勇気ある犬
大切な自分のペットとの思い出。人それぞれ、ペットとの出会いはたくさんあると思う。だけど、それらすべてがきっと、一生忘れられない、大切な思い出の一瞬なのだと思う。
私は生まれたときから重い心臓の病気を持っていた。だから学校なんてめったに行けないし、外に出ることも少なかった。毎日病院の窓か家の庭を見て暮らす毎日だ。そんな私が八歳のころ、ちょうどその日は台風が近づいてくる日で、外は風と雨がくるったように吹き荒れていた。しかしその日は運の悪いことに通院の日であった。薬が一日でもきれると危険なため、仕方なく母と一緒に車に乗り込み病院へと向かった。
しばらく走っていると病院が見えた。待合室がいっぱいだったため、病院の前の大通りの向かいにある駐車場に母はすぐに戻ると告げ、私を車の中に残して病院の方へ行った。暇なので駐車場の後ろにそびえる山を見ていた。すると風の音に混ざって犬の鳴き声のような声が聞こえた。声は意外とすぐ近くでしたので窓に顔をつけてきょろきょろと視線をさまよわせ、ふと下の方を見ると白い物体が見えた。
それは車のすぐそばにいて、こちらに向かって四つの足で必死に踏ん張り吠えたてている、子犬だった。子犬と目が合うと、いきなり道路の方へと駆けて行った。道路はこの天気のため車はあまり走ってはいないが、もしひかれて見殺しになったら嫌だと思い、着ていたかっぱのフードをしっかりかぶりドアを開け子犬を追いかけた。
子犬は道路のすぐそばで止まっていた。車は来る気配はしないのでホッとしてそばによるといきなり道路の向こう側へ向かって走り出した。
「待って!」
子犬の後を追って、私も病院側へと走りきったところで
ドォォォォンン・・・
突然大きな音が背後で鳴り響き、反射的に後ろを振り返ると、さっきいた車が山からの土砂崩れでほとんど見えなくなっていた。突然の出来事に膝の力が抜けて座り込んでしまった。足に温かさを感じみるとさっきの子犬が私にすり寄り、まるでよかったねと言うかのように私を見た後、手を伸ばそうとしたら病院の扉が勢いよく開いた。音に驚いた子犬は走って逃げていってしまった。母が真っ青な顔で出てきて私を抱きしめ、よかったよかったと泣いている母につられて、私も遅れてきた恐怖に大声で泣いた。
後から聞いた話によると、小さな土砂崩れだったため、私のいた駐車場とその周りの家にしか被害は出なかったらしい。幸い、周りの家と言っても三軒ほどで、空家と残り二つの家には老夫婦が住んでいてどちらも留守にしていたため、怪我をしたかもしれない人は私だけだったらしい。
もしあのとき、子犬が呼んでくれなかったら、その声に気づけなかったら、想像するだけでも恐ろしかった。
その次の日は少し雲が見えるものの晴れた。私はあいかわらず家の庭をボーと眺めていた。すると、小さな子犬の鳴き声が聞こえてきた。驚いて窓を開け庭を見ると、土砂崩れの時の子犬がそこにいた。白い毛は汚れて茶色くなっているが、まちがいなくあのときの子犬だった。
あわてて母を呼び、事情を話した。
「まあ! じゃあ、この犬が!? 小さいのによくやってくれたわね」
元々犬好きの母はそう言って頭をなでた。
「お母さん。この子犬飼っていい?」
恐る恐る聞くと、母は満面の笑みで
「いいわよ。見たところたぶん、のらだと思うし、神恵を助けてくれた恩人だもの! あっ恩犬かしら」
と、また笑った。まるで最初からこの家に来る運命だったかのように、子犬はこの家の子になった。
「名前どうするの?」
「ユウキ! あんなにすごい風の中こんな小さな体で私を助けてくれたんだもの。ぴったりな名前だと思わない?」
「そうね。良い名前だわ」
私はユウキをそっと抱きあげ
「ユウキ。あなたの名前はユウキよ。気に入ってくれたかな?」
そう尋ねると、ユウキはうれしそうにしっぽを振って笑ってくれた。
ずいぶんと汚れていたため仕事帰りの父に洗ってくれるよう頼むと、最初ユウキを見て驚いたようだったが、もともと父も犬好きだったためユウキを歓迎して綺麗に洗ってくれた。
