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「ああ……海坊主だ」
だらしなく開いたスズキの口から、短くなったタバコがぽろりと落ちる。小島に見えたのは海坊主の頭頂部で、今となっては高層ビルと肩を並べるような黒い巨人が方舟島に上陸しようとしている。たしかに、こんなちっぽけな煙が役に立ちそうな相手には見えない。スケールが違い過ぎる。
「でかっ! 海坊主でかっ!」
あまりのデカさに虎徹が叫ぶ。陸に上がったおかげで、海坊主の全身がよく見えた。たしかに『海坊主』の名前の通り、人の形は一応している。だが顔らしき部位には目も鼻も口もなく、ただ目と口の代わりにぼんやりとした穴みたいなものが三つ空いているだけで、胴体や手足も子供が適当に書き殴ったみたいに歪だった。
そんなあやふやな見かけでも、確かに分かることがあった。
海坊主は、明らかに正常ではない。地面を踏みしめる足は頼りなくふらつき、顔にぽっかりと空いた口と思しき穴からは、苦痛を訴えるような呻き声が漏れている。全身を襲う激痛に身をよじり、八つ当たりみたいに手当たり次第に地面や建物に拳を振るう。この世に現れたために受ける痛みのあまり、狂っているようだった。
「昨日の竜よりさらにデカいぞ。こんなのどうやって相手するんだ?」
「さあな。とりあえず俺は今回もサポート役だ。化物退治は、主役に任せるよ」
そう言って虎徹は空を見上げる。
上空には太陽を背に受け、海坊主に向かって一直線に急降下する黒い影があった。
今回の主役――鞍馬蒼雲である。
蒼雲は刀を八双に構えたまま、獲物を狙う鷹のように真っ逆さまに落ちる。自慢の漆黒の羽は、今は落下速度を上げるためにたたんでいる。速い。
「京八流、鞍馬蒼雲。推して参る」
これから斬る相手に、蒼雲は名乗った。
その言葉が、戦闘の合図だった。
妖刀“大天狗鬼一”を手に、蒼雲は空を翔ける。
太陽を死角にし、羽をたたんで限界まで加速する。
飛ぶよりも速く。風よりも疾く。自分よりも大きな者を相手にするときは、何より一撃の速さが物を言う。捉えられないスピードで翻弄し、小さいが確実な一撃を与え続けることが勝利へと繋がるのだ。
目標となる海坊主は、すでに海から陸に上がっていた。上空からでは頭頂部しか確認できないが、墨を塗りたくったような肌の色と、その巨体は見間違えようがない。同胞でなければ良いのに、というわずかな希望がここで砕かれる。
しかし、同じ妖怪だと確定したからこそ、固まる決意もある。今こうしている間も、異界から現世に放り出された海坊主は、正気を失うほどの苦しみに襲われている。その苦しみから解放できるのは、同じ理を持つ蒼雲しかいないのだ。たとえその唯一の方法が、生命を絶つことだとしても。
「京八流、鞍馬蒼雲。推して参る」
せめてもの礼儀に、名乗りを上げた。
刀を握る手に、自然と力が入る。できるなら一太刀で楽にしてやりたいが、自分の腕では明らかに無理だった。
海坊主の巨体が目の前に迫る。肚はもう決まっていた。許せとも、すまぬとも思わない。ただ、この世界のために成すべきことをするだけだった。
高速ですれ違う一瞬、蒼雲が裂帛の気合とともに振るった一撃は、見事に海坊主の喉を掻き切っていた。
手応えは十分あった。地面ギリギリのところで羽を広げ、蒼雲は飛燕の如き華麗な滑空で再び空へと舞い上がる。
「どうだ?」
ひらりと翻って今斬りつけた箇所を見て、蒼雲は愕然とした。会心の一撃だと自負していたのが、海坊主にとっては皮一枚を薄く斬った程度の傷だったのだ。サイズの違いは覚悟していたつもりだったが、それでも認識が甘かった。これでは蚊が刺したのと大差ない。こんな小さな傷、いくらつけたところで海坊主は倒せないだろう。
「どうする……?」
焦りが言葉となって口からこぼれ出る。腕には自信があったが、つい今しがたいとも簡単に打ち砕かれた。文字通り、天狗の鼻をへし折られたわけだ。たったそれだけでもう弱音が漏れた。これが齢千年を超える大妖怪なら、おくびにも出さず笑っていただろう。笑いながら、次の手を頭の中で巡らせているはず。それができなかった蒼雲は、ただ無鉄砲なだけの若輩者だった。だから周りからも「お嬢」などと茶化される。つまり甘やかされているのだ。
