中嶋大輔
11月の初冬の朝、フロントウィンドウに描かれる景色は秋のそれに比べ、より鮮明に見える。
澄み切った空気の中を走る車内に僅かに聞こえてくるエンジン音が心地よく響く。その日、中島大輔は、愛車のBMW6シリーズ グラン・クーペを運転しながら、ゆるやかで小気味良いワインディングを楽しんでいた。
穏やかな太陽の光は深い青色のボディに反射し、上品なホワイトレザーのシートはより車内を明るくする。
彼のストレスは神奈川県に入る頃にはほとんど解きほぐれていた。
大輔は東京都板橋区ときわ台にある薬局で薬剤師として働いている。25歳にして、店舗の運営を任されるほどの責任ある立場にいる。
日々の仕事は忙しく、患者や製薬会社、そして医師との調整に追われる日々。頭の回転が早いことと天性の明るさで何とかこなしてはいるが、知らず知らずのうちに心身の疲労が蓄積していくのは何よりも自分が一番よくわかっていた。
そんな彼のストレス解消法は二つ――愛車でのドライブと、風景写真を撮ることだ。
愛車のBMWは半年前に購入した。
たまたま薬局に車で来ていた患者の車に一目惚れして外観や内装を見せてもらいすぐに購入を決めるほど気に入った。
一目でそれとわかる独特な形状のグリルにエッジの効いたプレスライン。獲物を狩る瞬間の猛獣のような攻撃的フロントマスクはいつだって男子の憧れだ。
「葉山、久しぶりだから楽しみだよ」
静かな独り言が車内に響く。休日を利用して、自然豊かな葉山で海の写真を撮ろうと決めたのだ。カメラバッグは助手席に、温かいコーヒーがホルダーに収まっている。
「もうすぐ着くかな?」
とカーナビに目をやった大輔は神奈川県鎌倉市に入った事を確認すると、空いている金沢街道をひらり、ひらりと駆け抜けながら久しぶりの日帰り旅行に胸が高鳴っていたのだった。
目的地に設定していたJR逗子駅に到着したのは午前10時少し前だった。
歩いて散策する為、車はどこかに駐車しなければならない。コインパーキングが見つかるか不安だったが、杞憂だった。逗子駅周辺には割と多くの駐車場があり、あっさりと車を停めることができた。
ひとまず海岸に向かってみようと考えていた大輔だが、朝食をとっていなかった事を思い出し、軽く食事を取ろうとコンビニを探して付近をうろうろしていると、何やら食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきた。
匂いのする方向を見てみると歩道の横に「とんかつ なか村」と書かれた古びた看板があり、開け放された扉へ導かれ、店に足を踏み入れてみた。
「いらっしゃい、こんにちは。」
店主と思われる小柄なおばあちゃんが笑顔で迎えてくれる。
店はこぢんまりとしているが、4人がけテーブルが3つにカウンターが5席とそれなりに客は入りそうだ。
「お食事ですか?」と聞かれた大輔だが、流石に朝10時からトンカツ定食を食べるのは重すぎるだろと思い、「おばあちゃん、テイクアウトとかってできるかな?」と尋ねてみた。すると、
「できるけど、それならカツサンドなんかいかがかね?朝ごはんにもなるよ」とニコニコしながら提案してくれた。
大輔は「いいねー。じゃ、それを1つください」とカツサンドをオーダーして出来上がるのをカウンターで待つことにした。
調理する姿を頬杖をついて見ていた大輔は「それとさ、おばあちゃん、俺この辺の風景写真を取りに東京から来たんだけど、どこか景色が良い場所とか穴場スポットって知ってる?」
そう尋ねられたおばあちゃんは、「いい景色かい?そうだねぇ、夕暮れ時なら夕日が沈んでいくのが綺麗だから港がおすすめだけど……」と菜箸でトンカツをツンツンとつつきながら「駅より北の住宅街を山に向かって登ると開けた丘があるさね。今日は空気が澄んでて天気もいいし、そこから海が一望できるからいい写真が撮れるんじゃないかい?」
そう答えながらおばあちゃんは軽く焼いたパンにカツを挟むとザクザクと包丁で切りわける。
「地元の人しか行かないし、ちょっと登り道だけど、いい写真が撮れると思うよ」と微笑むと、出来上がったカツサンドを紙に巻いて渡してくれた。
