私が遺した愛娘
冴香の母親視点→大河視点です。
気が付いた時、私の身体は足元に転がり、広がりつつある血溜まりを、昨夜から降り続く大雨が洗い流していた。
え……この光景は……何?
近くに停まった車から運転手が出て来て、青褪めながらも携帯電話を取り出して通報する。聞こえてくる説明の内容から、私は漸く自分の身に起こった出来事を悟った。
私はシングルマザーの看護師だ。昨夜から今朝までの夜勤を終えて、帰宅する途中で事故に遭ってしまったようだ。もうすぐ中学に上がる娘の為にも頑張って働かなければと、最近少し無理をしていて、疲れが溜まりやすく、寝不足気味だった事は自覚していた。歩きながらも疲れと眠気を感じていたし、昨夜からの大雨で視界も悪く、音も聞こえ辛かったとは言え、まさかこんな事になるなんて。
到着した救急隊員達の手によって、私の身体が運ばれて行く様子を、私は呆然としながら見つめていたが、ふと我に返った。
そうだ、私が死んでしまったら、遺された娘は? 冴香はどうなるの?
私は救急車を追い掛け、勤務先の病院に辿り着いた。一縷の望みに賭けて、自分の身体に戻ろうと試みるが、やはり無駄だった。私の死亡を確認し、悲嘆にくれる同僚達に申し訳ないと思う。そして、何よりも。
「お母さん!!」
私の身体に縋り付き、泣きじゃくる冴香。
まだ小学生の貴女を、一人にしてしまって、本当にごめんなさい!!
後悔してもし切れない。涙が次々に溢れてくる。何故あの時、もっと周りに注意しなかったのだろう。いつも通勤している道で、車も少ないから、と油断してしまったのだろう。気を付けていれば、避けられた筈の事故だ。自分の不注意で、取り返しのつかない事をしてしまった。
どれだけ冴香に謝ろうとしても、何度抱き締めようとしても、もう私の声は届かないし、透けて見える今の私の腕は、冴香の身体をすり抜けてしまう。それでも、せめてこの子の行く末を見届けたくて、私は冴香を密かに見守る事にした。
私が死んでしまってから数日後、同僚達や近所の人達の協力を得て、私の葬儀が終わった後に、冴香の父親が訪ねて来た。彼とは恋人関係ではあったものの、他の女性と関係を持って妊娠させた事が分かり、別れた直後、私もまた妊娠していた事に気付いたのだった。彼はその女性と既に新しい家庭を築いていたが、子供が生まれた事だけは知らせていた。だけど、その後も私達の事を気にかけてくれていたとは知らなかった。
冴香は彼が引き取ってくれると言う。これで一安心だ。
人見知りな面がある冴香は、新しい家族と上手くやっていけるだろうか。冴香が新しい暮らしに馴染めるまではと、私も一緒に付いて行く事にした。
だけど、冴香の新しい生活は、地獄でしかなかった。
継母と異母姉に目の敵にされ、家事を押し付けられ、奴隷のように扱われては、理不尽な暴力を振るわれる日々。唯一の頼りである筈の父親は、仕事ばかりで冴香を顧みない。私が冴香の為に遺していた、僅かばかりの貯金も生命保険も、冴香が知らない間に、父親の銀行口座を経て、二人が散財してしまった。あの二人を呪えるものなら呪ってやりたい。
毎日の様に繰り返される暴力に懸命に耐える冴香に、いっそ自分が代わってやりたいと、何度泣きながら思ったか分からない。私が死んでしまったせいで、冴香にこんな生活をさせる羽目になってしまった。どれだけ冴香に謝っても、私の声は全く届かない。
昔、私が教えた通りに、自分で自分の怪我の手当てをする冴香。随分前に教えた事も、ちゃんと理解して覚えている、賢い冴香が誇らしい。だけど、こんな事の為に、冴香に応急処置を教えた訳ではない。一度は止まった筈の涙が、また溢れ出してくる。
ごめんね、冴香。本当にごめんね。何も出来ないお母さんを許して。
そんな日々は七年近くも続いた。冴香は暴力を少しでも回避する為、相変わらず二人の言いなりではあったものの、心までは折られていなかった。何時か、必ずこの家を出る、とたった一人でどれだけ頑張って来た事か。冴香が泣かなくなってしまった分まで、私が泣かない日は無かった。
そんなある日、漸く転機が訪れた。天宮財閥の御曹司との婚約と同棲が決まり、冴香が家を出る事になったのだ。胸を撫で下ろしながら、今度は良い人でありますように、と私は切実に祈った。
