8.仮ですが認めてもらえたようです
目が覚めると、部屋の中が随分と明るかった。
寝過ごした!? と一瞬焦ったが、見慣れない部屋の光景に、大河さんの家に引っ越して来た事を思い出す。そうだ、まだ暗いうちから起きて、朝ご飯の支度に追われなくて良かったんだった。
そっと部屋のドアを開けてみると、リビングのカーテンはまだ閉まったままで、大河さんが起きている気配はなかった。時計を見ると七時。大河さんは休みの日は何時くらいまで寝ているんだろう? 昨日のうちに聞いておけば良かった。
昨日はたっぷり昼寝もしたし、夜も寝心地の良いベッドでぐっすり眠れたので、流石にもうこれ以上は寝る気にならない。部屋が少し離れているとは言え、音を立てて大河さんを起こしてしまわないよう、気を遣いながら洗面所に移動し、顔を洗って身支度を済ませる。
朝ご飯は昨日の残りのおにぎりとサンドイッチとお総菜だから支度なんていらないし、洗濯も掃除も音を立ててしまうから、大河さんが起きてからした方が良いだろう。では取り敢えず、とリビングのカーテンを開けて新聞を取って来た私は、固定電話の隣に置かれているメモ帳を一枚破り取り、ついでに側にあったボールペンも借りてキッチンに移動する。
しっかし、物の見事に何にもないね、このキッチンは!
私は呆れ返りながら、メモ用紙に必需品を記入していった。まずは何と言っても炊飯器! そして包丁に鍋にボウルにザル。電気ポットは流石にあった。コンロの下にトースター機能付きのオーブンレンジが備えられており、シンクの下には食器洗い乾燥機まで付いていたけど、この素晴らしい文明の利器達がちゃんと使われているかどうかは甚だ疑問だ。何せ新品同様にピカピカだし。あとは食材や調味料を買い込んで、おっと食器も必要だった。
思い付く限りの物を記入していると、カチャ、と大河さんの寝室のドアが開いた。
「あ、おはようございます。」
「……おう。早いな。」
大河さんは私を見てそう呟くと、まだ眠そうな目を擦りながら洗面所に向かって行った。もしかして起こしてしまったのかな? 出来るだけ静かにしていたと思うんだけど。
再び部屋に戻った大河さんは、白シャツとネイビーのスラックスに着替えて出て来た。イケメンは何着ても似合うなあと感心しつつ、洗濯物があったら出してくれるようお願いする。スーツやシャツはクリーニングに出しているとは言え、大河さんは一週間分を纏めて洗濯するそうなので、洗濯物はそれなりに量があった。洗濯ネットがないけど、男の人ってこういう所は気にしないのかな? これもリストに入れておこう。乾燥機能付きの洗濯機は便利そうだけど、電気代がかかりそうだし、晴れている日は外に干したいから、物干しハンガーも欲しいな。
「お前、おにぎりとサンドイッチ、どっち食う?」
「私はどちらでも良いです。でも大河さんはこれだけで足りるんですか?」
ダイニングテーブルの上におにぎりとサンドイッチとお総菜を並べながら、私は大河さんに訊いた。私ならどちらにしても、一つだけ貰えれば十分なのだが、昨夜大盛りのお弁当におにぎりを二つも平らげた大河さんは、果たして全てを胃に収めた所で、足りるのだろうか。
「ああ。朝はこんなもんだろ。」
そう言いながら大河さんはおにぎりに手を伸ばしたので、私はサンドイッチを頂く。
「大河さん、良かったら今日、台所用品等を買いに行きたいのですが。」
リストを見せながらお伺いを立てると、大河さんに眉を顰められた。
何故だ。このままだとご飯が作れないんだぞ。
「それは後回しで良い。取り敢えずお前のその身なり、何とかしなきゃな。」
大河さんに指摘され、私は自分の格好を見下ろす。体中の痣を隠す為、長袖長ズボンが私の基本スタイルだが、異母姉のお下がりで少しだぼついているとは言え、白黒のボーダーシャツに青のジーンズがそんなにダメなんだろうか。
「そんなに変でしょうか? 台所用品よりも優先されるべきだとは思いませんが。」
そう尋ねると、大河さんに呆れ顔をされた。
「お前な……。少しは俺の婚約者だという自覚を持ってちゃんとしろ。体に合っていない上に、所々解れかけているような服なんか何時までも着てんじゃねーよ。そんな姿を祖父さん達が見たら、俺の方が怒られるだろうが。」
確かに、シャツの襟元は少しばかり解れがあるし、ジーンズの膝の部分は何時破れてもおかしくないくらい薄くなってきているけど……って、ちょっと待て。
「私を婚約者だと認めてくださるんですか? 家政婦ではなく? 昨日はあれだけ嫌がってらしたのに。」
そう尋ねると、大河さんは急に慌て出した。
「し、仕方なくだ! あくまでも仮だからな!」
「仮でも大変光栄です。ありがとうございます。」
仮でも認めてくれるんだ。多分そうしないと天宮会長や社長達が黙っていないだろうから嫌々だとは思うけど、居場所が出来たみたいでやっぱり嬉しい。
お礼を言うと、大河さんは赤くなった顔を片手で隠しつつ、眉間に皺を寄せていた。
「無表情で礼を言うのは止めろ。」
「すみません。私表情筋死んでいるもので。」
「……これからは動かす練習でもするんだな。」
「そうさせて頂きます。」
うん、やっぱりコミュニケーションのツールとして、表情は大事だよね。鏡見て笑顔の練習でもするか。
さっさと食べ終わって新聞を読み出した大河さんを尻目に、何故かノルマだと課せられた三袋目のサンドイッチを何とかお腹に収めてテーブルの上を片付ける。
「大河さん、掃除機は何処にありますか?」
「掃除は必要ない。書斎にルンダがある。」
ルンダだと? あのロボット掃除機の? 何て便利な!
興味が湧いた私は、実際に見てみたいとお願いした。大河さんが呆れつつも案内してくれた書斎の隅っこに、黒くて丸いのが置かれている。大河さんが真ん中のスイッチを押すと、勝手に掃除を始めてくれた。
「毎朝十時になったら掃除するよう設定している。その時間帯は家中の全てのドアを開けて、床の物とか、電化製品の配線とかが邪魔にならないよう注意してくれ。」
「分かりました。」
私は面白くなってきて、書斎を動き回り、何度か壁にぶつかりながらリビングに出て行くルンダの後を付いて行く。
良いなー便利だなー。テーブルや椅子の脚に当たる度に方向を変えたりする様子も可愛い。ついこの間まで、私はあのだだっ広い家を一人で掃除していたんだぞ。こんな相棒が欲しかったよ。
「よし、じゃあ行くか。」
新聞を読み終わり、黒のジャケットを羽織った大河さんに連れられて、私達はマンションの地下駐車場へと向かった。
あれ? でも行くって何処へ?