27.アルバイトを始めました
「大河さん、今日はお弁当要らない日でしたよね?」
翌朝、私は出勤する大河さんの後ろに付いて、玄関に向かいながら尋ねた。
「ああ。今日の昼頃は出先になるから、外食にする。その分、夕飯は期待しているぞ。」
「分かりました。何かリクエストはありますか?」
「いや、特にない。お前に任せる。」
会話している最中に靴を履き終わった大河さんは、鞄を持ってドアノブに手を掛ける。
「あ、大河さん、スマホは持ちましたよね?」
「ああ、今日はちゃんと持ってる。」
「ご自分のスマホもですか?」
「持ってるよ。」
「車の鍵は?」
「持ってるっての。」
「お財布、ハンカチ、ティッシュ……。」
「お前は俺のお袋か! 大丈夫だ! 行って来る!」
「お気を付けてー。」
大河さんはバタン! とドアを閉めて出て行ってしまった。
うん、忘れ物が無ければ良いのだよ、私としては。たとえウザいと思われようが、これからは毎朝、家を出られる前に忘れ物チェックをしてやるつもりだ。
さて、今日からは家事を終えたらアルバイト先を探さなくちゃ。忙しくなるぞ!
そして数日後、私は無事にアルバイト先を決める事が出来た。買い物に出かける途中で、先日本城さんが紹介してくれた、コーヒーが美味しいお勧めのカフェの前を通りかかった時に、アルバイト急募のチラシが貼ってあるのを見付けて即刻応募したのだ。
ジュエルと言うそのカフェは、木製のテーブルや椅子、照明を抑えた店内が少しレトロな雰囲気を醸し出している、テーブル席とカウンター席合わせて全二十席の左程広くないお店だが、コーヒーの味と店内の雰囲気、そしてマスターの人柄の良さで、知る人ぞ知る、隠れた人気店らしい。五十代くらいのご夫婦とその娘さんのご家族で経営されているのだが、先日娘さんが体調を崩して病院に行った際に妊娠が発覚、切迫流産の可能性がある為安静にしなければいけないとの事で、急遽人手が足りなくなってしまったそうだ。明日、いや今からでも働ける、と言えば即採用してもらえた。まさか本当にその場でエプロンを渡されて、カップやお皿を洗う羽目になるとは思っていなかったけど。
「いやあ、冴香ちゃんが来てくれて本当に助かったよ!」
心底ほっとしたように笑いながらそう言ってくれたのは、この店のご主人、高良雄一さんだ。ご自分の灰色の頭頂部の寂しさや恰幅の良さを逆手に取って、常連客の笑いを引き出す、明るくて面白い方だ。カウンターの中でコーヒーを淹れながら、常連客とウィットに富んだ会話を繰り広げられるものだから、カウンターの奥のキッチンに居る私にも丸聞こえで、仕事中だと言うのに、何度吹き出しそうになったか分からない。
「今日は本当にごめんなさいね。今から手伝ってって言われて、驚いたでしょう。」
優しく声を掛けてくれたのは、雄一さんの奥さんの高良翠さん。すらりとした体躯の持ち主で、おっとりしていて品が良く、それで居て何処か可愛らしさを持ち合わせた方だ。客席から洗い物を持って来てくださる度に、疲れていないか、と優しく気遣ってくださって、その都度私は癒された。
「今日はもうお客様もあまり来ないだろうから、上がってもらって大丈夫よ。こんな所だけど、明日からもどうぞ宜しくね。」
「こちらこそ、これから宜しくお願いします。では今日はお先に失礼します。」
エプロンを返却してお店を出る。お店は九時から七時までで、定休日は水曜日。私の勤務時間はお店が忙しくなる時間帯の十一時から六時までで、休憩は一時間。これなら朝はゆっくり家事が出来るし、帰りにスーパーで買い物をして、急いで夕飯の支度をすれば家政婦業にも差し支えない。今日は急だったから出来なかったけど、朝のうちに夕飯の下準備をしておけば完璧だ。良いバイト先が見付かったと、自転車を漕ぐ足取りも軽くなる。
帰って来た大河さんと一緒に夕食を摂りながら、アルバイト先が決まった事を報告した。
「へえ、あのカフェ、今そんな事になっているのか。」
鰹のたたきを食べながら、大河さんは興味深い様子で聞いてくれた。
「大河さん、ジュエルの事ご存じだったんですか?」
「ああ。あのカフェを本城に紹介したのは俺だからな。俺も休みの日には、時々昼飯食いに行っていたし。」
へえ、そうだったんだ。でも考えてみれば、大河さんの家のご近所なんだし、大河さんは自炊しないから、周辺の飲食店には詳しい筈。知っていて当然と言えば当然か。
「ジュエルなら、客の大半は近所に住んでいる家族連れや年配の常連客ばかりだし、妙な客は滅多に現れないだろうから安心だな。あそこのマスター、面白いだろ。」
大河さんは思い出したように頬を緩めた。
「はい。とても明るくて面白い方ですね。お客さんも良い人ばかりだし、働きやすい雰囲気でした。」
「そうだろうな。でもお前、接客は大丈夫なのか? ずっとそんな無表情だったら、愛想が悪いって思われかねないぞ。」
心配してくれているのか、不安げに眉を顰める大河さん。
多分、接客については大丈夫だと思っている。ずっと継母と異母姉にメイドのように給仕をさせられていた経験が役に立ちそうだし。だけど問題は、そう、表情なんだよね。
「そこだけが心配なんですよね。接客自体は問題ないと思うんですけど、ずっと笑顔を作っていられるかどうかだけは自信がなくて。今日は途中からのお手伝いでしたし、洗い物がメインでしたけど、少しだけ接客をさせてもらえて、頑張って笑顔を作っていたら、慣れない事をした所為か、今頬が引き攣っていて筋肉痛みたいになってしまっているんですよ。明日からはフルタイムになりますし、接客の機会も増えると思いますので、ちゃんと終始笑顔でいられるか、今からちょっと不安です。」
「笑顔で筋肉痛になるって聞いた事ねえぞ……。」
大河さんに呆れたように呟かれたけれど、なっているものはなっているんだ。仕方ないじゃないか。
取り敢えず、明日からの仕事に備えて、今晩はいつも以上にマッサージしておこうっと。