子供だから。
「ちぃっ……!」
己の未熟さへの羞恥を無理やり怒りという燃料に変えて、刀を振るう腕に送り込む。狙うは先程と同じ箇所。一撃で倒れぬのなら、倒れるまで何度でも斬りつけるまで。巨木だって斧の一振りで倒れるわけではないのだ。
大きな黒い羽を羽ばたかせ、蒼雲は再び海坊主へと切り結ぶ。今度は落下速度を上乗せしなかったので速度は無かったが、その分狙いは寸分違わず同じ箇所に刃を滑らすことができた。
一度開いた傷を再び斬られ、海坊主のぶ厚い皮膚がぱっくりと割れる。中から墨汁のようなどす黒い血が滲んできたが、それでもやはり傷は浅い。
「まだまだ!」
急カーブを描いて旋回し、蒼雲は三度目の突撃を仕掛ける。
だがいくら正気を失っていても、海坊主とてそう馬鹿ではない。大木のように黙って斬りつけられはしないのだ。しかも同じ箇所を攻撃してくるのであれば、いかに巨体で鈍重でも迎え撃つことはできる。
「しまっ……!」
海坊主のカウンター攻撃。
フルスイングの体勢で突っ込む蒼雲目がけて、海坊主の壁のような平手が襲いかかる。イノシシの如く真っ直ぐ突き進む蒼雲に、この張り手をかわすことはできない。
あわや、と彼女が思わず目を閉じたそのとき、
「おらぁっ!」
気合の入った声とともに、どこからともなく工場の給水タンクが飛んできて、海坊主の顔面に直撃した。
これにはさしもの海の巨人もたまらず、振り出した手を豪快に空振りさせて、仰向けに倒れた。倉庫数棟が巨体の下敷きとなって、轟音とともに潰れる。
「よっしゃあ、命中!」
危うく平手を回避した蒼雲が見たのは、工場の屋上でガッツポーズをしているアペイロンの姿だった。どうやらそこから給水タンクを引っこ抜き、海坊主目がけてぶん投げたようだ。竜を殴り倒したときといい、何十トンもある給水タンクを軽々と小石みたいに投げつけるパワーは、でたらめとしか言いようがない。
「大丈夫か、鞍馬!?」
「か、かたじけない!」
心配する虎徹の声に、呆然としていた蒼雲が我に返る。
「攻撃が単調になり過ぎだ! いったん距離を取って間を外せ!」
「心得た!」
虎徹の助言に従い、蒼雲は一度体勢を立て直すべく海坊主から距離を取る。
後退する蒼雲を援護するために、起き上がりかけていた海坊主に三点バーストの着弾が重なる。楓の魔法のステッキが奏でるリズミカルな銃声が、閑散とした工場地帯に響いた。
しかしいくら魔法の5.56ミリ弾を撃ち込んでも、海坊主にはまったく効いた様子がなかった。水面に弾を撃ち込んだみたいに、しぶきを上げて中に入ったかと思うと、いとも簡単に外に抜けてしまう。しかも空いた穴もすぐにふさがり、血の一滴も出ない。同じ攻撃でも虎徹の投げつけた給水タンクと違って、当たる面積が小さすぎるのだ。
「やっぱり、分類が違うから効果がないわね……」
虎徹とは違う工場の屋上で、戦闘服姿の楓が大して残念そうでもない声で呟く。縁に片足をかけて魔法のステッキを構えていたが、効果がないと判断すると、魔力と弾を節約するためにすぐさま銃口を上に向け、引き金から指を外した。
そしてステッキを胸の前で両手で保持しながら、踵を返して走り出す。
小さな声で呪文を唱えた。コンバットブーツの重厚な足音が、見る見る軽快になる。魔法で重力から解放されたため、今やその身は羽根よりも軽い。跳躍一つで屋上から屋上へと飛び渡り、射撃位置から迅速に離脱した。
「う~む、基本通りな奴……」
ノミのように建物の間を飛び移る楓の姿に、スズキがしみじみと感心する。その手には携帯灰皿があり、先ほど落ちた吸殻を中に放り込んだ。いろいろと細かい男である。
それはともかく、スズキはずいぶん前から姿が見えない桜花と美波のことが気にかかった。どこかで配置についているのは間違いないのだが、二人とも気配が無いので心配になる。せめて通信手段があれば確認できるのだが、あいにく二人とも携帯電話すら持っていなかった。桜花はともかく、美波は今どきの女子高生なのに。まあ持っていたところで、この島は圏外なので使えないのだが。
明日も更新します。




