37.約束をしてもらいました
「では、話も纏まった事なので、食事にしようか。」
会長が部屋の隅に控えていた二階堂さんに声を掛けると、すぐに食事が運び込まれ、あっと言う間に支度が整えられてしまった。
あの、私はまだこの成り行きに、納得してはいないんですが!?
「では、冴香さんの歓迎と、天宮財閥の今後の発展を祈って、乾杯!」
会長の音頭で乾杯し、食事会が始まってしまった。完全に抗議のタイミングを逃してしまい、私は仕方なくお刺身の盛り合わせを口にする。
むう……。何かとんでもない事になってしまった。どうすれば良いんだろう。天宮財閥の後継者問題に巻き込まれるなど、想像もしていなかったから、打開策が全く思い浮かばない。取り敢えず、抗議するにしても、今日は多分もう無理だろうな。さっきの会長の様子だと、私の辞退も想定済みで、懐柔する方法も豊富に取り揃えていそうだ。会長に対抗するなら、こちらもしっかり戦術を練ってから挑まないと、返り討ちにされるだけだろう。
「冴香さん、食事は如何かな? お口には合わなかったかな?」
考え事をしていると、隣の席の会長に声を掛けられた。難しく見える顔でもしてしまっていたのだろうか。慌てて笑顔を取り繕う。
「あ、いえ、そんな事はありません。どれもとても美味しいです。」
「それは良かった。大河から、冴香さんには特に苦手な食べ物はないと聞いてはいたのだが、何か好きな食べ物などはあるのかな?」
それからは会長の質問攻めにあった。食べ物の好き嫌いに始まって、生活の充実度や近況報告。大河さんが良くしてくれているから大して困っている事はないと答えると、会長と社長夫妻……おっと社長さんは三人もいらしたんだった、紛らわしいな。会長と将大さん恵美さんご夫婦は、少し意外そうな顔をしながらも、にこにこしながら話を聞いていたが、アルバイトの事を話したら、何故かかなり驚かれていた。理由を訊かれて社会勉強だと答えたら、何処か腑に落ちないながらも、一応は理解してもらえた様子だったけど。
事の顛末のショックからまだ抜け出せていないのと、矢継ぎ早に繰り出される質問攻めのお蔭で、何を食べているのか正直良く分からないまま、食事会は終了してしまった。高そうなお食事だったのに、勿体ない事をしたな。
「冴香さん、今日は来てくれて本当にありがとう。また近いうちに是非、気軽に遊びに来て欲しい。それと、今後は他の孫達とも仲良くしてやってくれないか。そしてまた半年後くらいに、貴女の意見を聞かせてもらいたい。」
会長に声を掛けられ、今しかない、と私は奮い立った。座椅子から下り、きちんと会長の方を向いて正座をして畳に手を付ける。
「会長、一つお願いを聞いて頂けませんか?」
「お願い? 何でしょう、言ってください。」
「会長にこんな事を申し上げるのは、失礼だと重々承知の上ですが……、これからは、皆さんの意思を、きちんと尊重すると約束して頂けないでしょうか。」
怒声を浴びせられる事も覚悟しながら、私は丁寧に頭を下げた。
今日の一件では、会長に異論を唱える人はいなかったけれど、会長から無言の圧力を感じた事と言い、大河さんが会長を睨みながらも黙り込んでいた事と言い、皆さんがこの話を心の底から受け入れているとは考えにくい。だって私だったらやっぱり納得出来ないし。そもそも私自身がこの話を断りたいし。
今は無理でも、会長の圧力がない状態での皆さんの本音が知りたい。その本音が私と同じ人が多いのであれば、会長にもう一度掛け合ってみる。そしてその時は、圧力などかけずにきちんと意見を聞いてもらいたいのだ。
「私はいつも皆の意思を尊重しているつもりだが……まあ良いでしょう。お約束しますよ。」
生意気な小娘の失礼な物言いにもかかわらず、約束してくれた会長に胸を撫で下ろす。丁寧にお礼を言って、今日は一旦引き下がる事にした。
帰宅される貴大さん、理奈さんご一家を見送り、私達も帰ろうかと思っていたら、会長に呼び止められた。床の間には会長、和子さん、将大さん、恵美さん、大河さんと私と、最初と同じ顔ぶれが残る。
「冴香さんに一つお聞きしたいのだが……、冴香さんは、堀下家の人達に、復讐を望んでいるかな?」
一瞬、会長が何を言っているのか分からなかった。
復讐? 堀下家に? ……ああ、私への酷い扱いに対する報いを受けさせる、って事?
