夢の中へ・・・
「夢の中へ・・・」
今は春。始まったばかりの春。優しい陽射しやかすかな春の匂いにやっと気づくことができたくらいでまだ暖かいとはいえない毎日が続いている。そんな春の日に「ちひろ」は高校に入学した。
ちひろの高校生活初日。教室にはちひろと同じく希望を胸にした高校生がたくさん集まっていた。見たことない人ばかりでちひろは少し緊張気味。みな新しい制服にどことなくぎこちなさがあり、それでいて新鮮さにあふれていた。ちひろの入学した高校にはちひろの友達は少なかった。ちひろの友達はみな違う高校に行ってしまったのだ。
「新しい友達を作らないと……。」
ちひろは教室を見回した。すると、窓際にいるある少女と目があった。しかし、ちひろは慌てて目をそらし、教室の廊下側のほうへ歩いていった。実はちひろは女子が少し苦手なのだ。小さい時からほとんど男子の友達としか遊んだことがなかったちひろは女子と話すだけでも一苦労。
「初日からいきなり女子に話しかけるのはまずいよな。むしろ全然しゃべれないし…」
ちひろはそう思いながらももう一度だけ少女を見た。明るい少女だった。楽しそうに友達と話していた。勉強もスポーツも何でもできそうに見えた。周りには友達がたくさんいた。そんな少女が眩しく感じた。でもその子は女子。ちょっと苦手な人。だからちひろは他の友達を探した。すると、近くにちひろを見ている男子がいた。ちょうどいいと思い、近づいて話しかけてみた。
「ねぇ、名前なんていうの?」
「ん、俺は伊吹。」
「伊吹くんか。よろしく!おれはちひろだから。」
伊吹と言う名前らしい。ちひろよりも背が高い男子だ。
「ちひろ?なんか女みたいな名前だな!」
伊吹が笑顔で言った。
「みんなによく言われる。慣れちゃったよ!」
ちひろも笑顔でかえした。「伊吹はいいヤツみたい」ちひろはそう思った。運のいいことに、伊吹は友達が多いらしい。色んな人と話していた。ちひろもその中に入れてもらった。だからちひろの友達はすぐに増えていった。
一週間が過ぎたくらいの時。高校生活に慣れてきたちひろには他のクラスの友達もできていた。しかしあの少女、「柏葉 結衣」とはまだあまりしゃべったことがなかった。結衣はクラスの学級代表になっていてクラスの人気者でいつも明るかった。今ではちひろはそんな結衣がうらやましかった。
ある日の学校帰り。学校近くの坂道でちひろは家の鍵がないことに気づいた。カバンの中を何度も探しても見つからない。慌てて学校へもどり教室へ向かった。時間も遅いし、もう誰も教室にはいないと思った。たが、そこには結衣がいた。
「あっ!ちひろくん。どうかしたの?」
ちひろはいきなり話しかけられてしまった。
「…うん、鍵がないんだ。」
ちひろは机の中を見た。しかし鍵は見つからない。
「どうしよう……見つからないや。」
「カバンの中は?ちゃんと探したの?」
結衣は少し心配そうな表情を浮かべた。
「探したけど見つからない……職員室に届いてるかな?」
ちひろが結衣に聞いた。
「届いてるかも……でも確か今は会議中だよ。」
「どうしよう困った…」
ちひろは鍵がなくて帰れないのに、気になっている結衣と一緒にいるのだからとにかく緊張した。ちひろはこの二人きりの空気が耐えられなかった。
「今日はあきらめてまた明日さがしたほうがいいんじゃない?」
「そうするかな。どこかで落としたかもしれないし、探しながら帰るよ。」
ちひろはもっと探してから帰るつもりだった。でもこの場から逃げ出したいと思ってしまった。だから急いで教室を出ようとした。しかしその時、
「そうだ!ちひろくんに頼みごとがあるんだけど……いい?」
突然結衣に話しかけられたのだ。ちひろは驚いた。結衣が自分に頼み事なんてするとは全く思っていなかったから。ちひろは結衣の顔もまともに見れずに不自然に目をそらした。
「…別にいいよ。」
一応返事はした。
「ちひろくんは口堅いほう?誰にも言わないでほしいんだけど……。」
「うん。大丈夫。」
「やった!じゃあ安心っ!けど、一応まじめな話だから笑わないでね。」
結衣は少しの間、話すのをためらった。その場の空気が一瞬静まり、そして結衣は照れくさそうに言った。