洗い終わったユウキは白い毛をドライヤーで乾かしてふさふさになった。もふもふになったユウキを思わずギューと抱きしめると、私の顔をぺろぺろ舐めてきた。
その日からユウキは私にべったりついてきた。食事の時も寝る時も家じゅうついてきた。しかし一日でただ一度だけ離れる時がある。散歩の時だ。庭までならぎりぎり大丈夫だが外に出ることは医者に止められているからだ。散歩に行くのは父と母が交代で行ってくれるが連れて行かれる時の悲しそうな顔で私を見る時はそっと頭をなでてから
「いってらっしゃい。待ってるからね」
と言って行くのだ。
それ以外では私は基本的に自分の部屋でベットに寝ているので、ユウキもここにいることになる。だからユウキは私の話相手をしてくれる。話すことはいろいろだ。一緒に外を眺めて今日は雨だねとか風が強いねとか、テレビのあの人面白いね、とかだ。それ以外ではおもちゃで遊んだりもするが私の体力がすぐに無くなりあまりできない。それでも一人遊びで私を笑わせてくれる。
ユウキは一人ぼっちだったこの部屋に光を与えてくれたようだった。ユウキが来てくれたおかげで、私は楽しくていつも笑ってばかりになった。母も父もふさぎ気味だった私が笑うようになって安心したようだった。
そんな日々の中、急に熱が上がり起き上がることができなくなってしまった。
「ユウキ。私ね、重い病気なんだ。もしかしたら長く生きられないかもって言われたの。でも、もし私がいなくなったとしても、元気で長生きしてね」
私がそう言うと、ユウキは悲しげな顔でベットに上がってくると、顔の横で丸まって寝てしまった。
それから五日後にようやく熱が引いた。その日はちょうど通院の日だったため温かい格好をして車に乗り込んだ。ユウキは最後まで一緒に行きたいとそばに寄ってきたがさすがに病院には連れてはいけないため家で父と待ってもらった。
「行ってくるね。待っててね」
そう言って頭をなでると私は車に乗り込んだ。見えなくなるまで、ユウキはずっと見送ってくれていた。
いつも通り診察が終わり、検査を受けた後、母だけ呼ばれて部屋に入っていった。残された私は待合室で五分ほど待っていたら母が帰ってきた。少し浮かない顔をしている母にどうしたのかと聞いた。
「神恵、落ち着いて聞いてね。あなたの心臓の病気が、少し悪い方に向かってるの。それで、今度手術することになったの」
「え! じゃあ、入院するの? どのくらい?」
「期間はわからないわ。でも、良くなればすぐに帰れるわ」
私の頭には、少し離れるだけで寂しがるユウキの顔が浮かんだ。そんな長い間離れててユウキは大丈夫だろうか。自分のことよりもユウキのことが心配になって帰りの車の中で私は落ち込んでいた。
帰ってくると、ユウキが飛び込むようにして出迎えてくれた。うれしそうなその顔に胸が痛んでその日は素直に笑えなかった。夜に私は
「ユウキ、あのね私の病気が悪くなってて、しばらく入院するかもしれないんだって。長い間会えないけど、大丈夫?」
とユウキに言うと、ユウキは私と見つめあった後、膝の上に乗ってぺろぺろと私の顔を舐めた。まるで大丈夫だよ、と言ってくれてるみたいで、少し安心した。
入院の日が三日後に決まると、着替えや持っていくものをバックに詰めはじめた。すると、その日からユウキの行動に変化が出た。散歩に行くとき自分から行くようになったのだ。いつも悲しそうな顔で行っていたその表情はうれしそうな顔になった。不思議に思ったがあの悲しそうな顔をしなくなったので良かったと思った。でも一人立ちかな、と思うと寂しくも思った。
とうとう入院の日、ユウキは玄関先で連れてってと言わずに見送ってくれた。しかし私は
「行ってくるね。待っててね」
といつものように言った。その時も、ユウキは見えなくなるまで見送ってくれた。
手術はその日の次の日だった。病室は一階の一人部屋だ。病院の庭がすぐそこにあって花が機影に咲いている。一人で外を眺めるのは久しぶりだった。前までは普通にその光景を見ていたが今ではとなりにユウキが居るのが当たり前になっていた。今日は手術の日。いざその日になると、少し恐怖がでてきた。麻酔をするから痛くはない。先生も腕のいい人だ。でも・・・でも・・・!