「地元民しかいかない絶景スポットかぁ、オーケー行ってみるよ、ありがとうおばあちゃん」そう言って大輔は感謝を述べ店を後にした。
歩きながらカツサンドを頬張り、大輔はおばあちゃんの言葉を頼りにその場所へ向かった。
駅前の道を通り抜けて椰子の木がある家の脇道を曲がる、おばあちゃんにそう教えられた通り、道順を進んでいく。
体力的には問題ないが、割と道が入り組んでいて迷いそうになる。
しばらく登ったところで道が二手に分かれていた。
生い茂った樹木のトンネルを抜けるようにさらに上に向かう道と、西に向かってまっすぐと伸びる平らな道。
「どっちだ?」
持っていたスマートフォンで位置を確かめようとした時、ふと見ると大きな塀が西に続いているのに気がついた。
(大きなお屋敷の前を通るからわかると思うよ)
おばあちゃんがそう言っていた事を思い出し、(ああ、これの事だな)と呟いた大輔は、塀沿いを進もうとしたところで道端の電柱に立てかけてある木製看板が目に留まった。
「葉山可憐車堂コチラ」
白いペンキで書かれた文字は、どこか懐かしい雰囲気を漂わせている。
「和風のカフェか何かかな?」
軽い興味を持ちながら、大輔は看板の矢印に従って進む。正確には塀沿いを進んでいるからなのだが……。
しかし、その先に現れたのは、彼の想像をはるかに超えた光景だった。
長い塀が途切れ、巨大な門扉が姿を現すとそこから敷地の奥に見えるのは、和風建築と石造りを融合させたような独特の屋敷。瓦屋根が重厚感を与え、石が貼られた壁がどこか異国情緒を感じさせる。
「ここがカフェ……なのか?」
入り口を覗き込み、キョロキョロと辺りを見渡してみても人の気配はない。巨大で頑丈な鉄の門を引くと、音もなくスーッと横に開いた。鍵がかかっていなかった為、特に躊躇することなく敷地内に入った大輔は見事なまでに手入れの行き届いた庭の美しさに目を奪われる。立派な松の木、苔むした石灯籠、風情ある砂利道に飛び石。
玄関に伸びるエントランスには大きなシュロの木を筆頭に植木がたくさんあり、並木道のようになっている、東側は和風庭園だが、西側はポプラの木や東京駅のようなレンガの塀が長く続いてまるで外国の公園のようだ。
しかもよく見ると庭に面してテラス席があり、屋内には暖炉もある。やっぱりカフェで間違いない。
「これは……撮るしかないな」
持っていたカメラバッグからカメラを取り出し、大輔はシャッターを切り始めた。
庭の全景、木漏れ日の差す石灯籠、そして屋敷の威厳ある外観――。大輔は夢中で撮影を続ける。
その時、庭の奥から人の気配を感じた。
(いけね、撮影に夢中になって気づかなかったけど、一言断り入れてた方がいいよな)
なんなら喉が渇いてきたので、お茶もいただくとするか、などと考えながら人の気配がした裏へ回る。
エントランス入り口まで戻って正面玄関から入ろうかと考えたが、店のスタッフがすぐそこにいるなら尋ねた方が早い。大輔は首から下げたカメラを左手で支え、建物の外周に沿って裏へと進んでいった。
「ん?」
一瞬大輔の目の前が煙に覆われで視界が遮られた。と思ったのも一瞬で、遮っていた煙は消え、視界が開けると、そこに現れたのは、湯気が立ち昇る露天風呂だった。
周囲を囲む石造りの湯船はお湯で濡れて独特な美しい艶を出し、庭の自然と調和している。湯気は登り始めた陽光に反射し、幻想的な雰囲気を醸し出していた。湯船の表面は光を反射して揺れる湯気と共にきらきらと輝いている。
その中に、人の姿があった。
最初は、風呂に入っているのは男だと勝手に思い込んでいたが、その考えは一瞬で消えた。なぜなら静かに水面に浸かる女性のシルエットが目に飛び込んできたからだ。彼女は髪を濡らさないよう、髪の毛をアップにまとめらており、うなじが露わになっている。そのうなじは滑らかで、淡い陽光と湯気の中で美しく映えていた。滑らかな白い肩が湯からわずかに覗き、湯気がその輪郭を柔らかく包み込んでいる。
(いやいや、ちょっと待ってくれよ……)
一瞬にして、大輔の心臓が激しく跳ねた。冷や汗が背中を伝う。目をそらすべきだ、ここは立ち去るべきだと頭では分かっているのに、体はまるで石像のように動けない。好奇心と罪悪感が一緒になった感情が胸を締め付ける。俺は変態かよ!
