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少年A  作者: 葵依幸
3/7

少女


「2p」



 ——おい、来たぞ。

   ——言ったらやらせてくれねぇかな?


 以前とは違う注目を受けながらも、彼女は登校していた。

 顔色一つ変えず、口をキツく結び、凛とした姿勢を崩しはしなかった。


 ——信じられないよね……。

      ——でも悪戯だって。

  ——んな訳無いじゃん。


 至る所で似たような会話を耳にする。校内はその話で持ち切りだった。他校からもその姿を一度見ようと足を運ぶ学生が居るほどの人気があった生徒会長。それが自分の父親と関係を持っていたなどと話題としては大きすぎた。先生達も真相を確かめようと彼女を呼び出したが「悪質な悪戯です」の一点張りだったらしい。

 彼女は何一つ変わっていなかった。あくまでも気丈に振る舞い続けていた。

 ざわつく全校集会も一言でおさめ、議題を進めて行く。どんな噂が自分を取り巻き、周りが自分の事をどう思おうが関係ない。全く気にしていない。そんなそぶりだった。相変わらずバスケットの試合でも良い成績を残し、模試でも上位に食い込込んでいた。「いずれ噂は消える」とその日を待つかのように、自分一人変わらぬ日々を送っていた。軽蔑と疑いの眼差しを受けながら。

 学校を休んでしまえば良いのに、とも思う。また彼女がそうしない事も分かっている。そう言う性格なのだ。周りには好きに言わせておけば良い、と学校生活を送る。そんな事は最初から分かっていた。けれど表向き気にしていないように見えても彼女はきっと傷つき続ける。内面は崩れて行く。

 どれだけ強い精神を持っていようが、いつかは疲労する。だから僕はその時を待つことにした。

 彼女の神経がすり減り、弱るその時を。

 噂は絶えること無く、彼女への視線は変わらぬままの日々がしばらく続き。今度は盗撮して来た画像を校内にバラまいた。

 校舎の至る所に、彼女と父親を写した写真を貼り出した。

 流石に今度は教師達も黙っておらず、全校集会が開かれ、”匿名”という名指しで写真の件について何か知っている人はいないかと声を上げた。彼女はその場でも生徒会長として、演説を行った。

 ”下らない悪戯はいい加減にしなさい”と。

 その言葉をどのように受け止めたのか、それは人それぞれだった。

 彼女を哀れに思う者、また軽蔑する者、必死だと嗤う者。

 僕には気丈に振る舞う彼女はとても空虚で、弱々しく見えた。

 彼女は一人できっと、震え泣き続けている。心の中で。

 その事態に僕は満足していた。犯人が僕だと疑う者もいない、まず僕の存在など誰も気に止めない。安心して彼女の崩れて行く様を観察することが出来た。張りつめた糸が千切れるのは、もうすぐそこだった。


 ——そんなある日、それは起きた。


「そこ、通りたいんですけど」

 そこは商店街から外に抜ける抜け道で人通りは少なく、少し薄暗かった。彼女がそこに差し掛かると不良が2人たむろしていて通る事が出来ず、足を止めた。無言で通り過ぎる事も出来るのだろうが、彼女は堂々と言い放った。

「聞こえないの? どいてもらえないかしら?」

 家に帰るにはこの道を通るのが一番近く、回り道をすると大分時間がかかってしまう。帰りを待つ弟と妹の為にも早く帰りたい彼女に取っては迂回などしていられない、というのが彼女の考えなのだろう。わざわざ声をかけたのは生徒会長故の性分なのだろうか。

「まぁ、待てよ。お前の事待ってたんだからよ」

「はい?」

 不良の一人はへらへらと笑いながら立ち上がると手に持っていたタバコを地面に投げ捨て、彼女へと近づいてて行く。

「待ちくたびれたよん? 沙月ちゃ〜ん?」

「……タバコ、辞めてないんですね」

 その顔は見た事があった。確か彼女が喫煙疑惑で退学にさせた先輩だ。

「お前が余計な事しなきゃ数本数は減ってたかもな」

 頭が悪そうにけらけら笑いながらもう一人が近づいてくる。

「ったく、ツラ見たらますますイライラして来たわ。俺たちさぁ、沙月ちゃんのせいで人生めちゃくちゃなんだわ?」

「自業自得でしょ?——キャッ」

 癇に障ったのか彼女の腕を掴んで、壁に押し付けた。思わず悲鳴を上げる彼女に少し血が熱くなるのを感じた。

「ああ?チクったのはお前だろうが?」

「っ……じゃあ、見つからなきゃ良かったじゃない。体育館の裏で吸ってるなんて、見つけてくれって言ってるようなものよ?それともニコチンで馬鹿になっちゃったのかしら?」

