93.相応しくなるように頑張ります
金曜日。
アルバイトが終わり、ジュエルの裏口から店を出た私は、壁に寄り掛かっていた大河さんを見付けて目を丸くした。今日の待ち合わせは大河さんの家に午後七時だった筈だ。仕事をほぼ定時で終わらせて、急いで帰って来たという事なのかな?
「大河さん! もうお仕事終わられたんですか?」
早かったですね、と続けようと言葉は、私の口から出る事はなかった。私と目が合った途端、大河さんが抱き付いてきて、驚きでそれどころじゃなくなってしまったのだ。
相変わらず、大河さんの腕の中は温かいなぁ……ってちょっと待て!! ここ屋外だから!!
「たっ、大河さんっ、離してください!」
「嫌だ。」
即答で断った大河さんは、何故か更に腕に力を込めてきた。
え、ちょ、苦しい……。
「た、大河さん、ギブ……っ!」
両手で大河さんの身体をベシベシ叩いてアピールすると、大河さんは漸く離してくれた。
いくら人目に付かない所だとは言え、恥ずかしいったらありゃしないんですが。
「悪い……。取り敢えず行こうか。」
大河さんは戸惑う私の手を引いて歩き出した。慌てて小走りで付いて行きながら大河さんの顔を見上げる。
少し、やつれた? 目の下にもうっすらと隈があるような……。大丈夫なのかな?
心配になっていると、不意にこっちを向いた大河さんが、歩く速度を落としてくれた。有り難い。だけど今度は、大河さんに握られている手が痛くなってきた。
「あの……大河さん、手が痛いんですが……。」
私が言うと、大河さんは力を緩めてくれた。と思ったら、指同士を絡めて繋ぎ直した。こ、これって所謂恋人繋ぎじゃ!?
「これで良いだろ?」
「あの、大河さん。」
「嫌か?」
「恥ずかしいので止めて欲しいです。」
「嫌だ。」
私が抗議したのに、大河さんはそのまま歩いて行く。すれ違う人達の視線が感じられて恥ずかしい。
と言うか、今日の大河さん、ちょっと変じゃないか?
漸くその事に思い至って、再び大河さんを見上げると、何だか思い詰めたような表情をしていた。訊いてみようかと思ったが、もうマンションのエントランスに入る所なので、立ち話も何だしな、と思い直す。
一週間ぶりの大河さんの家は、酷く懐かしいように思えた。まるで漸く本当の家に帰って来たような感じがする。もうここは、私が帰る場所じゃないんだけれど……。
リビングに通され、ソファーに座るよう勧められる。私が腰掛けると、大河さんは隣に座った。
「冴香、何で婚約解消を承諾したんだ?」
開口一番に訊かれて、私は戸惑った。
婚約解消……え、そこ? 黙って出て行った事じゃなくて?
「俺が嫌いか?」
切なげな視線を寄越す大河さんの端正な顔が、苦しげに歪む。私は慌ててブンブンと首を横に振った。
「とんでもない! その、あの……以前も言ったじゃないですか。大河さんの事、好きだ、って。」
最後の方は俯きながら、蚊の鳴くような声になってしまった。
「だったら何で!?」
いきなりの大声に、私は驚いて顔を上げた。大河さんの両手が、私の両肩を掴む。
「祖父さんに何か言われたのか!?」
「あ、いえそう言う訳では……。」
大河さんに掴まれた両肩が痛い。今日の大河さんは、どうしてこんなに暴力的なんだろう? やっぱり、怒っているのかな。
「あの、何も言わずに出て行ってしまって、大変申し訳ありませんでした。何しろ急な事で、ご挨拶も出来なくて……。」
「そんな事言ってんじゃねえ!!」
声を荒らげた大河さんに、再びきつく抱き締められた。
「もう一度訊くけど、お前、俺の事、男として、恋愛的な意味で、好きなんだよな?」
「そ……そうですけど。」
「じゃあ俺と結婚しよう。」
ん?
え、ちょっと待て。今何て?