ク~ン
突然聞こえた聞き覚えなある声に、私は周りを見渡し窓の外を見た。そこには、ユウキがいた。
「なんで・・・」
家にいるはずのその姿に私は目を疑った。そんな私にユウキはいつもと変わらず笑いかけてしっぽをうれしそうにふっていた。その姿に思わず笑みがこぼれさきほどの恐怖は消えていた。
「ユウキ、ありがとう! 手術頑張るね!」
そう言った瞬間病室の扉が開き先生と母と父が入ってきた。音に驚いたのかユウキは病院の角へ飛ぶように逃げていってしまった。追いかけたかったがどう説明すればいいのか分からなかったのでユウキが来たことは黙っていた。帰ってくると思ったのだ。あの日と同じように。
とうとう手術が始まった。母と父は心配そうな顔で最後まで見送ってくれたが私は怖くはなかった。ユウキが励ましてくれたから、きっと大丈夫。
手術室の中で全身麻酔を受け、私の意識はそこで途切れた。
「神恵ちゃん! 神恵ちゃん!」
小さな子どものような声に呼ばれそっと目を開けると、波の音が聞こえてきた。それと一緒に横になっている場所が固くて身を起こすと、私は小舟の上にいた。
「え!? ここは?」
「よかった。目を覚ましたんだね」
声のする方を見ると小さな男の子が船をこいでいた。
「あなたは? というかなんでこんな所に・・・私手術受けてたはずなのに・・・」
疑問で頭いっぱいの私に男の子はにこにこ笑って
「大丈夫だよ。僕があっち側まで帰してあげるから。きっとその手術もうまく行くよ」
と言った。
「あっち側?」
確かに今こいでいる先には岸が見える。そこのことだろう。後ろを見てみると、そっちの方が岸には近かった。
「ねえ、後ろの方が岸に近いわよ。そっちの方がいいんじゃ・・・」
「だめだよ。そっちにはまだ行っちゃいけない」
男の子は強い口調できっぱりそう言った。帰り方が分からないので仕方なく男の子の言う通りおとなしく。船にゆられていた。暇なので周りの景色を眺めると空はずいぶんと暗く、川も真っ黒だ。不気味な場所だなと思っていると、男の子がこちらを向いて
「お姉ちゃんは手術成功して何かしたいの?」
と聞いてきた。その言葉に考えてみると、未来のことなんて考えてもいなかったことが分かった。
「私、小さいころから重い病気って言われてきたから、大きくなったらなにしたいとか、考えたことないなあ。だって、大きくなるまで生きていられるか分からないもの」
そう言うと、男の子は笑みを浮かべながらも、少し悲しそうな顔をした。その顔をどこかで見たような気がしたが、思い出せない。男の子はこぎながら話を進める。
「僕は、お姉ちゃんに長生きしてほしいな。お姉ちゃんは優しくってたくさん楽しい話をしてくれるし。もしかしたら、幼稚園の先生とかあってるかもよ。それに・・・」
男の子はそこでこちらを振り向き
「手術頑張るって、言ってたじゃない」
そう言って、まるで太陽のように笑った。その言葉に、私の頭の中に一瞬、同じような笑い顔のユウキの顔が、浮かんだ。
「待って! それは・・・その言葉は・・・」
「あ! もう着いたよ」
声を妨げられ、前の方を見ると確かに岸に舟がついていた。
「お姉ちゃん。ほら、つかまって」
「う、うん」
