序章
午前7時30分。山田沙絵は通勤ラッシュとは真逆の下りホームに降り立った。
大きなトートバッグとトランクを両手に持ち、通勤客の「邪魔」になりながら颯爽と人混みを逆に突き進む。
駅の改札を出るとロータリーが広がる南口を通り抜け、脇の小道に入り速度を落とさず大股で軽快に歩いていく。
途中何人もの通勤者とすれ違うが、その度に朝一番の汚れのない石鹸や香水の香りが沙絵の鼻腔を優しく刺激する。
その積もりたての新雪のような香りは沙絵にとって一日の始まりの匂いであり、一人ひとり全く異なる脳に直接届き抗うことができない「ヒトの香り」を嗅ぐ事は他の五感のどれよりも眠っていた身体を目覚めさせるのに効果的なのである。
しかし、残念なことに秋も深まってきた11月下旬ともなると鼻を通る空気も香りも段々と剃刀のように鋭くなってくる。
「寒いと香りがわからなくなるのよね」
沙絵は少し恨めしそうに独り言を呟きながら歩いていると、目指す目的地の方向から一人の女性がゆっくりと坂を下りこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
女性はベージュのウールポンチョ・ケープを羽織り、タイトなグレーのマーメイドスカートにピンヒールのショートブーツ。高価で有名な模様のやや大きめのトートバッグを肩にかけている。
ゆるいパーマのかかった彫刻のようなロングヘアに流れるような輪郭。少し「気怠そうな切れ長の目」と「眠さで笑っているように見える瑞々しい唇」は妖艶な美人だと気付くのに1秒もかからなかった。
往々にしてこのように容姿に気を使う女性はほぼ間違いなく香りにも気を使うものだ。
「どれどれ、この女性の朝はどんな香りかな」
と、沙絵はワクワクしながらすれ違いざまにすうっと香りを嗅いだ。
「?」
沙絵は一瞬考え込んだ。
すれ違ったその女性から漂ってきたのは朝の香りではなく、いや、厳密には「朝」の香りなのだが香水の中に夜明けのエロチシズムが混じった香り、つまりはフェロモンが感じられた。それは二種類の時間と人が複雑に絡み合ったような美しさと寂しさのようななんとも表現できない感じがした。
「まあ最近だとそういう人がいるのもごく自然だしね」
そう意味ありげに呟きながらも沙絵はなんとも複雑で寂しく孤独な感覚に襲われた。
「あゝ、至って普通の私に王子様はいつお迎えに来てくださるのでしょうか」
そう言い放つと緩めていた歩くスピードを元に戻し再び歩き始めた。
駅前からの小道を外れ、急な坂を登っていく。
100メートルほど上ったところから終わりがどこなのかわからないほどの長い石造りの塀がみえ始める。その塀沿いの道をさらに進むと、小学校の校門にあるような一際大きな門扉が姿を現す。
沙絵は持っていたカードキーでその門扉のロックを解除すると大きな門を横にスライドさせ敷地に入り、石造りのアプローチを歩いて行く。やがて一階と二階が複雑に組み合わされた大きな屋敷が目に飛び込んできた。
玄関ポーチの階段を登り、重厚な玄関扉を開けると大きな声で
「おはよう蘭子ちゃん、起きてるー?」
と大きな声で家人に声をかけた。
大きな声で呼んではみたが、屋敷の大きさから到底その声が届いているとは思えない。
「お邪魔します」と誰にも聞こえないような断りを入れ、ヅカヅカと家に上がった。
明治の洋館を連想させる石と木材で造られた玄関ホールからリビングを抜ける。畳が敷き詰められた廊下を進み、五段ほどの階段を登ると中二階に辿り着く。初めて訪れた人は確実に迷う広さと構造だ。
沙絵は迷わずに中二階の廊下の奥にある「蘭子」と呼ばれた人物の部屋を目指した。
「蘭子ちゃん、入るよ」
と言い終わらないうちに沙絵は部屋へ入ると、10畳ほどの広さの寝室にクイーンサイズのベッドが置かれてあり、そのベッドには蒼穹の下着姿のままシルクの肌掛けを上半身だけにかけ、両手を頭の後ろで交差させ口を半開きにしてぼんやりと部屋の天井を見つめる蘭子と呼ばれた女性の姿があった。
もし、見知らぬ男性が見れば官能的に映るであろうグラビア雑誌の一部のような光景も、何度もこの屋敷に通い、同じ光景を目の当たりにしている沙絵にとってはだらしなさという名の圧倒的嫌悪感の対象でしかない。しかも今朝は過去に感じたことのある部屋の雰囲気と大人の色気の「香り」を察知したものだから余計に呆れた。
沙絵は「はあ」と深くため息をついて、
「おはよう蘭子ちゃん。いい夢見てたの?」と皮肉ともとれる挨拶をした。
それに反応した蘭子は、
「おはよう沙絵ちゃん。人の夢、香りで覗かないでくれる?」
そう言いながらバツが悪そうに口元を肌掛けで隠した。