4.引っ越ししました
大河さんの家は、オートロック付きの高級マンションの最上階の東側の角部屋だった。私を迎えに来てくれた、天宮家専属の運転手だという本城さんに案内され、当の本人が仕事で家にいないのに本当に良いのかな、と気後れしながらも、家の中に足を踏み入れる。
北側の玄関から入ると、すぐ右手に洗面所と浴室とトイレがあった。廊下を左側に抜けた先の広々としたリビングダイニングキッチンには、日当りの良い南側に大きなテレビと高そうなソファー。東側と南側に面した大きなガラス戸と窓からは、バルコニー越しに薄灰色の曇り空が見える。きっと晴れた日には綺麗な青空が見えるに違いない。
北側には立派なダイニングテーブルがあり、その奥には綺麗な対面式のシステムキッチンが備わっていた。最奥にある東側の二部屋は、大河さんの寝室と書斎らしく、南西側にあるバルコニーに面した一部屋を好きに使って良いと言われた。
「それにしても、荷物が少ないのですね。もっと多くて大変になるかと思っていました。」
優しそうに笑う五十代くらいの本城さんが、私の荷物を部屋に運び入れてくれた。本城さんに指摘された通り、私の荷物は少ない。着替えが数着程度と必要最低限の日用品だけだから、鞄一つに収まった。引っ越しと言うよりも、二泊三日程度の旅行に行くくらいの身軽さだ。
ベッドやクローゼット等の家具が調えられていた私の部屋に、鞄一つを入れてもらって、私の引っ越しは終了。マンション周辺の簡単な説明をしてくれた本城さんは、部屋の合鍵を渡して帰って行った。
少しばかりの荷物を片付け終え、リビングにあった掛け時計を見上げると、時刻は昼前になっていた。大河さんが仕事から帰って来るまで、まだ相当な時間がある。
ぐうぅぅ、というお腹の音に、私は溜息をついた。異母姉と継母のせいで朝食に有り付けなかったので、もうお腹がペコペコ、そして全力疾走もしたので喉もカラカラだ。だが先程本城さんが紹介してくれた、近所にあるコーヒーが美味しいお勧めのカフェとやらはおろか、外食と言う選択肢は私にはない。何故なら一円も持っていないからだ。
え? 小遣い? そんなのあの二人がくれる訳が無い。
仕方なく私はシステムキッチンへと足を向けた。いくら婚約者になった間柄であり、本城さんからも許可を得ているとは言え、まだ一度も会った事のない人の家の冷蔵庫を勝手に漁るのは流石に気が引ける。水道水だけでも大量に飲めば少しはお腹も誤魔化せるかな、と思いながら食器棚の前を通った時、あまりにも酷い違和感に、思わず食器棚を二度見して目を剥いた。
「……何これ。」
そう呟いたきり、私は絶句してしまった。立派な食器棚の中には、食器が殆ど入っていなかったのだ。高そうなガラスのコップやワイングラス等が数個あるだけで、お皿やお茶碗が見当たらない。いくら大河さんが一人暮らしで食器を必要としないとしても、これは流石に酷過ぎないか?
ひょっとして、と思い至った私は、思わずキッチンを見渡した。
うん、綺麗だ。綺麗過ぎる。新品と言っても良いくらい、使われた形跡が無さ過ぎるし、何処かに片付けられているだけなのかも知れないが、炊飯器等の家電製品も見当たらない。
そう言えば、と私はお見合いの席での天宮社長の言葉を思い出す。『生活力に乏しい愚息』と仰っていたのはこの事か、と漸く合点がいって頭を抱えた。多分大河さんは普段外食とかばかりで、自炊なんてしてないんだろうな。
……ああ、外食だけじゃなくて、毎日日替わりの美女とやらの手料理を食べに行っている可能性もあるんだっけか。
こんなに立派なキッチンなのに未使用だなんて勿体ない、と呆れ果てながら、私は水道水をたっぷりと飲ませてもらった。お腹がタポンタポンになると、少しばかりは空腹感もましになった気がする。
ああ、もうこれで良いや。
半ば自分に言い聞かせながら、私は重厚なソファーに身を横たえた。本城さんが教えてくれた、マンションの近くにあると言う公園や図書館が気になってはいたが、移動するだけで余計にお腹がすいてしまう。消費カロリーを抑えるには寝るのが一番だ、と大河さんが帰って来るまで休ませてもらう事に決めた。
日頃の睡眠不足が祟ったのか、それとも朝っぱらから全力疾走をさせられたのが効いたのか、私はすぐにうとうとし始め、真っ昼間、それもソファーという場所である事にもかかわらず、自分でも気付かぬうちに深い眠りへと落ちていった。