「んだとっ!?」

「……言い返せないのね、やっぱり馬鹿にーー」

 パンッ——と響き渡る平手打ちの音。突然頬を叩かれ、普通なら目を丸くするところなんだろうが彼女はキツく睨み「……暴力振るうしか出来ないなんて、やっぱり馬鹿ね」と悪態をついた。鋭く、相手を萎縮させる目で。鋭い光が先輩達を串刺しにしていた。刺された側は何も言い返せず、息が詰まったように固まってしまっていた。

「……ま、まぁいい。とにかくよ、いらついてたんだよ。なぁ……?」

「…………。」

「そーだぜっ。まぁな、んなときによぉ、俺たち聞いちゃったんだなぁ?」

 必死に動揺を隠し、余裕を取り戻そうと歌うように2人は告げる。

「おまえ、自分の父親とやってるらしいな?」

 彼女の顔が微かに強ばった。

「ならよぉ、俺たちともやれるよな?それでチャラにしてやる。な、いいだろ?」

 完全に形勢逆転だった。彼女の隙を2人は見逃さず、責め立てる。

「一回も二回もかわんねぇって、な?」

「誰があんた達なんかと……!!」

「……ぁ?」

 壁にグッと押し付けられ苦しそうにしながらもその目の光は弱まる事は無い。先輩達をジッと見据え、抵抗していた。

「お前、自分の立場分かってねぇみてぇだな」

「おぃ、やっちまおーぜ?」

「だな。良いよな?生徒会長さんよ?」

「——ッ!」

 そのとき、何が起きたのかはよくわからない。彼女の足に先輩達の手が触れ、嫌らしく笑う顔が彼女に近づいた。多分このまま彼女は2人の男に犯される。男性と女性の体格差はそう覆せる物じゃない。犯られるんだ、父親以外の男にも——。そう思って見ていた、ハズだった。

「……ぁ?」

 いつの間にか僕は、2人の先輩の前へと足を踏み出していた。

「なんだてめぇ?」

「神木……クン?」

 自分が自分でないように感じた。本来の僕はこの僕の後ろに浮いていて、もう一人の僕がそこに居る。そんな奇妙な感覚に陥った。

「手を離せよ」

「はぁ?」

 何を僕はこれほどまで苛ついているのか分からない、やらせておけば良い。好きに。僕はそれを眺めているだけで満足だろう?なのにその想いとは裏腹に僕は。

「彼女から手を離せって言ってんだ……!」

 怒りに身を任せて、怒鳴っていた。

「はいはい、どっかいきまちょーねー?」

「離せよ」

「はぁ?」

「離せって言ってんだろ!」

「うっせぇ!」

「ぐっ——」

 腹に蹴りを入れられて息が詰まる。体がくの字に曲がって立っていられずそのまま膝をつく。口の中いっぱいに胃液の味が広がって——。

「かっ、神木君!」

「んだよ、よえー癖にでしゃばってんじゃねぇーよ?」

 何をしてんだよ、僕は……。どうして僕はこんなに——。

「離せよ……」

「あ?」

 目の前にある足を掴む。

「離せって言ってるのが聞こえないのか……!」

 目の前が回転した。頭がぐわんぐわんと巡り、蹴られたのだと気付くまでしばらくかかった。アスファルトのざらざらした感触に頬が痛む。ズキンズキンと蹴られたところが響く、脈打つたび痛みが走る。何してるんだ、僕は……。訳が分からない、なんでこいつらは彼女に手を出して、僕はそれをかばおうとしてるんだ?分からない、分からないけれど……。頭の血が沸騰しているかのようだった、目の前の2人が憎くてたまらなかった。人を足蹴にし、彼女に手を出すこの2人が。……ああ、そうか、憎いんだ。この2人が憎いんだ。理由なんてどうでも良い、彼女に手を出すこの2人が憎い。そう、憎い。憎い、憎い、憎い。彼女に触れるこいつらがーー。

