来訪者2
江川邸から300メートルほど離れた場所に小さな一軒家がある。
1950年代に建てられたであろうその住宅は10坪程度の本当に小さな家だ。
屋根瓦は艶は無くなり苔が生え、肌色のモルタル外壁は至る所にひび割れがある。木製のサッシと玄関扉は昔ながらのすりガラスの引き戸で、夏は暑く冬は寒い、ザ・昭和のミニマム住宅そのものだ。その家の前を通った通行人からは恐らく「歳をとった老夫婦が住んでいるんだろうな」思われることは容易に想像できる。
そんな一軒家の玄関が『ガラガラガラ』とノスタルジーな音を立てると、そこからひょっこり現れたのは予想に反し幼い女の子だった。
女の子は透き通るような白い肌に癖っ毛の明るいブラウンのボブカット。ベージュのTシャツワンピースにスニーカーを履いていた。一瞬見ただけだと少し背の高い小学生のようにしか見えない。
頭には黒くて大きなヘッドフォンをかぶっていて、明るい髪の頭頂部から覗くヘッドバンドは遠くから見るとカチューシャをつけているようにも見える。
童顔と眠そうな瞼に下がり気味の目尻、それにオーバーサイズの服装は幼児体型のような姿でとても可愛らしい印象を与えている。が、ただひとつ、一般的な日本人と異なる部分があった。瞳だ。
翡翠色の瞳を持つ少女は、その美しい目にどこか悲しげな影を宿していて、彼女の儚げな視線は人々からの注目の的となった事はあっただろうし、年齢からして学校のクラスメイトからも好奇の目で見られていたかもしれない。
綺麗な顔立ちと翡翠色の瞳は憧れの眼差しで見られる事もあれば、差別的に見られる表裏一体のペルソナとの共存なのだ。
少女は玄関扉に取り付けられているいかにも簡素な鍵をカチャリとかけると、白色の本体部分に大きく『eL 12』と書かれた体型に不釣り合いなサイズのスーツケースを転がし歩き始めた。
少女は家を出てから100メートルほど坂を登り、終わりがどこなのかわからないほどの長い石造りの塀に突き当たるとその塀沿いをさらに進む。
その先に小学校の校門にあるような一際大きな門扉が姿を現す。江川邸だ。少女は門柱に取り付けられたインターホンを鳴らすと、スピーカーの向こうの相手に大きな声で「沙絵子か?僕だけど門扉のロックを解除してくれるか?」と叫んだ。
インターホンに対応した沙絵は「あぁ、玲奈ちゃんね、待ってて今開けるから」と少し待つように伝えた。
『玲奈』と呼ばれたこの少女は実は江川邸のセキュリティを全て任されている近所の女の子だ。
見た目は幼いが、天才的なプログラミング能力でいくつもの名だたる大企業を相手に仕事をしている。江川邸のセキュリティもそのうちの一つだ。
今日は新しく更新したカードキーを届けに来たのだったが、なにか様子がおかしい。
インターフォンの横に取り付けられている施錠のステータスを示すランプが青、すなわち開錠になっている。
「どうして開いているんだろう…?」
沙絵がロックを解除したのなら解除を知らせる音声メッセージが流れるはず。だがそんなメッセージは流れていない。江川邸はいつも厳重に管理されている。それが今、開放されているのは明らかに異常だった。
彼女はスーツケースを横にして正門の隙間に入れると敷地内へ入っていく。一瞬立ち止まり、冷静に周囲を見渡した。何か異変があればすぐに察知できるように、細心の注意を払って進んだ。
邸宅の大きなドアをノックすると同時に、中から沙絵が飛び出してきた。
玲奈は「沙絵子、正門が開いてたんだけど、最後に入ったのはおまえか?」と尋ねた。
「え?正門?私はちゃんと閉めたはずだけど…」沙絵は戸惑った様子で答えた。続けて「何度も解除のボタンを押したのだけれど反応がないから直接開けようと思って、慌てて出てきたの」と玲奈に事情を説明した。
「今日はカードキーのオートロックが使えないから開錠したら手動で鍵をかけるように言っただろ?守った?」
「あっ…忘れてた…」沙絵の顔がひきつる
玲奈は冷静に「まあ大丈夫だとは思うけど、しっかりしろよなー、僕がセキュリティ強化したって使う人間がこれじゃ意味ないじゃん」とチクチク沙絵に棘を刺した。「とりあえず蘭子のアトリエに行ってセキュリティ用のコンピューターで防犯カメラを確認しよっか」
玲奈はスニーカーを片手で脱がすとポイポイと玄関に放り、沙絵と一緒にアトリエに向かう。
アトリエに入ると玲奈は真っ先に部屋のクローゼットを開けストンとしゃがみ、四つん這いになりながらゴソゴソと何かを探す。
大きなボックスを見つけ、クローゼットから運び出すと蓋を開ける。その中に入っていたのはたくさんのお菓子だった。そこから何個かお菓子を取り出して抱えるとパソコンの前に座り、システムを立ち上げる。それと同時に取り出したお菓子の中からポテトチップスを開けるとバリバリと豪快に食べ出した。
沙絵は「玲奈ちゃんさぁ、朝からお菓子食べるとか健康によくないよー」と呆れた様子で玲奈に話しかけると、玲奈は「頭使うとお腹が空くんだよ」と口の周りにお菓子のカスをつけてニヤリと笑った。 そうこうしながら油のついた指先でキーボードを叩く。数秒で防犯カメラの映像が次々とモニターに映し出された。
「よーし、これで屋敷内の様子が見えるな。沙絵子はとりあえずリアルタイムで異常がないかモニター見といてくれ」と玲奈は指先に着いた油を舐めながら沙絵にそう指示を出した。さらに「その間に僕は録画データを確認するっと」と言うとカタカタとキーボードを叩きデータを取り出す。
沙絵はモニターを見つめカメラの映像を切り替え、屋敷のあらゆる角度をチェックしていった。大きなアトリエ、広々としたリビングルーム、装飾の施されたダイニングルーム。どの部屋も、一見すると異常はないように見える。が、
「あ!ちょっと待って、ここ!!ここ見て!!」
沙絵が声を上げた。
「なんだよ、大きい声出すなよ」
と玲奈はめんどくさそうに言いながら画面を見る。
モニターには敷地の東側、本宅と離れとの間の庭が映し出されており、そこにはなんと大きな一眼レフカメラを抱えた人物が隠れる様子もなく堂々とウロウロしているのが映し出されていた。
それを見た瞬間玲奈はブーーッと頬張っていたポテトチップスを口から盛大に撒き散らし、ゲホッゲホッと咳払いをしながら苦しそうに「なんだこいつ!おい!蘭子はどこにいるんだ?」と沙絵に尋ねた。
「お風呂に入ってる…」
「どこの!?」
「このモニターの先にある北側の露天風呂…」
そう沙絵が言い終わるや否や、やばい!やばい!やばい!と大慌てで2人は北側露天風呂に向かった。