31.酔った俺とムカつくあいつ
大河視点です。
「大河、冴香ちゃんとは、あれから上手くいっているのか?」
週末、営業部の飲み会で、隣に座った敬吾に小声で尋ねられ、俺は思わず飲みかけのビールを噴き出しそうになってしまった。
「な……何だよ急に。また祖父さん達にチクる気かよ。」
「いや、今回は純粋にお前の心配。だってほら、明日お前、会長に呼ばれているんだろ?」
「嫌な事思い出させんなよ……。」
俺は盛大に溜息をついた。
そう、明日の土曜日、俺と冴香は、一週間程前に無事退院した祖父さんの家に行く事になっている。何時だって手厳しい頑固祖父さんに会いに行くだけでも気が重いってのに、冴香の紹介があるからと、親族が集まるとなれば尚更だ。子供の頃から、皆から天宮財閥の跡取りとして品定めされ、あーだこーだと口煩く小言を言われ、ストレス発生源となっていた、嫌な記憶しかないのだから。
「この前の様子じゃ心配ないだろうとは思うけど、あまり上手くいっていないのなら、またどうなる事か分かったもんじゃないからな。……で、その後どうなんだ?」
純粋にお前の心配、とか言っておきながら、何処かニヤついている敬吾にイラッとする。
「別に。どうもしてねーよ。」
そう答えて、俺はグラスの中の残りのビールを一気に飲み干した。
そう、あれから……敬吾と冴香を会わせてから、進展など特に何も無い。強いて言えば、あいつが俺の前で一度泣いたくらいだ。漸く俺に気を許したのかと、少しは嬉しく思ったものだが、だからと言って、その後距離が縮まったかと言われれば、左程変わっていないように思う。アルバイトを始めた冴香が、少しずつ表情が豊かになってきている事くらいしか変化が無い。
この前お祭りに行った時だって、二人で手を繋いで、夕飯を分け合って食べて、とデートっぽい事をしたものの、あいつの態度はいつもとそれ程変わらなかった。肩を抱いても反応が鈍く、逆ナンしてきた女達が居たので、妬いたか、と訊いてみても、何を言っているんだ、とでも言いたげな視線を送られただけ。実際に言葉にされたくなくて、慌てて自分の方から話題を変える始末だ。屋台で何も遊びたがらなかった割には、楽しかった、と言っていたから良かったけれど。
口喧嘩はしょっちゅうあるものの、本気の喧嘩やいがみ合い等はない。かと言って、より親しくなれた訳でもない。だがこうも無反応でいられると、何故だかあまり良い気はしない。少しくらいは俺の事を意識させてやりたいものだ、等と酔った頭で考える。
「天宮係長、ビールお注ぎします~。」
何時の間にかビール瓶を持った女が、媚びた動作で擦り寄って来ていた。面倒だと思いながらも、ああどうも、と愛想笑いをして酌をしてもらう。
ええと、こいつ誰だっけ……ああ、最近入った営業補佐の奴か。
「天宮係長、そう言えば、この前忘れ物を届けに来ていた女の子とは、どういう関係なんですか?」
「あ、それ、私も訊きたいです!」
斜め前に座る女の質問に、わらわらと女性社員達が群がって来た。
「別に、特にどうと言う関係ではないけど?」
鬱陶しいので、営業スマイルを作って答えてやると、何処をどう勘違いしたのか、真顔だった女達は、一斉に表情を明るくした。
フン。あいつとの関係を、お前らに言う筋合いなんてねーよ。
「そうなんですかー! ですよね!」
「ちょっと安心しちゃったー! あ、天宮係長、この後、勿論二次会行きますよね!?」
営業補佐の女の問いに、俺は少し考えた。いつもなら二次会、三次会に参加している所だが、今日はそんな気にはなれなかった。どうしたって明日の事が頭をちらついてしまうので、楽しめるとは思えない。それくらいなら、さっさと帰って明日に備えた方がましだ。それに。
脳裏にふと冴香の顔が過ぎっただけで、早く帰りたくなってしまった。
……ほら、帰宅が遅くなって、寝ている所を起こしてしまったら悪いからな!