心を見透かそうとするような会長の視線を感じながら、私はゆっくりと口を開いた。
「……いいえ。確かにあの連中に受けた数々の仕打ちについては、今思い出しても腸が煮えくり返りますが、直に手を下す必要はないと思っています。」
私が答えると、会長は少し意外そうに目を丸くした。
「……と、言いますと?」
「父には経営者としての能力が不足しています。堀下工業の特徴は、幾つか特許も取れる程の、独自の技術に長けている事。大量生産型の製品では作る事が難しい、顧客の独自の要望に合わせた製品を作る事が出来、小ロットからの納品が可能な、言わばオーダーメイド型の企業です。ですがそれ故、他の大手企業と比べれば、コストと納期がかかると言った短所が生じます。父は短所を改善し、大手企業と同等の低価格、短期納品にする事で、注文を増やし、効率を上げて売り上げ増加を目論んでいますが、父のやり方では単純に利益が減り、従業員の負担が増えて、製品の質が落ちているのが現状です。画一化された製品では、他社商品との性能の違いを理解してもらう事も難しく、注文は減る一方で、業績も右肩下がり。遂には天宮財閥の資金援助に頼らねばならない事態にまで陥っており、このままでは倒産するのも時間の問題かと。」
「成程。わざわざ貴女が手を汚さずとも、向こうが勝手に自爆してくれるのを待てば良い、という事ですか。」
「その通りです。」
このまま放っておけば、いずれは多額の負債を抱えて、父の会社は倒産する。そうなれば父共々、継母も異母姉も困窮する事になるのは目に見えている。婚約のお蔭で家を出る事が出来た私は、金輪際堀下家とは関わらず、完全に他人の立場で高みの見物をさせてもらうつもりだ。我ながらこれだけでも十分性格が悪いと思っているんだけど。
「貴女が望むなら、復讐に手を貸し、適当な理由をでっち上げて援助金の回収を急ぎ、倒産に追い込もうかと思っていましたが、必要ないみたいですね。でももし気が変わったのなら言ってください。何時でも手をお貸ししますよ。」
にこにこと笑顔を浮かべながら、物騒な事を口にする会長の目が据わっていて怖い。やっぱり天宮財閥にかかれば、堀下工業のような中小企業を倒産に追い込む事など、赤子の手を捻るよりも容易い事なのだろう。
「いえ、わざわざお手を煩わせる程の事ではありませんので。強いて言うならば、堀下工業の倒産後、従業員達の再就職先を、天宮財閥で斡旋して頂けないでしょうか。彼らの中には年齢的に再就職が難しそうな者もいますが、持っている技術は一流です。職場が変わっても、きっとお役に立てると思うのですが。」
「良いでしょう。我々としても、堀下工業の技術力をむざむざ失うのは惜しいですからね。彼らの希望に耳を傾けながら、傘下の子会社や下請けの協力会社に口を利くくらい、お安い御用ですよ。」
会長が快く引き受けてくれて、私は胸を撫で下ろした。
父の会社が倒産すると簡単に予測が出来る中、私は何の手出しもするつもりはないが、巻き添えを食らう従業員の方々を見殺しにする事だけは気が咎めていたのだ。これで何の憂いもなく、高みの見物と洒落込める。
「……ところで、私からも冴香さんに質問があるのだけれど、良いかしら?」
突然口を挟んできたのは、大河さんのお母様の恵美さんだ。将大さんに紹介して頂いた時にご挨拶をしてから、ずっとお話しする機会がなかったのだが、改まって一体何だろう。
「先程、冴香さんの首筋に、ちらりと赤い痣が出来ているのが見えたんだけど……、まさかうちの馬鹿息子に付けられた、なんて事はないわよね?」
恵美さんの質問に、思わず顔が引き攣った。
うわ、気付かれてた。昨夜大河さんに吸われた所が赤くなっている事に今朝気付いて、わざわざ襟のある服を選んで隠せたと思っていたのに。
恵美さんは笑顔なのに、背後にどす黒い怒りのオーラが見えるようで怖い。しかも恵美さんの言葉を受けて、一斉に大河さんに視線が集中した。
「大河ァ!! まさか貴様、冴香さんに手を出したんじゃないだろうな!?」
「冴香さんの事は大事にしろと言っただろう!! ここまで節操がないとは思わなかったぞ、この馬鹿息子が!!」
会長と将大さんがいきなり大河さんに掴みかかる。
「違います! これは虫に刺されたんです。今は治まっているんですけど、朝方痒かったんですよ。」
お二人の勢いに驚きながらも慌てて弁明すると、皆様に疑惑の視線を向けられた。
「虫刺され……? 本当に?」
「虫刺されです。」
訝しげに尋ねてくる恵美さんに、得意の無表情で堂々と言い切る。それが功を奏したのか、会長と将大さんは、渋々と言った様子で大河さんから手を離した。
ええ、酔っ払いに付けられたキスマークなど、虫刺され同然ですが、何か。