なにがなんだかわからないまま先に上がった男の子に手をつかまれ、岸に上がった。
「ここを真っすぐ行くと、行きたい場所に着くよ」
男の子が指差した方向は霧でよく見えない。でも行くしかないのだろう。
「ありがとう。あなたは?」
「僕は後から行くよ。大丈夫。一人にはしないよ・・・長生きするって、約束したもんね」
その一言で確信した。まちがいない。この子は・・・
「ねえ! もしかしてあなた・・・!」
「約束は守るよ。だからお姉ちゃんも、手術頑張って、自分の夢見つけてね」
男の子の姿がかすんでいく。後ろの霧が迫ってきているみたいだ。
「待って! ユウキ・・・」
私の意識は、そこで途切れた。最後までユウキは優しげに笑って見ていた。まるで入院するときのあのときみたいに・・・
目を覚ました私が最初に見たものは泣いて目を赤くした母だった。となりには父もいて心配そうな顔で覗いていた。
どうやら私の手術は相当難しかったようで、一回は心臓が止まったらしい。それでもなんとか命を取り留めたようだった。
しかしそれから五日間は入院しなければならないらしい。だが今の私はそんなことよりももっと気になることがあった。
「お母さん。ユウキは元気?」
私の言葉に花瓶の花を取り変えようとしていた母の手が止まった。母はゆっくりと振り向き
「実はね・・・ユウキはあなたが入院してから姿が見えないのよ。家の周りをくまなく探したんだけど、まだ見つかってないの」
と重い口を開けて言った。なんとなくそうなんじゃないかと思っていた私はそっと窓の外を見た。手術の日、私を応援するために来てくれたような気がするユウキ。あの日いた場所に目を向けたがユウキの姿はなかった。
「きっと戻ってくるわよ」
そう言った私に、落ち込むと思っていた母は前向きな私に驚きつつ、そうね、と笑った。
五日間の入院生活を終え、家に帰宅した私は自分の部屋のベットの上にいた。先生の話では前よりもだいぶ良くなりもう少ししたら完治するかもしれないと、初めて良い知らせを聞かされた。
早くこの結果をユウキに伝えたいと窓の外を眺めていると
ワン!
元気な犬の鳴き声がすぐそばで聞こえてきた。急いで窓を開け庭を見ると、あの時と同じように汚れて茶色くなったユウキが、そこにいた。私は身を乗り出してその小さな体をつかみ高く上げ。
「おかえり! 待ってたよ!」
と言った。ユウキはいつもと変わらずしっぽをうれしそうにふって、うれしそうに笑っていた。
私が行ってた場所は、もしかしたら三途の川と呼ばれるところだったのかもしれない。ユウキが来なかったらあのままあっち側、あの世へと流されていたかもしれない。そんなところまでも助けに来てくれたユウキは、本当に、勇気のある犬だ。
十年の月日が流れ、今私は十八歳。幼稚園の先生になるために、必死に勉強の毎日だ。心臓の病気は完治され、元気に学校に通えている。ユウキはというと、昔と変わらず私にべったりくっついてくる。元気になって散歩にも行けるようになった。友達もたくさんできて楽しい日々を送っている。
十年の月日が流れても変わらず元気なユウキは、約束通りすごい長生きしてくれるかもしれない。
「これからもよろしくね、ユウキ」
声をかけると、当然、というかのようにワン! と元気に答えてくれた。