70.心が折れそうです
後ろから聞こえる大樹さん達の制止の声を振り切ろうと、信号が変わりかけの横断歩道を駆け抜け、商店街の人混みの間をすり抜け、細い路地の角を曲がる。もう随分前に声は聞こえなくなっていたが、それでも私は闇雲に走り続けた。終いには何処をどう走ったのかも分からなくなり、走り疲れて遂に息が切れた時には、私は見知らぬ駅前の広場に居た。
近くにあったベンチに腰掛け、目元と頬を手で拭いながら息を整える。駅前は人通りが多く、沢山の人達が、目の前を通り過ぎて行った。仲の良さそうな親子連れ、会話が盛り上がっている中高生のグループ、手を繋いで微笑み合うカップル。
ああ、どれもこれも、私には縁の無いものだ、と疲れ切った頭でぼんやりと思う。
私の唯一の家族だった母は、とうに他界してしまった。父を名乗って私を引き取った男は、何の為にそうしたのか分からないくらい私に関心がなく、終いには私をお金と引き換えた。あの二人は言わずもがな、家族だなどと思った事なんてない。
友達だと思っていた人達も、私の一方通行な思い込みだった。元々天宮会長のあの後継者発言が無ければ、お近付きになる筈もない人達だったんだ。私は何を思い上がっていたんだろう。これじゃ『詐欺に遭う』と忠告してくれていた大河さんに反論出来ない。
恋人なんて論外だ。こんな私を想ってくれる人なんて、この先現れるとも思えない。
きっとこれから先もずっと、私は一人なのだろう。どうしてかな? あの家を出たら、普通の人間に戻れると思っていたのに、私は今も孤独のままだ。
思い出したくもない事が、次々と思い出される。
あの家に引き取られてすぐ、あの二人の暴力に耐えかねた私は、転校したばかりの小学校の担任の先生に、思い切って虐待の事を打ち明けた。震える手で袖をまくり、見せたくもない痣を見せたのに。
『……舞衣ちゃんがそんな事をするなんて、信じられないわ。それ、貴女が自分で付けたんじゃないの?』
思わぬ言葉に、目の前が真っ暗になった。
当時から外面だけは良かった異母姉は、先生達からの評判も上々だった。六年近く見てきた可愛い教え子と、転校してきたばかりの陰気な子供のどちらを信じるかと言われれば、大抵の人は前者を選ぶだろう。おまけに異母姉が取り巻きを使って、愛人の子である私が、正妻の子である異母姉を妬んでいる、という噂を流していたせいで、私は誰にも信じてもらえなかった。
そしてその日、家に帰った私を待っていたのは、いつもよりも激しい暴力だった。
『今回の事で分かったでしょ!? あんたの言う事なんか、誰も信じないわよ!! 今度私達に逆らうような事をすれば、たとえあんたが何処に逃げても、草の根を分けてでも探し出して、息の根を止めてやるからね!!』
二人に逆らったり、逃げたりしたらどうなるか、この時、私は徹底的に叩き込まれた。
そして、長時間の執拗な暴力から漸く解放された私は、自分で自分の手当てをしながら、この先ずっと、一人で戦う事を決意した。
どれだけ時間がかかっても、どれだけ惨めな思いをしても、何時か必ずこの家を出て、幸せになってみせる。
その思いだけを胸に、ひたすらあの地獄の日々を耐えてきた、と言っても過言ではない。
だけど、あの家から漸く解放されても、私は孤独のままだ。家族はいない。ずっと一人だったから、友達もまともに作れない。恋人なんて夢のまた夢。私が憧れる、普通の幸せなんて、どれだけ手を伸ばしても、ちっとも届く気がしない。
今は何もかもが虚しく、どうでも良く思えてくる。
私、何の為に生きているんだろう。これから先、生きていて良かったって思える事、あるのかな?