「あ…あのね…夢の中に行ってみたくない?」
「えっ?」
ちひろはわけがわからず聞き返した。
「なんでもいいから答えてよ〜」
ますます照れる結衣。
「まあ行けるとしたら行きたいけど………」
ちひろは結衣のことを思って答えた。
「本当っ!!じゃあ――」
その瞬間、ちひろの目の前が一瞬真っ暗になった。そしてちひろは気づいたらあたり一面に広がる草原の中にいた。遠くの山まではっきり見え、草原と山と空は他に何も見えないくらいにひろがっていた。風が吹いていて気持ちいい場所だ。
「な、何なんだいったい?!」
ちひろは驚いた。急に景色が変わるのはおかしいと思い、目の前の景色を疑った。
「どう?すごいでしょう?」
ちひろのすぐそばに結衣がいた。そしてまた、目の前が真っ暗になった。気づくとちひろは教室にいた。綺麗な景色は一瞬のうちに消えた。
「今のはいったい……」
「もうやだぁ〜草原なんて!」
結衣は真っ赤になって顔を隠した。ちひろは何がなんだかわからなかった。
「ごめんね〜起きてる人には少しだけしか見せられないの。続きが見たかったら寝るときに左手を左の頬につけながら寝ればいいからっ!いい夢見てね〜バイバイっ!」
そう言うと結衣は照れくさそうなまま急いで帰ってしまった。ちひろは「またね」とも「バイバイ」とも言えず、ただ立ち尽くすだけだった。
その日の夜、ちひろはなかなか寝付けないでいた。他人が自分に秘密を話してくるなんて滅多にない。結衣の言っていたことは良くわからないが、せっかく彼女が打ち明けてくれたのだから裏切るわけにはいかないと思い、とにかく左手を頬に当てたまま眠ることにした。そしてちひろは眠りに入った。
「あ、朝か・・・・」
「おはよう!ちひろくん。」
結衣の声がした。
「うわああっ!か、柏葉さん?!」
「うん!そうだよ。でも実はおはようじゃないんだけどね〜。よかった来てくれて!ようこそ〜夢の中へ!」
ちひろは辺りを見回した。そこにはまた草原が広がっていた。
「すごいでしょう?私の特技〜。」
「すごい……でもなんで草原だけなの?」
ちひろが何気なく聞くと、結衣は少し照れながら言った。
「えっと………それはね、夢を見てる人が私をどう思っているかで決まるの。草原は一応……憧れてるってことなんだけど……」
ちひろは赤くなった。そして言った。
「でもどうして俺なの?他の友達もきてるの?」
「いや、ここには一人しか呼べないの。」
「じゃあ何で俺なの?」
「あ、うん、まあ色々あって。」
結衣は照れて両手で顔を隠した。
明るい春の日差しが二人を包んでいく……。風が二人の笑顔を運んでいく……。夢の中とは思えない現実感。春の匂い、春の日差し、風の音、全てが体で感じられる。
「ここは本当に夢なの?現実みたいだけど。」
「大丈夫、夢の中よ〜。かなりリアルだけどっ!」
「これじゃあ寝てないようだ。疲れて明日がつらそうだよ……。」
ちひろはせっかく結衣と一緒にいられるのに少しマイナス思考に考えしまった。でも、
「大丈夫!ここは夢だから体に負担がかからないの。私も何でかわからないけど、逆に体力が普通に寝るより回復するのよ〜!」
と結衣が明るく答えてくれた。ちひろは結衣の話を聞いている時、
「あれっ?!町だ!町が見える。この前は何も見えなかったのに。」
ちひろは町を見つけた。すると結衣はちひろの手をつかんで町に向かって走り出した。ちひろは急に胸が苦しくなった。
「あっ!この前の方法じゃ鮮明に見せられないのよ。ゴメンね〜。ついてきて!町、案内してあげるからっ!!」
町に近づいていくと、立派な時計塔が見えてきた。少し小さいが活気のある町だった。
「あの時計塔の鐘がなったら夢は終わり。そして目覚めるの。」
と結衣が言った。 町へ着くと、小さな子供が結衣を出迎えた。
「結衣お姉ちゃんおかえり!早く遊びに行こう!」
結衣の弟らしい。ちひろ達より4、5歳くらい小さいようでとっても子どもっぽい。
「私の弟。俊って言うの。可愛いでしょ〜」
ちひろは結衣に弟がいると初めて知った。俊が結衣の手を引っ張った。しかし、
「ゴメンね。今日はダメ…。この人に町案内しなくちゃ。」
と結衣が断った。
「新しい人連れてきたの?!姉ちゃん、その人……」
