100.冴香の父親
大河視点です。
「冴香、父親の事、本当に良かったのか?」
祖父さんの家から帰る道すがら、俺は助手席で無表情のまま外を眺める冴香に尋ねた。
父親が無関心だったせいで、冴香が暫く傷付いていた事は、まだ記憶に新しい。その事を思うと、いくら血が繋がっているとは言え、父親と呼ぶのも腹立たしくなるようなあの男に、手を差し伸べる冴香の心情が、俺には理解出来なかった。
「ええ。私を引き取った父の意図が理解出来ないとは言え、助けられたのは事実ですから。まあ、その後の生活は、あの二人のせいで酷いものではありましたけどね。今父は相当追い詰められているようですから、あの時の借りを返そうと思いまして。まあそれから先の事に関しましては、私の知った事ではありませんが。」
俯きながら、吐き捨てるように口にする冴香の横顔を観察する。目を伏せて唇を噛み締めるその姿は、まるで自分に言い聞かせているように見えた。
きっと冴香は、何だかんだ言っても、父親を見捨てる事が出来ないのだろう。だけど、父親が自分に無関心である事も既に痛感している。一度は手を差し伸べ、その後は放置していた父親のやり方を真似ているのかも知れない。だとしたら、冴香はこの先、本当に父親とも縁を切る事になるのだろうか。
感情を隠して強がる事が多いが、冴香は本当は繊細だ。今も無理をして、自分を偽っているように見える。たとえ自分に無関心であっても、傍から見て酷い父親であっても、冴香にとっては、父は父なのかも知れない。だとしたら、この干渉を本当に最後にしてしまっても良いのだろうか。それで、冴香は本当に後悔しないのだろうか。
家に帰った冴香は案の定、夕食は何にしましょうか、と空元気を出していた。俺は冴香をソファーへと促し、膝の上に座らせて抱き締める。冴香は顔を赤くして慌てていたが、頭を撫でてやると、次第に大人しくなり、おずおずと俺の背に腕を回してきた。
おお、冴香から俺に抱き付いてくるなんて、また一歩前進! ……って今は違うだろっ。何か、冴香を元気にする方法は……そうだ。
「冴香、また肉じゃが、作ってやろうか?」
俺が訊くと、冴香は驚いたように俺を見上げて目を丸くした後、心底嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、今度は一緒に作りましょうか?」
「成程! それは良い考えだな!」
それなら失敗しなくて済む! と俺が目を輝かせると、冴香は楽しそうに笑う。屈託のない冴香の笑顔を見て、俺は漸く安堵した。
「……それにしても、結局大河さんの宣言通りになっちゃいましたね。」
「宣言通り?」
顔を赤らめながらも若干口を尖らせている冴香に、俺は首を傾げる。
「『いずれ必ず俺に惚れさせてやる』って、仰っていた通りになってしまったな、と……。」
冴香は照れたように俯きながら呟くと、急に俺の膝から退き、逃げるようにキッチンへ行ってしまった。
ああ、そう言えば初対面の時に、そんな事を言った……ってちょっと待て!!
冴香がデレた!! ちょっと拗ねたように、『俺に惚れた』って……! ああもう可愛過ぎるだろ!! ちょっと抱き締めて、いやもうこの際襲っちまっても良いかな!?
「大河さん、じゃあ肉じゃが、作りましょうか。」
だが、シンプルな黒のエプロンを身に着け、気を取り直したように微笑む冴香に、そんな事を出来る訳もなく。
「……ああ。」
俺は何とか表情を取り繕い、婚約祝いと称して敬吾と凛にプレゼントされた、冴香とお揃いのエプロンを身に着けるのだった。
冴香を惚れさせたのは良いが、絶対に、俺の方が惚れ込んでしまっているよな、と密かに溜息をつきながら。
***
後日、俺は堀下元社長を会社に呼び付け、天宮財閥の関連会社の営業職を紹介した。会社の経営能力は低いものの、堀下工業で培った人脈と、新規取引先の開拓能力を考慮した上での再就職先に、元社長は目を輝かせて飛び付いてきた。
「本当は、貴方の事なんて見捨てるつもりだったんですがね。冴香のたっての願いなもので。」
「冴香の……?」
目を見開いた元社長を、俺はじろりと睨み付ける。
「冴香を引き取るだけ引き取っておいて、その後は虐待されていても気付かない、無関心にも程がある父親に、情けなど無用だと思っていましたが、冴香はそうではなかったようです。貴方の無関心さに深く傷付けられながらも、一度は助けられたのだからと、貴方に職を紹介するよう、我々に頼んで来たんですよ。」
「あ……あ……。」
身体を震わせ、目にうっすらと涙を溜めていく元社長。
「貴方のような男でも、冴香にとってはたった一人の父親のようだ。……まあ、冴香も貴方を助けるのは、これっきりにするようですがね。自業自得ですよ。」
冷たく言い放つと、元社長は、涙をボタボタとスラックスの上に落とし始めた。俺は冷めた目で元社長を一瞥し、ソファーから立ち上がろうとした所で、ふと冴香が言っていた事を思い出した。
「そう言えば、冴香が気にしていましたが、貴方は何故冴香を引き取ったのですか?」
元社長は涙を流しながら、鼻を啜り上げて口を開いた。
「冴香は……、私が心底愛し、将来を共にしたいと願っていた女性に……、あの子の母親に生き写しなんです。彼女とは、元妻との事があって、結婚する事は出来ませんでしたが、私と別れた後に妊娠に気付き、密かに子供を生んでくれていた事を後で知りました。彼女が亡くなったと知らせを受けて、せめてその形見であるあの子は引き取りたいと、家に迎え入れたのですが……、あまりにも母親に似過ぎていて、逆に顔を見るのが辛くなってしまい、次第に遠ざけるように……。それが、あんな事になっていたなんて……お恥ずかしい限りです……っ。」
ボロボロと涙を流し続ける男に、俺は拳を握り締める。
何だよ、それ!
結ばれなかった冴香の母親を心から愛していたのは良いが、冴香を通して、母親しか見ていないじゃないか。もっと冴香自身の事をちゃんと見ていてくれたら、あいつはあんな目に遭わなかったかも知れないのに!!
「貴方の都合で振り回され続けた冴香の事を、もっと良く考えてやってください。彼女は幼くして母親を亡くし、貴方に引き取られたは良いものの、父親は自分に無関心で、継母と義姉にはずっと虐待され続け、終いには金と引き換えに身売りさせられる羽目になったんですよ。……冴香は一体、どんな気持ちで、貴方への職の紹介を頼んだのでしょうね。」
「……ッ……ウッ……ウアアアァ……ッ!」
湧き上がる怒りを抑えながら、出来る限り冷静に言うと、ソファーに座っていられなくなったらしい男は、膝から床に崩れ落ちた。両手で顔を覆い、嗚咽を漏らして泣き続ける。どうにもやり切れない思いで、俺は彼を見下ろした。男に対する憤りと、少しばかり生まれた哀れみを、深い溜息と共に吐き出しながら。