そんな思いに囚われて、私は放心状態で項垂れたまま、ベンチに凭れ掛かっていた。どれくらいの時間が経ったのだろうか。誰かに呼び掛けられた気がして、私はのろのろと顔を上げた。
「ねー、君一人? 俺達と遊ばない?」
「あれ? もしかして泣いてた? 俺らが嫌な事忘れさせてあげるよ!」
「俺達と楽しい事しよーぜ!」
髪を派手な色に染め、体中のあちこちにジャラジャラとアクセサリーを付け、お酒の匂いを漂わせて、にやにやと笑う三人組の男達。
この人達、誰? 何で私に声を掛けて来たんだろう。私があまりにも惨めで滑稽に見えて、面白がっているんだろうか。
返事も出来ず、男の人達をただ見上げていると、一人が私の腕を掴んで、強引に立たせてきた。
「行こーぜ! 嫌な事なんて、パーッと派手に遊べばすぐ忘れるって!」
ちょ、私、まだ行くとか何も言っていないんだけど。
だけど男の人の力には敵わず、私は簡単に引き摺られていく。元々こちらには、まともに抵抗する気力すらない。
……ああ、それも良いかな。こんな私に声を掛けて来てくれたんだから。今はもう、何も考えたくない。本当にこんな惨めで虚しい思いを、たとえ一時でも忘れられるなら、このまま付いて行ってみようかな……。
そんな考えが頭を過った時だった。
「冴香ちゃん!!」
聞き覚えのない声に呼び止められて、私は後ろを振り向いた。知らない女の人が、息せき切ってこちらに駆け寄って来る。女の人は私達に追い付くと、私と男の人達の間に割って入り、私の両肩に手を掛けた。
「冴香ちゃん、大丈夫!? この人達に何かされてないよね!?」
私は戸惑いながら、黒髪をポニーテールに束ねた女の人を見上げた。肩で息をしている女の人は、背も高くてスタイルも良い、かなりの美人さんだ。だけどやっぱり見覚えがない。
この人は誰? 何故私の名前を知っているんだろう?
「おい! 何なんだよお前!」
「変な言い掛かり付けてくんじゃねーよ!」
男の人達の怒鳴り声に、美人さんは振り向き、私を背に庇って三人組と相対した。
「勘違いしていたのならごめんなさい。この子、私の知り合いなの。悪いけど連れて帰るわね。」
そう言うと私の手を握って、元来た方へ戻ろうとする美人さん。だけどその先に、男の人達が立ち塞がった。
「へえ、良く見たらお姉さん美人じゃん。その子と一緒に、俺達と遊ぼうぜ?」
「遊ばないわ。それに今、急いでいるの。そこをどいて。」
「んだと? 喧嘩売ってきたのはそっちだろーが! 折角楽しい思いが出来そうだってのに、このまま大人しく引き下がる訳がねえっつの!」
男の一人が乱暴に美人さんの腕を掴む。すると、美人さんはやれやれと言いたげに溜息を吐き出した。
「警告するわ。痛い目を見たくなかったら、その手を離しなさい。」
「ああ? 上等だコラ! やれるもんならやってみろ!」
その言葉が終わらないうちに、美人さんは腕を掴んでいる男の手を取るが早いか綺麗に投げ飛ばした。
な、投げ飛ばした!?
背も高くて体格も良い大の男の人が、細身の女の人に投げ飛ばされ、背中から地面に叩き付けられて呻いている光景が信じられなくて、私は唖然として、投げ飛ばされた男の人と美人さんを交互に見つめていた。
「なっ……! やりやがったなこのアマ!」
二人目の男が美人さんに殴り掛かる。美人さんは男の右ストレートを、手でいなしながら避けると、男の鳩尾に膝蹴りを食らわせた。男はお腹を押さえて、膝から地面に崩れ落ちる。
「てめえ!!」
掴み掛かってきた三人目の男も、美人さんは腕を取ると、男の背中に回して捻り上げてしまった。
「いでででで!!」
「もう一度言うわ。私急いでいるの。これに懲りたら、もう絡んで来ないでね。」
美人さんは男を解放すると、改めて私の手を取った。
「さあ、冴香ちゃん行きましょ。」
私は美人さんに手を引かれてその場を後にする。
畜生、話が違うじゃねーか! と叫ぶ男達の声を後ろに聞きつつ、早足で歩く美人さんの背中を小走りで追い掛けながらも、私はまだ事態が飲み込めずに混乱を極めていた。




