来訪者
アトリエから出た蘭子は洗顔と歯磨きを終えると、玄関ホールを抜けて食堂の扉を開けた。
江川邸の食堂。奥のキッチンで朝食の準備をする沙絵はゴシックワンピースにひらひらのエプロンを巻いた姿で「もう少しでできるから座って待っててよ」とフライパンのあおりながら蘭子の顔を見ずに大きな声を出す。
蘭子は「うん」とだけ短い返事をするとキッチンの対面にある大きな冷蔵庫から炭酸水のペットボトルを取り出した。
食堂の南側には壁一面に全開放できるテラス窓があり、その傍に沙絵が火を点けてくれた大きな暖炉とマホガニーで作られた年代物のロッキン・チェアーが置かれている。
彼女は着ているドレス、まあ一枚の布であるのだが、それをたくし上げると浅く腰掛けゆっくりと椅子を揺らした。
ペットボトルの水を一口飲み、ぼぅっと外の景色を眺める。中二階の自室から眺める景色とは違い、外塀の脇に植えられた葉がなくなった樹木と、色とりどりの落ち葉の絨毯が間近でなんとも美しい。
自分はほとんど全裸の状態であるにも関わらず心地良ささえ感じる温かい部屋の中。時折爆ぜる薪の音を聞きながらそこから見える景色は秋深い凛とした朝そのものであり、部屋と外との隔たりは豪奢を極めたささやかな贅沢とも言えるのかもしれない。
「そんなに外眺めるの好きなわけ?」
プレートに盛られた朝食をテーブルに運びながら呆れたように沙絵が話しかける。
蘭子が朝起きると必ず出窓に腰掛けて外を眺めていることを沙絵は知っていた。そして「あの香り」がした時だけは、まるで飼い主の帰宅をじっと待ち続ける猫のようにいつまでも外を眺めていることも。
そんな寂しさの権化のような蘭子を見るのは、とてもつらかった。
「感情だけじゃなくて、現実も見ないとだめよ」
そう沙絵から言われると蘭子は「そうね」と苦笑いを浮かべながら人差し指で頬を掻いた。
テーブルには一から作った出来立てのクラムチャウダーやスパニッシュオムレツ、アンチョビを使ったポテトサラダなど、とてもおいしそうで手が込んでいる料理ばかりが並ぶ。
沙絵は料理がとても上手だ。
蘭子も決して料理が下手なわけではない、むしろ上手な部類に入る。だが沙絵は何を作らせても味が変わらずブレないのだ。料理の基本ができているというよりは、料理人のそれに近い。きっちりと狙った味が出せるから料理がぼやけない。
テーブルに腰掛けて二人は朝食をとる。通常、朝食は優雅に取るものだが、彼女達の食事はミーティングも兼ねている。
沙絵は会社から持ってきた大量の生地についての説明をしたり、最近起きた会社での人事や新しい取引先の情報、株価の推移や社内外でのトラブルなどを細かく蘭子に説明した。
蘭子はというと、紗絵の話に相槌を打ちながら頭の中へ整理と同時次々に詰め込んでいく。蘭子は会社に居ることがなく、電話も取らなければZOOM会議にもほとんど出席しない。
沙絵とのミーティングが唯一のコミュニケーション手段なのだ。
このシーンだけ切り取って見れば、多忙なできるキャリアウーマン達の朝の時間である。一人はほぼ全裸でもう一人はメイド喫茶の店員コスプレだということを除いては。
十五分ほどで近況報告を兼ねたミーティングを終えると沙絵は唐突に「話は変わるんだけど」と話題を変えた。
「恵比寿にアパランスってセレクトショップあるじゃない?あそこ今月いっぱいで閉店するんだってさ」
沙絵はコーヒーを飲みながらそう蘭子に伝えた。あんなに頑張っていたのにねぇ。とポツリとこぼす。
「そう」と蘭子は短く返事をして眉根を寄せ悲しそうな顔を覗かせると、アパランスのオーナーと初めて会った時の事を思い出した。
ちょうど3年ほど前にカピエルの若い子から、「知り合いがセレクトショップを新規オープンするからぜひ行ってあげて欲しい」と頼まれ店を訪れたことがある。
オーナーは長い黒髪が似合う艶麗な女性で、とても優しく笑顔が素敵だったのを覚えている。歳は30代前半だっただろうか。
地方から出てきてアパレル会社に就職。必死に貯金と人脈を築いてきたと言っていた。
「東京に自分のお店を持つのが夢だったの」
そう笑顔で話す彼女はとてもキラキラして幸せの象徴だった。一緒にいるだけで自分も幸せになれる気がした。どんな時でも、いくつになっても人は夢や希望を語る姿で周りを幸福にする。
