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不審者

 白い湯気が空気に溶けるなか、視線だけがくっきりと絡まり合った。


 静まり返った露天風呂の片隅で、カメラを構えたまま動けなくなっている「変態のレッテル貼り待ったなし」の青年と、湯船から立ち上がった今まさに覗き魔に出会した(であろう)あらわな肢体の若き彼女。その構図が何を意味するか、余白のない状況は語らずとも明白だった。


 蘭子は、胸元から太腿にかけて一枚のタオルを丁寧に押さえながら、動じることなく覗き魔(仮)――大輔を見つめていた。冷たくもなく、怒りも怯えもない。どちらかと言えば「きょとん」ととぼけた少女のように。


 一方の大輔はというと、状況が完全に脳の理解を上回っており、思考回路は混線状態だった。


 (やばい、これは……いや、まじでこれは、完全にアウトだ……)


 滝のように滴り落ちる大粒の汗が地面を濡らす。


 “通報”、“逮捕”、“職場バレ”。それに混ざって、“こんな彫刻のような裸体、もう二度と拝めない”という悲しき男の本能が、無惨なコラージュのように脳内を埋め尽くす。


 「あなた、ここで何してるの?」


 蘭子の声は静かだった。けれど不思議と、責める響きはなかった。落ち着いていて、答えを急かす様子もない。むしろ、大輔が言葉を紡ぐ余白をちゃんと残していた。それが逆に大輔を慌てさせる。


 「いや、その……違うんだって! あの、上の丘から海を撮ろうと思って……そしたら……」


 必死に言葉を探すが、出てくるのは言い訳にすらならない破片ばかり。カメラを持ったまま立ち尽くす姿は、どう見ても反論の余地がない。


 そのときだった。


 ――ばたばたと、足音。


 「蘭子ちゃん! 不審者が屋敷にいる!お風呂からあがって!」


 屋敷の奥から姿を現した沙絵がそう叫びながら入り口のドアを開ける。その目が露天風呂の光景を捉えた瞬間、全身が一瞬でこわばった。裸の蘭子、そしてその正面に立ち尽くす見知らぬ男、というより覗き魔(仮)。


 「えっ、なに、えっ!? 襲われてたの!?」


 叫ぶ沙絵の背後から、続いて玲奈も駆け込んでくる。


 「ちょいちょいちょい! おい! 変態ヤロー! おまえ蘭子に何してんだよ!?」


 玲奈は即座に風呂桶を手に取り、ほとんど反射で振りかぶった。


 「ち、違う! 話を聞いて――」


 しかしその言葉は、風を切る音と木の響きにかき消された。


 ――ガゴン。


 大輔の額に風呂桶が見事な音を立てて命中する。あまりに漫画のような音に、場に一瞬だけ妙な静寂が流れた。のけぞった大輔は、そのままふらついて庭に倒れ込む。


 「まだ終わりじゃないわよっ!」


 沙絵も続けざまに桶を手にし、今度は大輔の脇腹を狙って無慈悲に投擲した。うめき声がもれる。全身から力が抜け、地面の温度だけがやけにリアルに伝わる。


 「――ちょっ、ちょっとやめて、ふたりとも!」


 蘭子は2人の攻撃に慌てて「撃ち方やめ」の号令をかける。タオルを押さえ直しながら、ふたりの間に入るように歩み出る。


 「何言ってんだよ蘭子、こんな状況、どう見てもおかしいだろ?」


 玲奈が情けなく呻き声をあげながらうずくまる男に睨みを効かせながら蘭子に言う。


 「本人も誤解だって言ってるし。まずは、ちゃんと話を聞こうよ、ね?」


 「お願い」とでも言いたげな困ったような苦笑いを浮かべながら玲奈を落ち着かせる蘭子を見て沙絵はやや呆れたようにため息をつき、


 「とりあえず裸のあんたがここにいたんじゃこの彼に尋問もできないから中に入って着替えてきてくれる?」と、早口で蘭子に服を着るよう促す。


 やだ、私ったら。と、おっちょこちょいのお嬢様しか言わないようなセリフとともに、裸である事を忘れていた蘭子は慌てて家の中に消えていく。


 蘭子が屋敷の中へ入るのを見送ると、隣にいた玲奈はゆっくりと大輔の方を振り向き、「さて」と、まるで、捕まえたネズミがまだ希望を捨てずにジタバタしているのを楽しむ猫のような悪魔の微笑みを浮かべ、尋ねる。


 「おい、お前、どうせ蘭子を駅かどこかで見かけて家まで尾けてきたストーカーだろ?確かに蘭子のファンはたくさんいるけどさ、だーめだよー?家にまで押しかけて来ちゃあ」


 玲奈はニヤニヤと不敵な笑みを浮かべると転がっていた風呂桶を拾い、持ち手でつんつんと大輔の腹をつつく。地面に倒れたままの大輔が、かろうじて体を起こし、額を押さえながら、しぼり出すように言葉を吐く。


 「ほんとに……違うんだ……看板があって、てっきり喫茶店かと……その、庭が綺麗だったから……」


 「喫茶店?」玲奈が眉間に皺を寄せる。


 「このお屋敷が?」


 でまかせ言ってんじゃないぞ、と言わんばかりのへの字口で大輔に聞き返し、今度は風呂桶を大輔の頬にあて、ぐりぐりする。


 「いや、違う、あの、ちょっと高級なカフェ的な……ほら、最近あるじゃないですか、レトロ建築でやってる系の……」


 中・高校生くらいの女の子に対して必死すぎる敬語の言い訳が、逆に涙を誘う。


 そんな大輔をまるでゴミを見るかのようにジト目で見下していた沙絵は、


 「まあ、とりあえずそのカメラの中身は確認させてもらうわね。あとスマホも。持ち物全部ここに出して」


 と言い放つと、そばに置かれていたプラスチック製の脱衣かごを大輔の前に差し出す。


 大輔は、


 「も、もちろん! 誤解ですから、本当にどうぞ全部チェックしてください!」


 大輔は言われるままに、ポケットの中身やカメラ、スマートフォンなどの手荷物を全てかごに入れる。


 以前テレビの法律番組で「痴漢冤罪に巻き込まれたら、その場から全力で逃げろ」と解説されているのを見たことがある。普通なら、その教えに従って全速力で逃げ出すべき場面だ。しかし、なぜだか今は違った。

 この娘たちに逆らわず、おとなしく言うことを聞いていたほうが、むしろ自分の未来が明るくなる気がした。理由はわからない。だが、宝の地図を見つけた少年が胸に抱くあのワクワク感――なぜか、その直感が彼の足をその場に縫い止めていた。


 「警察に通報するかどうかはそのあと決めるわ。でも、1枚でも変な写真が出てこようものならすぐ警察呼ぶから」


 そう沙絵が大輔に言うと、隣にいた玲奈は立て続けに


 「おまえ、蘭子のパンツとか盗んでないだろうな?白状するなら今のうちだぞ〜。ま、情状酌量なんてあるわけないけど」


 そう言って、しゃがみこんでいる大輔の目線まで腰を落とし、ヒヒヒと悪魔のような笑みを浮かべた。


 大輔は、頭を押さえたまま「はは、お手柔らかに……」と苦笑いを浮かべ、小さくうなずいた。


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