84.予期せぬ来客です
「じゃあ、今日もお互い頑張りましょう。また夕方迎えに来るわね。」
「はい。いつもありがとうございます。」
土曜日の昼前、ジュエルまで送ってくれた凛さんと別れた私は、裏口から店内に入った。マスターと翠さんに挨拶をして、二階の小部屋でエプロンを身に着けながら、知らず小さく溜息をついている自分に気付く。
いけない、まただ。
あれから一週間も経つと言うのに、私は依然として鬱々とした気分のままだった。何時までも落ち込んでいるなんて、私らしくない。頭では分かっているのに、気持ちは付いて行かなかった。
どうしても、ふとした瞬間に考えてしまうのだ。この先、誰かが私を愛してくれるような事はあるのだろうか、と。
唯一、私を愛してくれていた母親はもういない。父親は、私の事など無関心だった。血の繋がった実の父からですら愛されなかった私を、所詮は他人である誰かが愛してくれる事などあるのだろうか。今まで以上に、孤独に恐怖し、どうしても前向きになれない自分がいる。
大河さんや大樹さん達が、好意を伝えてくれたけど、正直、まだ信じ切る事が出来ない。会長が、私が決めた結婚相手と共に、天宮財閥を継がせる、と仰ったからではないかという思いが消えない。何よりも、人を信じて、裏切られるのが怖いのだ。きっと、その時の精神的ダメージは、自分でも薄々気付いていた、父の時の比ではないだろうから。
午前中だけで既に何度目になるか分からない溜息を吐き出してから、私は部屋のドアを開けて一階に下りた。大河さん達も、マスター達も、ここの所私が気落ちしている事を見抜いて気にしてくれている。せめてこれ以上、要らない心配をかけてしまわないようにと、笑顔を作ってから仕事を始めた。
昼時の忙しい時間帯を乗り切り、昼休憩を頂いて戻って来た時だった。
「冴香ちゃん、お客さんが来ているよ。」
また大樹さん達が来てくれたのかな、と思ってマスターに示された方を見ると、見覚えのある美人さんがカウンター席に座っていた。
「冴香ちゃん、久し振りね。私の事、覚えている?」
「はい。谷岡さん、ですよね。」
私が答えると、谷岡さんは少し目を丸くした。
「あれ、私冴香ちゃんに名乗った事あったっけ?」
「初めてお会いした時に、ネームプレートを拝見しましたので。」
「へえ、それだけで覚えていたの? 記憶力が良いのね。」
「凄い美人さんだなと思って見惚れていましたから。」
「あらー! 冴香ちゃんってば、お世辞も上手なのね!」
「お世辞じゃありませんよ。」
嬉しそうに笑う谷岡さんを少しばかり観察する。以前、谷岡さんから感じた、良く分からなかった悪意は、今は全く感じられなかった。
「それで、私に何か御用ですか?」
谷岡さんに訊きながら、私は心当たりを探していく。
前に大河さんの家に来られた時は、私と大河さんの関係を気にされていた。今回もまたその件なんだろうか? 大河さんの事を絶対に好きになっちゃ駄目だと忠告をされていたのにもかかわらず、その日のうちに大河さんの事が好きだと自覚してしまったので、後ろめたさがあるのだけれど。
「うん。遅くなっちゃったけど、冴香ちゃんに謝ろうと思って。」
「謝る? 私に?」
私がきょとんとしていると、谷岡さんは立ち上がって姿勢を正した。
「あの時は、大河の事、絶対に好きになっちゃ駄目、って言ってごめんなさい。本当は私、大河が貴女の事を想っているのに気付いていたの。大河に振られたばかりで悔しかったから、貴女との仲を壊してやりたくて、貴女を気遣う振りをして、あんな事を言ってしまったの。」
深々と頭を下げる谷岡さんに、私は慌てる。
あの時感じた悪意は、そういう意味だったのかな、と思いながら、谷岡さんを警戒していた自分を恥じた。
「え、と、あの、気にしないでください。私も全然気にしていませんから。」
「本当に?」
顔を上げた谷岡さんに、射抜くような目で見つめられ、私は言葉に詰まってしまった。
「じゃあ冴香ちゃんは、大河の気持ちをちゃんと信じているの? 大河に愛されているって、ちゃんと自信を持って言えるの? 最終的には振られて傷付いてしまうんじゃないかって言う不安が、少しもないって言い切れるの?」
真っ直ぐに目を見て尋ねてくる谷岡さんに、私は何一つ答える事が出来なかった。谷岡さんの質問は、まるで私の心の暗い部分だけを、的確に見通しているようだったから。
谷岡さんは苦笑を浮かべると、翠さんにお会計をお願いする。
「冴香ちゃん、ここじゃ何だし、アルバイトが終わったら、この番号に連絡くれないかな。ちょっと二人で話したいんだ。」
「はい……。あ、アルバイトが終わるのは夕方の六時ですが、迎えの人が来る事になっていまして。」
「え、それって大河?」
「いえ、女性の方です。あ、同じ会社に勤めていらっしゃる、本城敬吾さんはご存じですよね? 敬吾さんとお付き合いされている方なんですが。」
「ふーん? まあ良いわ。その人も交えて女子会しましょ! 要は大河じゃなければ良い訳だし。じゃ、連絡宜しくね!」
谷岡さんはそう言って片目を瞑ると、店を出て行ってしまった。美人さんのウインクって様になっているなあ、と思いながら、私は少しの間呆気に取られていたが、すぐに今は仕事中である事を思い出し、マスターが谷岡さんにお出ししていたカップを片付けていった。




