合わせた細身の紳士だった。縁の細いメタルフレームの眼鏡。その奥の瞳は淡墨色に冷たく、けれど表情は穏やかに整えられている。
「約束していた山中だが」
低い声がガレージに響くと、蘭子が小さく礼を返す。
「わざわざ遠方からありがとうございます。こちらでお待ちいただけますか」
山中は一歩踏み込んだ瞬間、視線を横へ滑らせ――椅子に縛られたままの大輔と目が合った。
「…………」
一秒ほど固まり、眼鏡の奥で瞬きをひとつ。
「――この方は?」
「ただの、ええと……置物かな!」玲奈が即答した。
「動かないでいただけると助かります」沙絵が涼しい顔で付け加える。
「人間ではなく、最新式のマネキンでして」蘭子はにこり。
口々に“ないもの”のように扱われ、大輔は薄く笑みを浮かべた。悲しみで頬がひくつく。
「……はじめまして、マネキンの中嶋です……」
山中はかすかに眉尻を上げただけで、「ユニークな演出だな……」と冷静にうなずいた。その言い方は、心底どうでもよさそうで、陳列された工具と同程度の関心しか示していない。
「事前に連絡していたと思うが、新しい車を購入した。あれに合いそうなワックスをいくつか見繕ってほしい」
手袋を外し、ワックス陳列棚へ向き直る山中の背筋は、都会の摩天楼のように真っすぐだった。視線は一切ぶれず、余計な感情を零さない。
――この人、どこかで見たことあるような? 芸能人? それとも……。
大輔は縄の隙間から手首をよじりながら、山中という人物が誰なのか必死に思い出そうとした。
次の瞬間、玲奈がウインクしながらモップを手渡してくる。
「なに、さっきからモジモジしてんだよ。そんなに動きたきゃ、はいこれ。じゃ、マネキン君。床掃除、タイムアタックで頼むね」
「……了解です」
にかっと笑い、誰の耳にも届かないほど小さな返事をしながら、大輔は山中から視線を外そうとはしなかった。