私が驚愕していると、大河さんは身体を少しだけ離して、私の目を覗き込んできた。
え、目が完全に据わっているんですけど。何か怖い……。
「この一週間で、お前がどれだけ大切か、良く分かった。もうお前が居ない人生なんて考えられない。だから今すぐこの家に帰って来てくれ。そして俺と結婚しよう。」
「え、いや、あの……。」
「断る気か?」
大河さんの目がスーッと細くなっていく。何故か背筋に悪寒が走った。
「いや、だってあの、ちょっと落ち着いて考えてくださいよ。私じゃ、大河さんに釣り合わない事くらい、分かりますよね?」
「分からない。何が釣り合わない?」
「何がって、ほら、イケメンで背が高くて仕事が出来る天宮財閥の御曹司である大河さんの隣に立つ女性は、やっぱり美人でモデルみたいな体型で家柄も釣り合うような方が似合うんじゃないかなって思うんですよ。私はそのどれにも当て嵌まりませんし。って言うか寧ろ真逆ですし。」
私が捲し立てると、大河さんは呆れたように溜息をついた。
「そんな事を気にしているのはお前くらいだ。俺は普段は無表情でクールで口ばかり達者で可愛げがないが、口喧嘩すると楽しくて、おまけに笑うと可愛い、意外と涙脆いお前が良い。」
大河さんの台詞に、私は一気に赤くなった。何だそりゃー!?
「ほ、褒めるか貶すか、どっちかにしてくださいよ! 大体、大河さんの元カノって、谷岡さんですよね? 美人でスタイルも良くて、大河さんとお似合いじゃないですか。なのに何でよりによって、次はこんな女性としての魅力の欠片もない小娘を選ぶんですか? 女性の趣味、悪くなっていません?」
「逆だな。寧ろ良くなったと言ってくれ。金目当てで腹に一物抱えているような女よりも、お前みたいな裏表のない奴の方が余程良い。ついでに言うと、あいつに盗られた肉団子の恨みは忘れていないしな。」
「何ですかそれ。そんな個人的な些細な恨みなんて知りませんよ。大河さんって器が小さいですよね。」
「実はそうだったらしいな。会社で巨大な猫を被り過ぎて、素の自分を忘れる所だった。お前には最初から素を見せているから、取り繕う必要が無くて楽だ。やっぱりお前が良い。と言う訳で結婚しろ。」
「折角話を逸らしたのに、何でまた戻って来ちゃったんですか。」
「やっぱりわざと逸らしていたか。俺にそんな手は通用しない。承諾するまで、ずっとこのままだぞ、良いのか? 冴香。」
ひょい、と大河さんに抱き上げられたかと思うと、大河さんの膝の上に座らされた。
ちょっと待て! 何だこの体勢は!?
ニマリと不吉な笑みを浮かべた大河さんに後頭部を片手で固定され、大河さんの顔がゆっくり近付いて来て……って、うわあああ!?
「た、大河さんストーップ!! 一旦落ち着きましょうよ、ね!?」
「俺は落ち着いているぞ。騒がしいのはお前だろ。」
「いやだってほら、どう考えたっておかしいじゃないですか! 天下の天宮財閥の御曹司である大河さんが、私みたいなのを選ぶなんて!」
私が力説すると、大河さんは私の顔をじっと見つめてきた。
「……だったら、俺が天宮財閥を捨てれば、お前は納得して結婚してくれるのか?」
「はあ!?」
今日は色々大河さんに驚かされているが、これが一番の爆弾であるように思えた。
大河さんが、天宮財閥を、捨てる!?
「お前が天宮財閥の事を色々気にしていると言うのなら、俺は天宮財閥を出る。そうすれば、もう釣り合いだの何だの関係ないよな?」
「いやいやいや、それは駄目でしょう!? 大河さんみたいな優秀な人が、後を継がなくてどうするんですか!? 勿体無さ過ぎでしょう!!」
「そんなつまらん立場のせいで、お前を失う事になる方が余程嫌だね。お前が手に入るのなら、天宮財閥なんてクソ食らえだ。」
おいおいおいおい!! 物騒な事言わないでくださいよ!!
だけど、大河さんは至って真剣だ。熱が仄かに浮かぶ切なげな目で、私から視線を逸らさない。
「どうなんだ? 冴香。」
大河さんに促され、私は大河さんの胸に縋り付いた。
大河さんがここまで言ってくださっているんだ。それに応えなくてどうする、私。
ぎゅっ、と大河さんの胸のシャツを握り込み、腹を括ると、私は顔を上げた。
「大河さんに天宮財閥を捨てさせるくらいなら、私が馴染む努力をします。取り立てて美人でも、可愛くもないですけど、大河さんに相応しくなるように頑張ります。」
私が答えると、大河さんの顔が輝いた。
「じゃあ、俺と結婚してくれるんだな!?」
「は、い。不束者ですが、」
どうぞ宜しくお願いします、という言葉は、大河さんに唇を塞がれて、言わせてもらえなかった。




