101.父が訪ねて来ました
午後六時前になり、今日も無事に終わりそうだな、と一息ついた時、カランカラン、と来客を告げる音が鳴った。いらっしゃいませ、と言いながら振り向いた私は、そこに立っていた人物に、目を見開いて絶句した。
「いらっしゃいませ、お一人様ですか? でしたらカウンター席へどうぞ。」
動揺でその場に立ち尽くしてしまった私の代わりに、翠さんが応対してくださっている人物から目が離せない。
何で、お父さんがここに居るの!?
「冴香ちゃん、大丈夫かい? 顔色が悪いようだけど……。」
私と同じくカウンター内にいたマスターが、心配そうに耳打ちしてくれて我に返る。
「大丈夫です。私、お皿洗って来ますね。」
私は逃げるように、店内からは見えない、カウンターの奥の炊事場に入った。溜まりかけていた食器を洗いながら、父がジュエルに来た訳を考える。
きっと、偶然だ。父が偶々入ったカフェが、ジュエルだったと言うだけだろう。私に無関心な父が、わざわざ私に会う為にジュエルに来ただなんて、そんな事がある筈が無い。
……ああでも、文句を言いに来た可能性はあるか。継母と義姉が許せなかったとは言え、父が全てを失う切っ掛けを作ったのは、この私だから。
そんな事を考えながら食器を洗って片付け終えたら、午後六時を少し回っていた。まだ父が居ると分かり切っている店内には行きたくなかったが、荷物が置いてある二階の更衣室へ行くには、店内を通らなければならない。仕方なく炊事場を出て、マスター達に声を掛ける。
「マスター、翠さん、お先に失礼します。」
「ああ、お疲れ様。」
「はい、お疲れ様でした。」
出来るだけ父を視界に入れないようにしながら、足早に更衣室に向かおうとした時。
「冴香、話がしたい。帰り支度が出来たら、来てくれないか。」
父に声を掛けられ、私はピタリと足を止めた。
話って何? どうせ碌な話じゃないんでしょ? きっと私への恨み言に決まっている。もうお父さんには今後関わらないから、放っておいてよ。
言葉は喉元まで出掛かったが、店内で騒ぎを起こす訳には行かない。ぐっと飲み込んで、更衣室に向かった。エプロンを脱いで荷物を持ち、重い足取りで父の元へと向かう。
「話って何?」
二人でお店を出て、人目に付かない裏口へと回り、罵詈雑言を吐かれる覚悟をしながら父に尋ねると、父は意外にも、私に深々と頭を下げた。
「冴香、今まですまなかった。お前が苦しんでいる事に、気付こうとさえしてこなかった、酷い父親だったと思う。だけど、こんな父親でも、お前は見捨てようとせず、俺に職の紹介をしてくれるよう、天宮会長達を説得してくれたと、天宮係長から聞いた。本当にありがとう。」
意表を突かれ、私は唖然として父を見つめていた。
買い被り過ぎだ、そんなの。私は父から全てを奪ってしまったから、その罪悪感を消す為に、職の紹介を頼んだに過ぎない。言葉だけ聞いていたら、父は私を慈悲深い人間か何かと勘違いしているんじゃないだろうか。私はそんな良く出来たお綺麗な人間なんかじゃない。
「別に、お礼なんて要らない。……じゃあ。」
私は父に背を向けた。父の勘違いを訂正しようかとも思ったが、私に関心のない父に、私がどういう人間なのか、語った所で時間の無駄にしかならない。それに、きっとこの先、もう会う事もないだろう。父は私に関心がなく、私はそんな父に、もう何の期待もしていないのだから。
「あ、待ってくれ、冴香!」
慌てた様子の父に手を取られ、私は振り向いて父を見た。
「まだ何かあるの?」
無表情に見上げれば、父はクシャリと顔を歪めた。
「あの……、冴香さえ許してくれるのならば、また会ってもらえないだろうか?」
父の言葉に、私は目を丸くした。
「自分でも、調子の良い事を言っているのは分かっている。今まで家庭を顧みもせず、お前に辛い思いばかりをさせてしまった、最低な父親だったと後悔している。……やり直したいんだ。お前と、親子として。……駄目だろうか?」
私の顔色を窺うように、悲痛さを滲ませながら訴えてくる父に、何と返したら良いのか分からず、ただ呆然と見上げていた。
やり直したい、だなんて……今更だ。父の考えている事が分からない。だけど……、そんな事を言われたら、期待、しちゃうじゃないか。また傷付くかも、と疑いながらも、頷きたくなってしまうじゃないか。
どうやら私は、自分で思っていたよりも、親子の情とやらに弱いらしい。自分で自分に呆れてしまう。だけど、やり直せるものならやり直したいのは、私も一緒だ。
「……別に、良いけど。」
悩んだ末、呟くように答える。いつもの事とは言え、我ながら素直じゃない返事だったが、それでも父は顔を輝かせた。
「そうか……。ありがとう、冴香。」
心から安堵したかのように満面の笑顔を浮かべる父に、何だか照れ臭くなってしまった私は俯いた。まだ不安はあるけれども、これからは、父と良好な関係を築き直す事が出来るのだろうか。
少しばかりの期待を抱きながら上目遣いに父を見上げると、私の視線に気付いた父は、それはそれは嬉しそうに目を細めていた。まるで、目に入れても痛くない、とでも言いたげな視線に狼狽えた私は、思わず目を逸らしてしまった。
この時の私は知る由も無かった。以前は仕事人間だった父が嘘のように、正反対の親バカ振りを発揮するようになる事を。
私がジュエルに居る日時を見計らって、暇さえあれば通い詰めたり、何故かブランド物の鞄やアクセサリー等のプレゼント攻撃が始まったり。毎回私が呆れ果てながら、『そんなお金があるなら先に借金を返しなさい。』と口酸っぱく叱る光景が、最低でも月に一度は繰り返される事になるだなんて……、一体誰が予想出来ただろうか?