湯船の彼女は、まるで彫刻のようだった。淡い栗色の髪の毛が湯気の中でわずかに光を帯び、顔は正面を向いているため表情は見えないが、凛とした雰囲気が漂っている。指先で静かに湯を掬う仕草が、彼女の優雅さを際立たせていた。
その時、彼女がゆっくりとこちらを振り向いた。
瞳が合う。
視線がぶつかった瞬間、大輔の頭の中が真っ白になった。
(見られた! いや違うだろ、俺が見たんだ……いや今そんな事どうだっていい!ていうかなんでこんな所に風呂があるんだ!?カフェはどこいった!?)
彼女は湯船の中でわずかに動いた。その瞬間、静かな湯音が庭に響き、大輔の心臓は激しく脈打つ。彼女はゆっくりと湯船の縁に片手をつき、片膝を立てる。その動作は迷いなく、しなやかで、まるで自然の一部のように優雅だった。
彼女の肌は湯の熱でほんのり紅潮し、湯気の中でかすかに輝いている。その紅い肌に湯滴が伝い、光を反射しながら滑らかに滴り落ちていく。そのたびに、大輔の視界がその動きに釘付けになった。肩から鎖骨へ、さらに胸元へと続くラインが湯気のヴェールを通してかすかに見え隠れする。
彼女は湯船のそばに置いていた白いタオルを手に取りお湯に浸けると、湯船の中でゆらゆらと踊らせた。
まるで生き物のように動くタオルを右手で首元に持ってくると同時に、その場にゆっくりと立ち上がった。
胸元から下腹部までを覆うように彼女の体にしっかりと張り付いたタオルが視線を遮る。だが、その布越しに隠された曲線が逆に際立ち、見る者の想像をかき立てる。柔らかそうな胸のラインがタオルをわずかに押し上げ、その下に続く腹部の引き締まった形状が、布越しにうっすらと浮かび上がる。湯気と濡れた布が重なり、彼女の体の一部を隠しながらも、その存在をいっそう鮮明にしているようだった。
目の前にいる知らない男が自分の身体に視線を向けていることに気づいているのかいないのか、彼女は堂々とした態度を崩さない。タオルを整える仕草さえゆっくりと落ち着いていて、彼女の動きには一切の無駄がない。目の前にいる男性を全く意識していないように見えるその態度が、かえって圧倒的な存在感を放っていた。
湯船から完全に立ち上がった彼女は、濡れた髪を結い上げたまま、湯気の中で一瞬だけ立ち止まった。タオル越しに隠された体が湯気をまとい、あたかも彫刻のように浮かび上がる。水滴がタオルの端から伝い落ち、水面で跳ねる度に大輔は息を呑む。だが、それ以上に彼を圧倒したのは、彼女のまっすぐな瞳だった。ゆっくりと彼の方を振り向き、じっと見据えた。その瞳には恐怖も驚きもなく、ただ彼を見極めるような冷静さと、自信に満ちた光が宿っている。湯気の中で彼女は言った。
「どちら様?」
静かで透き通った優しい声が響く。
その問いには一片の揺らぎもなかった。まるで自分がこの場の主であり、目の前の侵入者を試しているかのような圧力が漂っている。
大輔はその言葉を聞いた瞬間、
「本当に申し訳ありません、お嬢さん。私は怪しい者ではありません。実はてっきりカフェだと思って店員さんを探していたのですが、まさかお風呂に入っている方がいらっしゃるなどつゆ知らず……悪気がなかったとは言え失礼いたしました。すぐにこの場を立ち去りますのでどうかお許しください」
と紳士的振る舞いで弁明しようとした。ところが、口から出たのは何とも頼りない弱々しいかすれ声だった。
「いや、あの……すみません、本当に……」
頭の中では次々と最悪のシナリオが浮かぶ。警察に通報される、逮捕される、ニュースになる……。職場の上司に知られたらどうなる? 薬剤師としてのキャリアはどうなる? 家族にはどう説明すればいい? 板橋区の田園調布と言われた実家のときわ台から出ていかなければならない?無数の言い訳やシミュレーションが頭を駆け巡るが、体は固まったまま動けない。
一方で、彼女は少しも動揺していないように見えた。むしろ、その堂々とした態度が、さらに大輔を追い詰めていく。
(これは、俺……終わったな……)