「消えろ……」

「ァ?」

 だからここで寝てる訳にはいかない。

「消えろよ……!!」

 彼女を渡す訳にはいかない。

「ぉ、おい、こいつやべぇって」

 絶対に、渡さない……。

「なっ、なぁっ!?」

 彼女は、僕の物だッ。

「——消えろォッ!」

「いっ、行こうぜ!」

「あっ、ああ……」

 彼女を解放し、逃げるように去って行く先輩達。あんな奴らに渡してたまるか……。

「か、神木クン……」

 気がつくと彼女がすぐ傍に居た。

「だ、大丈夫……?」

 心配そうに屈み顔を覗いてくる。良い香りだった。思えばこれほどまで近づいた事なんて無かった……。

「ああ、うん……。たいした事な——ッ!」

「頬擦りむいてる……。ちょっと待って、手当てするから」

「……ありがと」

 鞄の中から絆創膏を取り出して僕を手当てする彼女。それは知らない顔だった。生徒会長でも、あの儚い少女でもなく、至って普通の同年代の女の子。初めて出会う本当の彼女が、そこに居た。

「……痛くない?痛かったら言ってね?」

「大丈夫」

 丁寧に絆創膏を張りながら僕の事を心配してくれている。不思議と心地よかった。僕の望む彼女ではないけれど、彼女に心配されながら手当を受けるのは何だか照れくさくて、でも嬉しかった。永遠にこの時間が続いてほしいと思うほどに。

 僕はこの見返りが欲しくて彼女を助けたのか……?

 いや、違う。そうじゃない、僕はあの2人に彼女を渡したくなかった。それだけなんだ。自分の為に彼女を助けた。彼女はそんな事も知らずに「ホントにありがと」と軽く頭を下げる。一人の女の子として。

「どうして助けてくれたの?」

「……目障りだったから、かな」

「それだけ……?」

「うん」

「……そっか」

 事実それだけだ。彼女の事なんてこれっぽっちも考えてない。僕の身勝手な理由。彼女を渡したくなかったという。

「ねぇ、神木クン」

「なに?」

「……ううん、なんでもない。助かった。ありがと」

「そう。家まで送るよ、またあいつら戻って来たら大変だろうし」

「え、でもそんな——」

「ほら、行くよ」

「あっ——」

 彼女の腕を掴み歩き出す。そうだ、渡すわけにはいかない。あんな奴らには……。それにしても、「神木クン」って名前、覚えていてくれたのか……。クラスじゃ全然話した事無いのに……。

 彼女の性格からすれば当然なんだろうけど、それでも少し嬉しかった。彼女が僕の名前を呼んでくれた事が。

「……ねぇ」

 半歩後ろを歩く彼女がためらいがちに尋ねてくる。

「らしくない、って思ってる?」

 僕の顔を伺うように。

「……別に。あんな事されたらショックなの、普通じゃない?」

「そっか……」

「うん」

 そこにいるのはこれまで見て来た彼女じゃなかった。凛と張りつめた空気も、鋭い目に宿る光も、自然と人の視線を集めるオーラも、全て消え去っていた。なんてことのない、普通の少女がそこにいた。

「……君は信じてないの?」

 しばらく続いた沈黙を破ったのは彼女だった。

「なにを?」

「私が……その……」

 僕の半歩後ろを俯きながら歩く。ああ、なるほど……。

「ああ、別に」

「別にって——」

「興味ないから。そんなこと」

「……そっか」

「うん」

 全ての元凶が僕だと知ったら彼女はどう思うのだろうか。憎むだろうか、僕の事を。責任を取るように迫るだろうか。あの先輩達のように退学処分だろうか。

「……ありがと」

「別に」

「……うん」

 少し胸が痛んだ気がした。学校なんてものはどうでもいい、学園生活に未練は無いし通信制に変えたって問題は無い。だけど彼女に嫌われるのは頂けない。自分のやった事だとは絶対にバレる訳には行けない、そう思った。恋人になりたい訳じゃない、だけど彼女の事は……いやあの表情を見せる彼女は独り占めしたかった。