「待って!言っちゃダメ!」
結衣はあわてた様子で言った。
「ちひろくん……ゴメンね。何でもないから。この町で現実の世界から来てるのはわたしと俊だけ、他の人は夢の世界の人なの。」
結衣は何気ないない風に話題を変えた。俊はさびしそうな顔で帰ろうとしていた。
「ねえちひろくん、俊も一緒じゃダメ?」
結衣はさびしそうな俊を見ていられなかった。この時ちひろは結衣がとても弟思いなんだと思った。
「いいよ。柏葉さんって弟に優しいね。」
ちひろがそう言うと結衣は少し照れてしまったが、俊は大喜びだった。
町案内の最初は図書館。古い建物だが大き目の図書館だ。古いものから新しいもの、違う言語で書かれているものなど、色んな本が置いてあって、ちひろは興味がわいた。実はちひろは読書が好きだった。ちひろがそのことを結衣に言うと、結衣は案内して良かったと笑顔を浮かべた。
次は市場。町の多くの人がこの市場を利用するらしい。結衣はおやつにといって三つリンゴを買い、ちひろと俊に分けた。現実の世界のリンゴより形は悪いがとても甘くて美味しい。俊の大好物だそうで、俊は「もう1個!」と結衣にねるのだった。ちひろは他にも、広場や夢の中での結衣たちの家にも案内してもらった。
そんなことをしているうちに日も暮れて、辺りがオレンジ色に染まった。そして時計塔の鐘がなった。
「ゴオオオン、ゴオオオン」
「あっ!もう帰らなくちゃ。バイバイ!また学校でねっ!」
そう言って結衣は最後に笑顔でちひろの目の前から消えてしまった。そしてちひろの目の前が真っ暗になった。またちひろは結衣に何も言えなかった。
「ちひろ!ちひろ起きなさい!」
母親の声がした。ちひろはあわてて目覚めた。でもいつもより気持ちのいい朝だなとちひろは思ったのだ。
「あら?今日はいつもより目覚めがいいのね。いつもは寝ぼけているのに。」
母は何気なく言った。
「そうかもね。行ってきます。」
ちひろは学校へ向かった。学校へ着くと結衣女がいた。
「はいこれ、鍵。職員室に届いてたよ!」
「あっ!すっかり忘れてた。ありがとう。」
ちひろは嬉しかった。この前まで全然話したことがなかった憧れの人とこんなに仲良くなれたのだから。
そしてその日の放課後、学校が終わってちひろは帰る用意をしていたとき結衣が近づいてきた。
「今日も来てくれるの?」
「うん。行くよ。」
「本当!じゃあ待ってる。夢でまた会おうねっ!」
結衣はまた急いで帰っていった。
それからちひろは毎日夢の中へ行くようになった。ちひろは毎日夢の中で幸せな日々をおくっていた。ちひろのそばにはいつも結衣がいた。そして夢の世界に来て二週間が過ぎた。ちひろは今日も夢の中に行った。夢の中の草原、そこにはいつものように結衣が待っていた。けれど、その日は結衣の様子がいつもと違っていた。普通なら笑顔で待っててくれるのに今日は少し何かを思いつめたようなそんな表情だった。
「どうかしたの?」
ちひろが何気なく結いに聞くた。
「ううん、何でもないの…。」
ちひろは心配だったが、あえてわけを聞かないことにした。それはちひろの小さな優しさ。
そしてなんと今日は俊が時計塔の中にあると言う秘密の宝物を見せてくれるのだそうだ。このことは結衣も知らなかった。
「とにかくついてきてよ!」
大はしゃぎの俊。俊は時計塔の中に入ると、「関係者以外立ち入り禁止」と書かれたドアをくぐり抜けて奥へと進んだ。ちひろと結衣はためらったが、「今の時間に関係者なんて来ないよ。」と俊が笑って言ったから、二人は俊についていくことにした。薄暗くて細い通路を進んだ先には階段があり、それを上ると部屋があった。時計塔の時計を整備する部屋のようだ。レバーとかスイッチがあったからそれがわかった。俊が言うには、この整備室の隣の部屋に秘密の宝物があるらしい。 隣の部屋には小さな窓、木の机と椅子が一つずつあって、机の上には一冊の本、そして部屋の中にはちゃんと宝物があった。部屋の窓辺に掛けてあったのは、ガラスで作られたペンダントだった。
「きれい………」
