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蘭子は商品開発室の「謎ではあるが正規の扉」から廊下へ出ると、屋敷の北側にある部屋へ向かった。
屋敷の廊下はテレビの時代劇でもよく目にする畳廊下になっていて、通路幅が2メートルほどある。すべての廊下に畳が敷き詰められており、そこが部屋なのか廊下なのかわからなくなるほどだ。特に玄関ホールから食堂へ向かう廊下はホール自体も含めると8畳ほどの広さがあるので、初めての来訪客は玄関のすぐ先に和室があるように見えるらしく、この屋敷がいかに大きな建物かを物語っている。
蘭子はこの畳の廊下が好きだった。
自宅にいるときはスリッパを使用せず素足で畳の上を歩く。ピンと張った楕円の畳表が足の裏をわずかに押しながらスルリと滑っていく感覚が心地よい。イ草から発せられるフィトンチッドの青い香りはまるで森林にいるかのような感覚に誘う。バニリンの香りが廊下中に漂っているのは、ごく最近畳を張り替えたことを意味する。蘭子は「いっそのことすべての部屋を畳敷にしたいのだけれど」とさえも考えていた。
中二階の階段を降りると大きなホールのような空間に出る。正面には小さな扉がひとつ。左はリビングへ、右手は露天風呂への入口である。
江川邸は本宅と離れの屋敷にそれぞれ1つづつ通常の浴室が設置されているのだが、外のウッドテラスにはシャワーと屋外浴槽がある。計3つ風呂があるだけでも普通ではないのだが、さらにそれとは別に露天風呂まであるとは一体何人家族が住んでいるのだ?と疑問に思うのは普通の思考だ。
住んでいるのはうら若き女性ただ一人なのだけれど。
蘭子はホール正面扉の真ちゅう製ドアノブを回し部屋へ入る。
部屋には照明は点いていなかったが窓からの日差しが、室内を照らしている。広さ30畳ほどはあろうかという大きな部屋。壁は煉瓦で作られており南側に大きな木製の扉。それ以外の窓は大きな白い格子状の窓が設置されている。所々の壁からむき出しの大きな配管が何本も出ており、天井を伝いまた別の壁の中へ消えていく。その部屋の様子はロバート・デ・ニーロとアン・ハサウェイ共演の映画「マイ・インターン」に登場するブロンクスのおしゃれなオフィスのようだった。壁際に置かれた大小の棚にはロール状に丸められた様々な洋服用の生地が所狭しと置かれ、部屋中央には大きな木製の作業台。北側には壁の端から端まであるデスクに大型のミシンが設置されていて、壁にかけられた板にはきれいに整理整頓されたレザークラフト用の工具が朝日を浴びて鈍く輝いていた。
この部屋は洋服を作るためのアトリエであり、ファッションデザイナー・江川蘭子の職場である。
蘭子は2000年初頭の立ち上げ以来トレンドの最前線を走り続けるアパレルブランド「カピエル」にて十数人のデザイナーチームをまとめ上げるチーフデザイナーであり、江川邸を本社とした自動車用品の販売を手掛ける株式会社葉山可憐車堂の代表取締役も務めている。
なぜ洋服のデザイナーと自動車の用品販売?と思われるかもしれないがそれは後述するとして、どちらが本業か?と尋ねられれば「葉山可憐車堂」と答えている。と言うのも蘭子はカピエルのチーフデザイナーではあるのだが、従業員ではなく個人事業主としてカピエルと契約しているのだ。これはファッション業界ではかなり珍しい事なのだが、ニーズトレンドの調査からデザイン画の作成、パターンの制作、その他デザイナーの取りまとめから工場とのやり取りまで蘭子は人の3倍ほどこなす能力があり、会社からもある程度自由な権限を与えられている。自宅で業務を行うことを特別に許可されているのは偏に、会社は蘭子に絶対の信頼を寄せているということでもある。
蘭子は部屋へ入ると扉近くに置かれたミュールサンダルを履く。部屋の中を移動しながら背中のホックを外し肩からスルリと抜けた蒼穹のビスチェを左手の小指に引っ掛け矯めつ眇めつ眺める。
「青は気に入ってもらえると思ったのだけれど」
そうつぶやくと持っていた蒼穹のビスチェの肩紐に人差し指を通しくるくると回すと、カウボーイの投げ縄のように椅子の背もたれに向けて放り投げた。
ふと、デスクに目をやるとナイロン製の大きなトートバッグが置かれていることに気づいた。それは蘭子が沙絵に依頼して会社から持ってきてもらったオータムウインターコレクション用のサンプル生地だった。
蘭子はそのトートバッグのファスナーをゆっくり慎重に開けるとバッグの中には様々な素材の生地の束がぎっしりと詰まっており、行き場を求めていた生地の束はファスナーという城門が開いたと同時にデスク上に散乱した。
「おっとっと」
そう声を漏らした蘭子は散乱したサンプル生地の中から黒のレース生地を見つけ掴み上げると矯めつ眇めつ眺める。生地の模様を見ながら蘭子は「やはり私たちは黒がお似合いなのかもね」と呟き、手にしたレース生地を身体に巻き付け首元と腰で結んだ。手短にデスクに置いてあった薔薇をモチーフにしたブローチを首周辺の結び目に取り付けると即興でシースルードレスが完成した。
漆黒のレース生地は蘭子の柔肌と豊かな二つの丘を切り刻むように鋭く食い込む。それは全身を犯すように巻かれ、艶麗な肢体をさらに強調させたが、同時に朝日に照らされて輝いていた白い肌を一瞬で嗜虐的な模様へと変化させた。