冴香の婚約相手である、天宮大河さんは、最初の印象は決して良くなかった。あろう事か、天宮財閥側が決めた婚約と同棲を無視して、冴香を追い出そうとしたのだ。だけど、冴香の事情を知り、家に置いてくれる事になって、私は少し肩の荷が下りた。まだ会ったばかりの冴香の心配をしてくれる辺り、どうやら根は悪い人ではないみたいだ。
少しずつではあるけれども、二人は距離を縮めていっているように思えた。七年近くもの歳月のせいで、すっかり表情を無くしてしまっていた冴香が、段々と笑顔を取り戻していく。そして、徐々に大河さんに惹かれつつあるようだ。大河さんの方も、冴香を気にしてくれているように見える。母としては、娘の初恋を応援したいが、こればかりは本人達に任せるしかない。すっかり素直ではなくなり、口ばかり達者になってしまった冴香と、口が悪くて大人気ない大河さん。果たしてこの凸凹コンビは、上手く行くのだろうか。不安しかない。
だけど、時には心配し、時には呆れつつも、徐々にお互いを想っていく二人を見守るのは、とても楽しかった。冴香が久し振りに涙を流した時は、抱き締めてくれる大河さんを見て、私も一緒に泣いてしまった。天宮会長に引っ掻き回されたり、すっかりコンプレックスの塊になってしまった冴香がとんだ誤解をしたりで、毎度ハラハラさせられた。あの二人が尚も手出しをしようとしてきたが、今度はきちんと排斥した冴香を見て、もう大丈夫だと心底胸を撫で下ろした。父親と和解した時は、私はまだ彼に複雑な思いを抱いてはいたけれども、冴香の成長も感じてまた涙ぐんだのだった。
何だかんだで色々あったけれども、二人が婚約したのはつい先日の事。
そして今、二人は私のお墓の前にいる。
「お母さん、久し振り。長い間、来れなくてごめんね。」
私のお墓に手を合わせてくれている、冴香と大河さん。
気にしないで。あの二人のせいで、お墓参りなんて来れなかったものね。本当に色々と辛かったよね。でも今は元気そうで、幸せそうで良かった。
穏やかに微笑んでいる冴香に、自然と涙が溢れてくる。
「紹介するね。この人は、天宮大河さん。私達婚約したの。」
知っているよ、冴香。いつも傍で見守っていたもの。初恋が実って良かったね。
「初めまして、天宮大河です。……冴香は、俺が必ず幸せにします。」
私の墓前で、誓ってくれる大河さんに、また堪え切れない涙が流れた。
良かった。本当に良かったね、冴香。必ず幸せになるのよ。
冴香を祝福してあげたい。今まで良く頑張ったね、って頭を撫でて褒めてあげたい。本当に色々大変だったね、って抱き締めて労わってあげたい。
そんなもどかしい思いを抱えていると、不意に冴香の頭の上に、大きな掌が置かれた。
大河さんに頭を撫でられ、嬉しそうに微笑む冴香。
ああ、私の役目は終わったんだ。
唐突に、そう思った。
これからは、私の代わりに、冴香の頭を撫でてくれる手がある。抱き締めてくれる腕がある。辛い時や悲しい時には、励まし、共に心を痛め、傍に居てくれる人がいる。
大河さん、どうか、娘を宜しくお願いします。
『本当に良かったね、冴香。幸せになってね。』
届かないのを承知で冴香に声を掛け、私は身体を包み始めた、温かい光に身を任せた。
***
俺と微笑み合っていた冴香が、急に驚いたように辺りをきょろきょろと見回した。
「どうした? 冴香。」
「……今、母の声が聞こえたような気がして。」
そんな訳ないですよね、と冴香が苦笑を浮かべる。
「……お袋さんは、何て言っていたんだ?」
俺が尋ねると、冴香は一瞬目を丸くして、そして照れたように呟いた。
「『幸せになってね』って……聞こえた気がしました。」
「そうか。案外、気のせいじゃないかも知れないぞ。」
俺がそう言うと、冴香はじっと俺を見上げてきた。
「大河さんって、意外とファンタジー脳だったんですね。」
「なっ、何だと!? 人の気も知らないで!」
「ふふっ。でも、もしそうなら嬉しいです。」
可笑しそうに笑いつつ、何処か懐かし気な眼差しで、嬉しそうに母親のお墓を見つめる冴香に、怒る気も失せてしまった。苦笑した俺は、再び冴香の母親のお墓に向き直る。
安心してください。冴香は必ず、俺が幸せにしますから。
もう一度、冴香の母親に誓い、俺は冴香に手を差し伸べた。
「行くか、冴香。」
「はい。大河さん。」
また来ます、お義母さん。近い将来、貴女の孫達も連れて。
指を絡めて冴香と手を繋ぎ、俺達はお墓を後にした。