「ここだよ」

 後ろで彼女が足を止めた。いつの間にか見慣れか彼女の家の前についていた。

「ありがと、わざわざついて来てくれて」

「いいよ。気にしないで」

「それじゃ」

「うん」

 そう言って中へと入って行く彼女が微かに赤みがかって見えた。だけどそれはきっと夕日のせいで、僕の思い込みだと思った。彼女に惹かれていた。これまでとは違う意味で。生徒会長としての彼女、僕が求めて来た彼女、そして今日僕の前で見せた彼女。全部彼女なのだろうけれど、同じ人物とは思えなかった。僕は彼女に惹かれているのか……?彼女の見せる表情ではなく、彼女自身に……。

 扉の向こうへと消えて行った彼女を想いつつ足を進める。彼女はあの扉の向こう側で今日もまた父親に抱かれるのだろう。きっと、いつもと同じように。

 なんて事は無い、日常だ。彼女にとっても、僕にとっても。彼女は父親に抱かれ、僕はそれを眺める。苦痛に顔を歪ませ、事が終わるとぼんやり途中を眺める。その様子を眺めるのはとても興奮した、彼女が弄ばれ放置される様子は快感だった。

 なのに——。

 どんよりとした何かがまだ渦巻いていた。僕に写真を撮らせ、クラスメイトにバラまかせた何かが、また蠢いていた。彼女の顔が浮かんでは消えて行く。生徒会長としての彼女、儚げでいまにも消え入りそうな表情の彼女、何処にでも居る女の子のように振る舞う彼女ーーそして父親に貪られる彼女……彼女を想う度胸が絞めつめられ、苦しくなる。なんなんだ、これは、いったい……。

 無性に苛立って来ていた。何に対して……?分からない。彼女の顔が浮かぶ、僕に微笑みかけてくれた彼女、名前を覚えていてくれた彼女……。何に苛ついてるんだ、僕は……いったい何に……!

 歩調がキツくなり、苛立ちを隠せず、地面を踏みつけて歩く。

 何なんだ、いったい、なにが、いったい何が——何を僕を苛つかせるんだ……!

「そうか——」

 ふと気付き、足を止める。

 どうしてこんな単純な事に気付かなかったのだろう。

「彼女は、僕の物だ」

 見上げた空は赤く、染まっていた。


 静かな住宅街に車が一台静かに停車した。町中で見かけるそれも自分の近所で見かけるとなると、また違った印象を受ける。赤いランプが周囲を照らし、野次馬が集まりつつあった。玄関に備え付けられたインターホンの音に出て来た男は酷く不機嫌そうに顔をのぞかせ、同時に凍り付いた。

「こ、こんな遅くにどうしました」

「雨宮不二夫さんですね? 署までご同行願います」

「は、はぁ!?」

「匿名で児童虐待の通報がありました」

「お、俺は別に……」

 僕が思っていた以上に日本の警察は優秀だった。証拠となるであろう映像や画像を送りつけると、意外と速く動いてくれた。捜査状などは持っていないようなので任意同行なのだろうが、有無を言わせず車へと父親を連れて行く。

 なんて情けない姿なんだ。警官に肩を押さえつけられ、野次馬達に見つめられて車へと連れて行かれる。これは罰だ、そうだ、罰なんだ。僕の物に手を出した罰。僕の彼女を傷付け続けた罰。良い様だ、ざまぁみろ。思い通りに進む事態は僕を愉快にさせ、自然と笑みがこぼれた。

 これで邪魔者は居なくなる……これで……。これで、彼女は僕の物だ……!

「おっ、お父さん!?」

 玄関の声に目をやると彼女が立っていた。肩で息をし、パジャマが少しはだけている。先ほどまで手にかけられていたのだろうがもう心配ない、彼女はこれ以上父親に汚される事は無いッ!

「沙月! お、お前もなんか言ってやってくれ! 俺は何もしてねぇって!」

 ——情けないなぁ、雨宮不二夫。いつも彼女に取ってる態度はどうした、傲慢で暴力的で、一方的に彼女を痛めつけるあの態度は……!