結衣は思わずつぶやいた。ちひろはペンダントを手にとって見た。ペンダントは角度を変えて見ると、色が変わって見えた。そしてさらに不思議なことに、ガラスの色は時間が経つと透明になってゆく。それに気がついたのは俊だ。机の上にある本にそのペンダントことが色々書かれているという。どうもそのペンダントの色が透明になったら時計塔の鐘が鳴るらしい。
「今のガラスの色からなら、あと一時間も残ってないよ。」
俊はガラスの色で残り時間がわかるのだ。俊は鐘を鳴らしに人が来るかもしれないと言って、3人は時計塔から急いで出た。
そして時計塔の鐘がなろうとしていた頃、俊は家に帰り、結衣とちひろは町を出て草原にいた。その時、結衣が真剣な表情で口を開いた。
「ねぇ、わたしがちひろをここに呼んだ理由をしえてあげようか…。」
場の空気が変わった。前に二人でいた教室に似た空気だった。
「この前は、恥ずかしくていえなかったけど、今日はちゃんと言うね。」
ちひろは胸が苦しくなった。自分がすごくドキドキしているのがわかった。
「実はね、ここには好きな人しかつれてこれないの。だから……………好き。あなたが――」
それを聞くと、ちひろの心臓の鼓動は燃えるように音をたてるのだった。
「あっ……えっと、その…」
ちひろはすごく緊張していた。憧れの人に告白されるなんて思ってもいなかった。ちひろの心の中ではもう答えが出ているのに言葉にすることができなかった。だがその時、ほんの一瞬、ちひろの目の前が暗くなった。そして気づくと、草原が広がっていたはずのこの場所がいつの間にか一面の花畑に変わっているのだった。
「ありがとうっ!とってもうれしい――」
そして時計塔の鐘がなり、ちひろは目覚めた。ちひろは急いで学校に行った。学校につくと結衣がいた。その日の結衣はいつもより明るかった。そして放課後、
「ありがとね。花畑は好きってことだから……」
結衣が言った。ちひろはほっとした。
「でもズルイよ。好きな人しかつれてこれないなんて言われたら絶対に嫌いなんて言えないじゃん。」
「まあね〜」
「そんなぁ……。ねえ、おれのどういうところが好きなの?」
ちひろは少し恥ずかしかったけど思い切って聞いてみた。
「ちひろくんの純粋さってとっても好きよ。優しさだってある。わたしはちひろくんの優しさに触れてみたいと思ったの。」
ちひろは嬉しかった。そのあと二人は一緒に帰ることにした。黄昏が二人を優しく包み込んでゆく様だった。
それから二人は学校でも一緒にいる様になった。幸せな日々。毎日自分のすぐ近く結衣がいる幸せ。そんな幸せがいつまでも続くとちひろは思っていた。しかし、二人がつきあってから二ヶ月が過ぎようとした頃――
「あっ、伊吹からメールがきてる。」
ちひろ伊吹からメールが届いていたことに気づいた。だがメールの内容を見ると、ちひろは物凄く驚いた。
「大事件! お前の彼女がバイクにはねられた!」
ちひろは「そんなことあるはずない!」と思った。いや、そう疑うことしか出来なかった。とにかくちひろは急いで伊吹に電話した。
「本当なのか?!結衣がはねられたって!」
「ああ!女子の友達が一緒にいて見たっていってた!」
「大丈夫なのか!?」
「わからない…。病院にはこばれたって言ってた…。でもきっと大丈夫なはずだ。すぐよくなって……あれっ!ちひろっ!おい!」
ちひろは電話を切った。
「母さん、俺、もう寝るから。起こさないで。」
「ちょっと、まだ9時よ。どうしたの?」
「疲れたんだよ!!」
母には事件のことは何も言わず、ちひろは夢の中へ急いで向かった。
ちひろの胸は不安でいっぱいだった。ちひろは夢の中へ行くとそこはいつもと違って真っ暗な夜だった。冷たい風はビュービュー吹いてちひろの
気持ちを落ち着かせない。
「変だ。いつもは明るいのに…」
「ちひろっ!」
結衣がいた。結衣は今にも泣いてしまいそうな声で叫んだ。
「来てくれたんだ……よかった――」
そう言うと結衣は悲しそうな顔をしてうつむいた。
「大丈夫なのか?!はねられたって聞いたけど…」
ちひろがそう聞いても結衣は黙ったままだった。
「どうなんだよ!答えてよ!」
ちひろが叫んだ。すると結衣が悲しげな表情のまま答えた。
「実はね、さっき俊がここにきて教えてくれたんだけど、わたしずっと意識がなくて……ケガの手術は成功したんだけど体が弱っててもう長くもたないって……」