「いや、今日は止めとくよ。明日用事があるからね。」
笑顔を張り付けて俺がそう答えると、女性陣から、ええ~! つまんな~い! と耳障りな声が上がった。
知るか。こっちは明日の事を思い出したせいで、今から気が滅入っているんだっつーの。
暫くして飲み会は終了し、二次会に行く連中と別れて電車で家に帰る。飲み会で遅くなるからと、冴香には先に寝るように伝えていた。今日は流石に真っ暗か、と思いながら玄関扉を開けると、予想に反して電気が点いていて、俺は目を見張った。
「大河さん、お帰りなさい。」
パジャマ姿の上にカーディガンを羽織った冴香が出迎えに来てくれた。思わず表情が緩みそうになり、慌てて顔を引き締める。
お前な、こんな遅くまで起きてんじゃねーよ。湯冷めして風邪引くだろうが。
「お前まだ起きていたのかよ。先に寝てろって言っただろ。」
「大河さんが酔い潰れて帰られた場合は、起きていた方が何かと良いのではないかと思ったので。終電の時間を過ぎても帰られなかった場合は、ちゃんと先に休ませて頂くつもりでいましたよ。」
口を尖らせる俺に、けろりと答える冴香。
酔い潰れるとか、終電を逃すとか、こいつの脳内では俺はどれだけ情けない酔っ払いと化しているんだよ。
ムッとしたが、酔っているせいだろうか。何処から突っ込めば良いのか分からない。
「俺は酒に強いから潰れねーし。仮に潰れたとしても、お前が起きていたからって、俺を一人でベッドに運べる訳でもないだろ。それに朝帰りすると思われているとか心外だ。」
「いくらお酒に強いとは言っても、万一の事もありますし。もし仮に大河さんが潰れられた場合は、敬吾さんや他の方が大河さんを送って来てくださるのでは? その方と一緒に大河さんをベッドに運べば良い訳ですし、その方へのお礼や玄関の戸締りくらいなら出来ます。それに、大河さんはモテるでしょうから、何処かの美女と一緒にお泊りされる事もあるんじゃないんですか?」
何処かの美女と一緒にお泊り、と、まるで世間話でもするかのように、平然とした様子で口にした冴香に、俺はその場で固まり、手にしていた鞄を取り落とした。
確かに、今まではそういう事もしてきたさ。だけど今は断じて違う!! それに、お前には、お前にだけは、そんな事を言われたくなかった!!
「……俺が美女とお泊り、だって?」
自ずと声が低くなる。身体が勝手に動いて冴香を壁際に追い詰め、壁に手を突いて閉じ込めた。
「俺が名ばかりとは言え、お前と言う婚約者がいる身でありながら、平気で他の女と寝るような奴だって思ってんのか!?」
「……違うんですか?」
冴香にあっさりと返され、俺は怒りの感情と共に言葉を失った。
「私、最初に言いましたよね? 最低限の衣食住さえ保障して頂ければ、後は貴方が今まで通り、誰と何処で何をしていようと、私は一切関知しませんから、と。」
無表情で俺の目を見てはっきりと告げた冴香。あの時と一言一句違わぬ、同じ台詞なのに、今度はその言葉は鋭い刃となって、大きく俺の胸を抉った。
何だよ、それ……。お前にとっては、今でも俺は、赤の他人でしかないってのか?
身体から力が抜けていく。冴香の顔のすぐ横の壁に突いていた手が、だらしなく垂れ下がった。
「大河さん……?」
冴香が心配そうに俺の顔を覗き込む。
おい、止めろよ。お前にとって俺は、赤の他人でしかないんだろ? そんなに不安げに目を潤ませて、上目遣いで俺を見るんじゃねーよ!! クソ!!
堰を切って溢れ出したどす黒い感情のままに、冴香を乱暴に引き寄せて掻き抱いた。そのまま冴香の首筋に顔を埋め、白くて甘い肌に吸い付く。風呂上がりだからか、冴香からは石鹸の良い香りがして、ますます凶暴な衝動が昂っていく。
こいつを滅茶苦茶にしてやりたい。その細い身体中に俺を刻み込んで、俺の事しか考えられないようにさせて、そして……。
「大河さん!?」
冴香が上げた悲鳴に近い驚きの声に、俺は我に返り、慌てて冴香を解放した。
今、俺は何をしていた? 何をしようとした?
自分の取った行動が信じられなくて、愕然としたまま声を絞り出す。
「あ……悪い……。やっぱ酔っているみたいだ。風呂入って寝るから、お前も早く寝ろ。」
冴香に背を向け、落としたままだった鞄を拾い上げる。
「あ、はい……。お休みなさい。」
冴香がリビングに戻る気配がして、俺は廊下に立ち尽くしたまま、大きく溜息をついて手で顔を覆った。
何やってんだ、俺!? あのままだったら、間違いなく冴香を襲っていたぞ!?
激しい後悔の念に駆られ、自己嫌悪に陥っていると、カチャ、とリビングへと続く扉が開く音がした。振り返ると、冴香がひょっこりと顔だけ出してこちらの様子を窺っている。
「……大河さん、お風呂に入るのは良いですけど、湯船で眠り込んで溺死しないでくださいね。」
「なっ……するかァ!!」
夜遅い事も忘れ、思わず全力で怒鳴り付けてしまうと、冴香は即座に顔を引っ込めた。
な……何なんだ一体! 人が真剣に落ち込んでいる時に重度の酔っ払い扱いしやがって!! いや確かに酔っているとは言ったのは俺だが……それはさておき! お前に振り回されているこっちの身にもなれってんだ! くそ、マジであいつムカつく!!