蘭子は仕事の用事がある時、会社のある銀座から日比谷線に乗り可能な限り店に顔を出していた。自分が江川蘭子である事は隠した。一般客として通いたい。普通の女子として応援することで自分も同じくらい幸せになれる事を知っていたからだ。
アパレル業界を取り巻く環境は過去に例を見ないくらいの厳しい現状だ。
消費者ニーズの二極化、ECサイトの台頭、ファッションサイクルの見直し、ファストファッションや海外の超低価格商品...... あげればキリがないがメーカーも販売店も時代の変化についていけない企業やブランドは一部を除きそのほとんどが苦境に立たされている。
カピエルとて例外ではない。世界のRANKO EGAWAがチーフデザイナーを努めているとは言え、その彼女がいなくなれば勿論の事、ファッションという極めて短命な流行を原動力とするアパレル企業はいつそのエネルギーが枯渇するかわからない存在として生きていくしかないのだ。
「ほらほらそんな顔しない」
沙絵は眉根が八の字になって俯きそうな蘭子にそう言うと椅子から立ち上がり、腰に手を当て蘭子を指さしながら「おい!蘭子!私たちは私たちで残された余命を生きていくしかないのであるぞ!」と時代劇の演者のように語りだした。
「仲間が減ったのなら戻ってこれる業界を創り続けることこそ世界の江川の使命であるのだぞ!」とわざとお道化た口調で蘭子に向ってにっこり笑って見せた。
「朝から元気ね、沙絵ちゃん」蘭子はつられて笑いながらそう言うと「あんたが朝から辛気臭いからよ」と沙絵は呆れたように言い返した。
「あ、あとこれは今日の朝までにECサイトに届いた注文書と問い合わせ内容ね。葉山可憐車堂の」
そう言うと注文書の束を蘭子に手渡した。
蘭子は食事中にタブレットやスマホを見ることを極端に嫌がる。なので沙絵は食事中のミーティングを行う際、資料は全て紙媒体にして渡している。紙とタブレットではなにが違うのかさっぱりわからないが。
蘭子は手渡された注文書に目を通して確認を終えると、次に問い合わせの束に目を走らせる。
すると一枚のアウトプットされた受信メールに「AM十一時 来店希望 山中氏」と書かれていることに気づく。
「沙絵ちゃん、この来店のお客さんって?」
食後のマカロンを口いっぱいに頬張っている沙絵に蘭子は尋ねた。
「ひょっほまっへ」と情けなくこもった口調で返事をして口の中のマカロンをコーヒーで流し込むと「よくわからないんだけどワックスが欲しいんだって。それだったら葉山可憐車堂のオンラインストアから購入できますよーってメールしたんだけどね、直接話も聞きたいから来店したいって。しかもわざわざ東京からこんな田舎に。私かよ。多分初めてじゃない?お店に直接買いに来たいって言ったお客さん」
と沙絵は一気にまくしたてた。
さらに「でも声は結構渋くって知的な感じがしたし、ひょっとしてロマンスなんかあったりして。まあ、そうなっちゃったらどうしましょう!」と大きな瞳を細めながら両手でマグカップを持ち、肘をついたまま残りのコーヒーを一気に飲み干した。
蘭子は「ふうん、それじゃあひとまず沙絵ちゃんが相手して話をしてみてよ」にやにやしながらそう沙絵に伝えると資料の束をテーブルに置いた。
その後食事の後片付けを終わらせた沙絵は時計をちらりと見て
「それじゃあ十時三十分までには準備済ませとかないとね。外のお風呂沸かしてあるから入ってくれば?」と蘭子に伝えると「おおー、さすが沙絵ちゃん気が利くんだから」と言い終わるよりも先に着ていた一枚の布、もといドレスをその場で脱ぎ、椅子の背もたれに掛けると食堂を出ていった。
それを見た沙絵は「ちょっとあんた!さっきから思ってたんだけどこれ私が持ってきた生地のサンプルじゃないの?あー、皺になってるし!あんたの色気をマシマシする為にこんな田舎まで運んだんじゃないわよ!」と食堂の扉に向って一気にまくしたてた。
ため息をつき、椅子に掛けられた元ドレスを綺麗に畳んで抱きかかえる。
「そうよ、そんな為に通ってるんじゃないのよ」とポツリと呟き、沙絵は元ドレスのふんわりとした生地に顔を埋めた。