「雨宮沙月ちゃん?」

 事情を飲み込めない様子の彼女に警官の一人が近づいて行く。

「は、はい」

「事情は把握しているから、何も心配しなくていい。中へ入ってなさい」

 少し若布の警官はそう言うと彼女を優しく中へと返そうとする。

「さ、沙月ぃっ……!」

「早く乗るんだ!」

 その声に車を振り返るが、彼女は何も言わずただそれを見つめていた。その表情からは何を考えているのか読み取れない、呆然と車に乗せられる父親を見つめ。扉が閉まるとどこか悲しそうな表情を見せた。

「また詳しい事を聞きにくるから、明日の午後はお家に居るかな?」

「……はい」

「そうか、大変だろうけど、弟クン達を守ってあげてね」

「え……?」

 いつの間にか眠っていた弟と妹がまぶたを擦りながら彼女の後ろに立っていた。なにが起こっているのかよくわからず、「どーしたのー……?」と眠そうにズボンの裾を引っ張っている。

「困った事があればいつでもご連絡ください。では。」

 そう言い残し、警官は車に乗り込むと彼女の父親を連れて消えて行った。

「おとーさんは—……?」

「おとーさんわるいことしたのー?」

 子供達は父親の犯して来た行為を知らないのであろう、純粋に父親の事を心配しているようだった。

「大丈夫、大丈夫だからもう寝なさい?」

「んー……」

「ほら、明日遅刻するわよ?」

「はーい……」

 しぶしぶと中へと戻って行く兄弟達。その様子を見守るともう一度車の去って行った方向を見つめ、やはり悲しそうな顔を浮かべていた。

 彼女にとっても父親であったのだろうか、あんな親だとしても。

 体を張り、自分を傷付けながらも守り続けて来た平和を僕は壊した。彼女の意思なんてこれっぽっちも考えず、ただ自分の為だけに。彼女を他の誰かに取られたくないという一心で。

 余計なお世話だったかもしれない、良い迷惑だったのかもしれない。彼女はどう思っているのだろう、この事を。その表情を見ていると、胸がズキズキと痛んで来て、逃げるようにその場所を立ち去った。

 いつの間にか愉快な気持ちは消え、虚しさだけが残っていた。


 彼女から呼び出されたの翌日の放課後だった。

 噂が広がるのは早い。彼女の父親が逮捕されたという知らせはあっという間に校内に広がり、駆け巡った。それは同時に「彼女に関する噂は本当だった」という裏付けであり、彼女に対する嫌悪感は確かな物となった。しかしながら父親が逮捕された事によって「父親に襲われていた、彼女は悪くない」という考えが起こり、嫌悪感と同情心の間で多くの生徒が揺れ、どう接すれば良いのか決めかねているようだった。

 そんな中彼女はいつもと変わらぬ風に登校した。凛と姿勢を正し、瞳に鋭い光を宿して、生徒会長のあるべき姿を体現するかのように堂々としていた。大方の事情を教員達は把握しているらしく、彼女に気遣うそぶりを見せた物の、「問題ありません、大丈夫ですから授業の続きを」と突っぱねられていた。

 タダでさえ注目を浴びているのだから今日位休めば良い物を……彼女の強さを改めて思い知らされた。

 そんな彼女が突然僕に話しかけてくる物だから、普段誰にも注目されない僕まで視線を浴びるはめになった。クラスメイトがこちらに向ける視線は居心地が悪い。「どうしてあいつなんだ?」「え、そう言う関係?」「どういう事?」疑問や好奇心、各々がそれぞれの理由でこちらを見つめひそひそと話し合う。

 耐えきれなくなった僕は彼女を連れて教室から飛び出した。

 ……彼女はこんな視線に耐えて来たのか……。

 それそそうさせたのは自分だと言う事実が重くのしかかって来ていた。


 屋上へと続く扉を彼女が開けると、心地よい風が僕たちを包んだ。秋にしては清々しいほどの青空が空一面に広がっている。

「いいの?生徒会長がこんなところに入って」

「いーの。屋上の使用は生徒会長の特権なんだから」

「職権乱用だ」

「そうでもしなきゃ、激務はこなせないのですっ」

 それまで張りつめていた空気が嘘のように、彼女はのびのびとしていた。生徒会長ではない、普通の少女。本来の彼女はこうあるべきなのかもしれない。両腕を伸ばし、風に身を委ねている。長い髪が流されて気持ちよさそうに踊っていた。

