21.空気を読んでくださいよ
大河さんとの電話の後、すぐに家を出た私だったが、如何せん初めての慣れない道。大河さんがスマホに送ってくれた地図を見ながら歩いていたが、一向に目標物になりそうな物が見えて来ない。嫌な予感がして一度立ち止まり、地図と周囲をよくよく見比べた結果、地下鉄の出口を間違えてしまったと言う結論に達した。背筋に冷たい汗が流れる。
ヤバい、間に合うかな!? と、急いで駅に引き返して正規の道を辿る。時間には余裕があった筈なのに、結局会社に着いたのは九時半前と、かなりギリギリになってしまった。焦ったけど、何とか間に合って本当に良かった。
会社の前で息を整え、見上げると首が痛くなりそうな立派な高層ビルの中に入る。広くて綺麗なフロアや、スーツや制服でビシッと決め、きびきびとした動作で働いている人達、そこに漂う緊張感のようなものに圧倒された。場違い感を覚えつつも、この場に恥じないちゃんとした服を買ってくれた大河さんに内心で感謝する。周りをきょろきょろと見回しながら、いらっしゃいませ、と明るく声をかけてきてくれた受付のお姉さんの方へと歩み寄った。
「おはようございます。恐れ入りますが、どのようなご用件でしょうか?」
にこりと品の良い笑顔を浮かべ、丁寧に応対してくれるお姉さんに、少し緊張が和らいだ。谷岡、と書かれたネームプレートを付け、胸までの茶髪の先を綺麗にまいた、少し濃い目のメイクが似合う美人さんだ。スタイルも良くて羨ましい。
「あの、営業部の天宮大河さんに、忘れ物を届けに伺ったのですが。」
そう言った瞬間、場の空気が凍ったように感じた。
え? 何? 何が起こったの?
谷岡さんは相変わらず柔和な笑顔を浮かべているのに、先程までとは雰囲気が一変している。あんた誰? 大河さんとどういう関係なの? と目が雄弁に物語っている気がして怖い。谷岡さんの隣のお姉さんからの探るような視線もぞっとしないんですが。誰か気のせいだと言ってくれませんかね?
これはあれかな? やっぱり、大河さんは会社でも凄く人気があって、大河さんに好意を寄せているお姉様方に目を付けられてしまったって所じゃないだろうか? さっきとは違う意味で背筋に冷たい汗が流れる。
「わざわざありがとうございます。天宮は現在ミーティングに入っておりますので、もし宜しければこちらでお預かり致しますが。」
笑顔を崩さない谷岡さんの申し出に、正直ホッとした。
うん、スマホを預けてさっさと帰ろう! そうしよう!
急いでシルバーのスマホを取り出し、谷岡さんに渡そうとしたその時。
「冴香! 悪いな、助かった。」
フロア中に大河さんの声が響き渡った。
詰んだ! 大河さん空気読んでよ!
フロアに居た方々の視線が一気に私に集中する。誰あれ? どう上に見ても高校生くらいじゃない? 等と興味本位でひそひそ囁く声に、早くも敵意を含んだ声色も混じった。
何なのあの子? 天宮係長が名前呼びするなんて、一体どういう関係? もしかして職場まで天宮係長を追い掛けて来たとか? なんて言う声も聞こえる。
私は来たくてここに来たんじゃないってのに。ああ胃が痛い。
今から外出でもするのか、鞄を持ち、安堵の表情を浮かべて駆け寄って来る大河さんに、多少恨みを込めた視線を送りつつ、どうぞとスマホを差し出した。
「サンキュ、冴香。着信はなかったか?」
「はい。では私はこれで。」
用は済んだ。即帰ろう。と私は自動ドアに向かって早足で歩き出す。
「おい冴香、何怒っているんだよ?」
「別に怒っていませんが。」
これ以上こんな居心地の悪い空間に居たくないだけですよ。強いて言うなら、並んで歩かないで貰えますかね? いくら出口まで方向が同じとは言え、これ以上お姉様方のお怒りを買いたくはないんですが。
「あ、冴香ちゃん!」
敬吾さんの声に、私は足を止めざるを得なかった。嫌な予感がしてぎこちない動作で振り返ると、何時の間にか大河さんと同様、鞄を持って現れた敬吾さんが、爽やかな笑顔を浮かべて近付いて来ている。思った通り、女性陣からの視線が更に鋭さを増した。
うん、敬吾さんもイケメンだもんね。お願い、貴方も空気読んで!
「昨日はどうもありがとう。夕飯ご馳走様。凄く美味しかったよ。」
更なる爆弾を投下しないでくださいよ敬吾さん!!
私達に追い付いた敬吾さんの背後から、女性陣が送ってきているであろう見えない視線が突き刺さってきて痛い。視界の端にちらりと見える谷岡さんに至っては、もう明らかに睨んできているし!
「いえ、こちらこそありがとうございました。ではお仕事のお邪魔になるかと思いますので、私はこれで失礼致しますっ。」
もう早くこの場を脱出したい。早口で敬吾さんに挨拶をして頭を下げた私は、戸惑った様子の二人を尻目に、早々にビルを飛び出して駅まで猛ダッシュした。ああ居た堪れなかった!
大河さん、今後からは絶対に忘れ物はしないでください。次に何かあっても、もう私は届けてあげませんからね。




