46.貴方を傷付けるくらいなら
コンコン、と背後のドアをノックされ、私は慌てて涙を拭った。
「冴香、話がある。そのままで良いから聞いてくれ。」
ドア越しの大河さんの声に、私は体育座りのまま耳を澄ます。
「俺は後継者の座になんて興味はない。確かにガキの頃から、俺が跡取りと見なされて、色々厳しく叩き込まれてきたのは事実だ。けどそれは祖父さん達が勝手に決めた事で、俺は正直、跡継ぎになろうがなるまいが、そんな事はどうだって良いんだよ。天宮財閥は誰が後を継ごうが、優秀な人材が揃っているから、俺である必要はないと思っているしな。」
大河さんの言葉に、私は息を呑んだ。
大河さんは、本当に後継者の座には何の拘りもないのだろうか。だけど、思い起こしてみれば、確かに、会長のあの宣言の後も、大河さんは冷静で、ご自分の今後の事よりも、私の方を心配して、私の気持ちを尊重してくれていた。
「だから、俺はお前に媚びを売るつもりも、その必要もねえんだよ。それだけは分かって、信じて欲しい。俺は、お前が心配なんだよ……っ! お前、何か悩んでいても、いつも一人で解決しようとするだろ? 誰にも話さないで、全部一人で溜め込んで。そんなんじゃ何時か潰れちまうぞ! お前はもうあの家から解放されたんだ。もう一人じゃねえんだよ! 今一番近くにいる俺にくらい、いい加減心を開いて、何でも良いから話してみろよ!!」
大河さんの真剣な声が、スッと心の中に入って来て、私の目からは再び涙が零れ落ちた。
大河さんは、本当に優しい。こんな性格の歪んでしまった、醜い私にまで、親身になって心配してくれている。私は、こんなに優しい人を、傷付けようとしていたんだ。自分が傷付くのが怖いばかりに、大河さんを傷付けて遠ざけようとしてしまったんだ。恩を仇で返すとはこの事だ。私は大恩ある大河さんに、何て酷い事をしてしまったんだろう。
自分の不甲斐なさに、涙が次々に溢れてきて止まらない。私は泣きじゃくりながら立ち上がって、部屋のドアを開けた。大河さんは、すぐ目の前に立っていた。
「大河、さん。さっきは、本当に、すみません、でした。」
しゃっくりのせいで途切れ途切れになりながらも、心を込めて一生懸命に大河さんに謝る。頭上で大河さんが笑ったような気配がして、見上げようとしたら、ぎゅっと力強く抱き締められた。
「気にしてねーよ。急に結婚だの後継者だの、勝手に決められて、お前も混乱しているよな。無理もねえよ。でも言ったろ? 俺も力になるって。困った時や、何かあった時は、絶対に一人で抱え込むな。遠慮なく俺を頼れよ。」
大河さんは腕の力を緩め、膝を折って私と目線を合わせた。私の両頬に添えられた大河さんの両手が、溢れる涙を拭ってくれる。
「良いな? 冴香。」
優しく微笑む大河さんに、私の心臓が大きな音を立てた。まともに声も出せず、やっとの思いで頷いた私は、膝から崩れ落ち、両手で顔を覆って泣き続ける。大河さんは、私を優しく抱き締めてくれて、ゆっくりと宥めるように背中を撫でてくれた。
大河さんは、優しい。こんな私にも、手を差し伸べてくれる。私のせいで嫌な思いをさせてしまっても、変わらずにこうして抱き締めてくれる。そんな優しい人を、これ以上傷付けるなんて出来ない。
私は大河さんの胸に、声を上げながら縋り付いた。大河さんはさっきよりも腕の力を強め、後頭部を撫でてくれた。
大河さん、本当にすみませんでした。もう貴方を傷付けて、距離を取ったりなんかしません。貴方を傷付けるくらいなら、私が傷付いた方が良い。貴方にどれだけ傷付けられようとも、どんな結末になろうとも構わない。
先程の事を思い出して、私は心の中で謝った。
谷岡さん、わざわざ来てくれたのに、折角忠告してくれたのに、無駄にしてしまってすみません。大河さんに恋愛感情は抱かないと言っておきながら、すぐに手の平を返してしまってすみません。貴方の忠告を無視した私は、きっと何時か大河さんに、酷く傷付けられるという罰を受けるでしょう。でも、もう誤魔化せないんです。閉じ込めても閉じ込めても、どうしようもなく気持ちが溢れてくるんです。
私は、大河さんが……好き。たとえこの想いが、絶対に報われる事など無いと分かり切っていても。