「——どうしたの?」

「ぇっ——」

 急にこちらを見つめられ、ドキッと胸が高鳴った。顔が赤くなるのを自分でも感じる。落ち着け僕、落ち着けっ。

「いや、なんかぼーっとしてたから……」

「な、なんでもないよ」

「そっか」

「うん」

 彼女は歩いて行って転落防止用のフェンス越しに街を眺める。何も起こっていない、平和な世界。とても静かで、あの中で人が生きている事すら何処か嘘のように思えてくる。下校中の生徒が校門から駅へと向かい、グランドからは野球部のかけ声が耳に届く。何処か遠く、別の世界のように。

 無数の人々が暮らし、その中に僕たちもいた。外から見ればなんて事も無い、何も無い世界。けれどその世界の中に僕たちはいて、彼女はいた。悪夢のような日々を送り、その日々を僕は拡大させていた。謝るべきなのかもしれない、僕は。

 彼女に悪かった、と伝えるべきなのかもしれない。

 そうすれば、もしかすると僕たちは——。

「……あのさ」

 そんな事を考えていると彼女が口を開いた。何処か遠くを見つめ、語りかけてくる。

「君だよね、通報したの」

 彼女のまっすぐな瞳が僕を捉えていた。透き通っていて、吸い込まれそうな錯覚に陥る。柔らかい光が僕を映し出していた。

「どうして……それを……?」

「やっぱりそうなんだ……」

「……カマかけたんだ」

「確証はなかったの。けど、なんとなく神木クンだろうなって」

 何処か遠く、変わりゆく雲を見つけながらそう話す彼女はやはり寂しげに見えた。

「余計なお世話だったかな」

 勝手に君の平和を壊して。

「ううん、いいの。感謝してる」

 その笑顔は触れば崩れてしまいそうな位、脆かった。

「いつかこうなるって分かってたから」

「……そっか」

「うん——」

 そう頷いた顔は、僕からよく見えなかった。少し潤みを帯びたそれは、僕に彼女から目をそらさせる。日は傾き始め、空が赤く変わりつつあった。もうじき夜がやってくる。彼女の家では弟達が帰りを待っているのだろう。訳も分からず、父親がいなくなった事に戸惑いながら。

「ホント、ありがとね」

 彼女は泣いていたのかもしれない。けれどそっちを向くのは何だか野暮だと思って、しばらく夕日を眺めていた。

 彼女に取って父親はそれほどまでに大切な存在だったのだ。たとえ自分に手を挙げ、襲おうとも、父親であったのだ。でも、どうしてなのか。どこで父親は——彼女は踏み外してしまったのだろう。その道を、本来あるべき父と子という関係を、どこで……。

 そんな事僕に取ってはどうでも良い事なのかもしれない。僕は彼女の父親が気に入らなくて、僕の物に手を出す男が気に入らなくて排除した。だからこれでよかった、それでいいんだ。これ以上の結果は無い、これ以上の追求もいらない。邪魔者はいなくなった。これで独り占めできる。彼女を。気分よく、好きなように陥れられる。

 だけど。

 それいいのか?それで、僕は満足なのか?彼女の絶望に沈む顔は見たい、彼女が苦痛に耐える姿は想像するだけで僕を激しく突き動かす。だけど、それでいいのか?それで。これまではそうするしかなかった、生きる世界が違った。手を伸ばしたって届かない、だから彼女の世界を壊した、眺めて満足していた。

 だけど。

 いまは違う、手を伸ばせば届く。届いてしまう。彼女に。彼女に触れる事が出来る。僕の手で。

 ならば、だったら、そうだとするのなら。僕は彼女の事を知るべきなんじゃないだろうか、彼女の事を……。もし仮に可能性があるのだとすれば……僕にも彼女に触れる事が出来るのであれば——。

「一つだけ聞いても良いかな?」

 それは単純な好奇心だった。言い換えれば僕の欲だったのかもしれない。

「どうして、受け入れちゃったの?」

 彼女にもっと近づきたいという。僕の欲。

「お父さんの事、どうして拒まなかったの?」

 ——だけど後悔するになった。

「それは……」

 聞かなければ良かったのだと。

「……もしよければ、教えてもらえないかな」

 彼女の事なんて、知らなければ良かったのだと。

「キミのこと……」

 ……後悔したんだ。


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