9.イケメンの笑顔には凄い破壊力がありました
「大河さん、今から何処に行くんですか?」
私は大河さんの車の助手席に乗り込み、シートベルトを締めながら尋ねた。
「言ったろ。お前のその身なりを何とかする。ところで……。」
運転席の大河さんは、エンジンをかけながら、ちらりと私を横目で見た。
「お前、病院に行かなくて良いのか?」
「絶対嫌ですお断りします。」
ギョッとした私は、素早くシートベルトを外して車を降り、助手席越しに運転席の大河さんと対峙する。
「病院とか警察とか、大事になるような所には絶対に行きたくありません。それに、あの二人は私を病院に行かせたくないので、暴力もある程度は手加減しています。痣なんて二週間もすれば消えますし、放っておいても大した事ありません。無理矢理連れて行かれても、私は絶対に逃げますからね。」
「分かった。分かったよ。病院にも警察にも行かねーから、大人しく乗れ。」
呆れたように溜息を吐き出す大河さんに疑念の眼差しを送りながら、私は恐る恐る大河さんの車に乗り込んだ。
堀下の家での七年近くは、私にとっては黒歴史だ。これ以上人に知られてたまるか。変な所に連れて行かれそうになったら、何が何でも逃げ出してやる。
私の警戒心は徒労に終わり、大河さんに連れて来られたのは、Mistという美容院だった。
「大河さん、散髪されるんですか?」
「散髪するのはお前だよ! その不揃いの髪を整えて来い!」
大河さんに指摘され、自分のショートボブもどきの髪に触る。
「これ以上は短くしたくなかったのですが。でも確かに自分で切ると綺麗に揃えられないんですよね。分かりました、ちょっと揃えてもらって来ます。」
「おい、ちょっと待て。」
車から降りようとした私の手を大河さんが掴む。
何? 行って来いとか、ちょっと待てとか、忙しない人だな。
「お前その髪、自分で切っていたのか?」
「そうですよ。美容院に行くお金なんて貰えませんでしたし、あまり髪が長いと掴まれて引っ張られたり、見苦しいと難癖を付けられて変に切られたりするので、自分で短めに切るしかなかったんですよね。」
私がそう答えると、大河さんは固まっていた。
おーい、そろそろ手を離してもらえませんかね。車から降りられないんですけど。
大河さんの目の前でもう片方の手をひらひらと振ると、漸く手を離してもらえた。
「いらっしゃいませ、天宮様。」
美容院の中に入ると、店長さんっぽい、ウェーブがかかった少し長めの茶髪のお洒落なお兄さんが出迎えてくれた。
「こちらのお嬢様ですね。」
「ああ。急で悪いけど頼む。」
「畏まりました。ではこちらへどうぞ。」
何だか凄くスムーズだけど、大河さんは何時の間にか予約でもしてくれていたんだろうか。それともこの美容院は行きつけなのかな? いつもここで美女のヘアセットしてから高級ディナーに連れて行っていたりして。わぁ有り得そう。
霧島、と名乗ったお兄さんに連れられて、空いているシャンプー台に通された。隅々まで丁寧に洗ってもらい、久し振りに人に髪を切ってもらう。
霧島さんは何とテレビに出た事もある有名なカリスマ美容師で、普通は予約も三ヶ月待ちなんだそうだ。自分のお店を持つ時に天宮財閥にかなり助けてもらったとかで、どれだけ忙しくても天宮家の人々から要望があった場合は都合を付けるようにしているらしい。何だか申し訳ないな。権力って怖い。
霧島さんは私の希望を汲んでくれて、出来るだけ切らないようにしてくれた。それでも元がガタガタだったから、やっぱり少しは短くなってしまったけれど、そんな事は気にならないくらい綺麗に仕上げてもらえたので凄く満足だ。私の幼児体型で髪まで短いと男の子に見えてしまうかなと思っていたけど、うん、ショートヘアも悪くない。
「大河さん、お待たせしました。」
スマホを弄っていた大河さんに声をかけると、大河さんは目を見開き、そして笑いかけてくれた。
「へえ、ちょっとは可愛くなったじゃねえか。」
イケメンの笑顔って、凄い破壊力があるんだ……。ちょっとドキッとしてしまった。
思わず見惚れていると、大河さんが一瞬怪訝そうな顔をし、そしてニヤリと笑った。
「何? もしかして今俺に見惚れてた?」
ドヤ顔の大河さん。ご自分の魅力が良く分かっていらっしゃるようで。
そう言えば昨夜、『いずれ必ず俺に惚れさせてやる』とか言っていたような気がする。どう考えても意味不明だったし、きっと幻聴だったんだろうと結論付けたけど、まさか本当に言ったんじゃないよね?
もし本当なら凄く困る。大勢の美女達を手玉に取ってきた大河さんが、私なんかに本気になる訳がない。今は何の気の迷いなのかは知らないけど、私を惚れさせたらその時点で飽きてしまうに違いない。そしてけんもほろろに振られて捨てられて、私が傷付くだけの結果になるに決まっている。
大河さんがどういうつもりなのか知らないけど、私は大河さんに惚れたくはないのだよ。
「……おい、何とか言えよ。俺が馬鹿みたいだろうが。」
大河さんに促されて、私はおもむろに口を開く。
「ええ、思わず見惚れてしまっていました。イケメンの笑顔には人を誑かす効果があるんだなーと、今身を持って実感していた所です。」
そう言うと大河さんは眉を顰めた。
「誑かすってどういう意味だよ。」
「自分が本当に可愛くなったんじゃないかと、うっかり乗せられてしまう所でしたので。大河さんでもお世辞を言う事があるんですね。」
「世辞じゃねえよ! そもそもお前に世辞を言った所で何の得にもならねえし!」
「それもそうですね。では今度お食事に大量のピーマンをお出しします。」
私がそう言ってやると、大河さんの顔が引き攣った。
「……何で俺がピーマン嫌いだって事知ってんだよ。」
「あれ、図星だったんですか? 昨日お弁当に入っていたピーマンを召し上がる時に、少し嫌そうにされていたので、そうなのかなーとは思っていましたが。」
理不尽な暴力を避けるべく、気が変わりやすい継母と異母姉の顔色をひたすら窺う生活を続けてきたので、他人の機嫌には多少敏感になってしまった。しかも大河さんは割とすぐ顔に出るタイプみたいだから、結構分かりやすい。
「なっ……てめえ嵌めやがったな!」
「人聞きの悪い事言わないでください。大河さんが自分から打ち明けて下さっただけでしょう。」
「くっそ、可愛くねえなお前!」
「ほらやっぱり。さっきの可愛いはお世辞だったんですね。」
「性格がだよ! ああもう良いから行くぞ!」
大河さんはさっさとお会計を済ませて、美容院を出て行ってしまった。私も急いで霧島さん達にお礼を言って大河さんの後を追う。美容院を出た途端に、中から大勢の人達の笑い声が聞こえてきたんだけど、何かあったんだろうか。