結衣は泣き崩れた。
「ゴメン…ゴメンね……ここが夜になるのはちひろが不安なときなの。ゴメンね心配かけて――」
ちひろはどうしていいかわからなかった。
「最後にわたしにできることがある。実はわたしも時計塔の部屋にあった本を読んだの。そして、あのペンダントを壊せばここにつれてきた人のここでの記憶を全部消すことができるって……」
「それどういうこと?!」
「だからあのペンダントさえ壊せば今までのこと全て夢だったことにできるの!そうすればちひろはあまり悲しまずに済む。だから――」
結衣は悲しそうに言った。
「わたし達が出会わなければ!出会わなければ――」
「それじゃあ今までのことは何だったんだよ!俺が悲しまないために一番大切な記憶を消すのか?!もしそれで結衣が生きてたらどうなる?!後悔するんだろ?!それでもいいのか!!そんなこと、絶対にさせない!まだあきらめるなよ!!」
ちひろは叫んだ。今までで一番叫んだ。そして結衣が泣きながら言った。
「わかった。消さない。本当にゴメンね……」
結衣が泣きながら謝るのを聞いてちひろの目から涙が流れた。
「謝るのはおれのほうだ。守ってあげられなくてゴメンな……」
「ううん。いいの。一緒いてくれてありがとう!」
結衣は涙目で一生懸命に笑った。可愛かった。そんな結衣の一途な結衣の笑顔が。
「最後まで一緒にいるよ。今まで一緒にいたんだから。」
そして二人は月明かりに照らされながら鐘がなるまで肩をよせあっていた。
「ゴオオオン、ゴオオオン」
そして鐘がなった。
「じゃあね。ありがとう。元気でね………」
ちひろの目の前が真っ暗になった。だがその時、ちひろが一番聞きたくなかったガラスの割れる音がした――
「!!!?」
ちひろは飛び上がるようにして目覚めた。すごく汗をかいて息が乱れていた。「いやな夢を見た」ちひろはそう思った。
「何だったんだ!今の夢……」
朝起きるとちひろには結衣との記憶がなかった。一緒にいた大切な記憶が全て。だからちひろは結衣のことは何も心配せずに、普段通り学校へ行った。そして学校に着くと伊吹にいきなり怒鳴られた。
「お前、柏葉とつきあってたこと憶えてないだと?!ふざけんなよ!」
伊吹がちひろを殴った。ちひろには何がなんだかわからなかった。怒りと不安が混ざっていた空気は、今までに感じたことがないくらい怖い感じがした。ちひろは殴られたせいで口を切ってしまった。血の味がやけに不味く感じる。伊吹が友達二人に抑えられてケンカは終わった。ケンカが終わってもちひろはどうして伊吹が殴ってきたのかわからないままだ。
その時、夢の中には結衣がいた。月明かりもない、暗い夜。結衣はちひろの記憶を消したことを誰もいない時計塔の中で一人で考えていた。もうちひろが自分のことを好きではないことや結果的にちひろを裏切ってしまったこと、そんなことを思うとすごく辛くなるのだった。そしてその時、
「姉ちゃん!!姉ちゃん!!」
俊がとても焦った様子で時計塔の中に入ってきた。
「姉ちゃん!助かったよ!意識はまだだけど、良くなってきたってお医者さんが言ってた!!」
「えっ!?どうして……」
「たぶん姉ちゃんがずっとこっちにいたからだよ。体力だけなら普通より回復するから。」
「そんな…わたしちひろの記憶消しちゃった!」
結衣は驚いた。こんなことになるとは思ってもいなかった。結衣は後悔した。大切な人の記憶を、二人の幸せを消しておいて平気でいられるわけがなかった。
「そんな!姉ちゃんどうするの?!何か方法はないの?!」
「あるにはあるけど、絶対無理よ!ちひろが自分の力でこっちに来ないといけないなんて。」
「自分の力でこっちに来れれば記憶はもどるの。だけど記憶を消しちゃったから夢の中に入る方法だって忘れちゃってる……」
「また呼んじゃだめなの?」
「そうしたらもう記憶は一生戻らなくなっちゃう…」
結衣は今にも泣きそうな顔で言った。小さな窓から風が吹いた。その風は結衣の心に冷たく吹くと、結衣の涙をのせて消えた。
その日の夜、ちひろはケンカで疲れたのですぐ寝ることにした。しかし、ちひろはなかなか寝付けなかった。
「今日、伊吹が言ってたことは何だったんだろう?とても気になる……。大切なことを忘れてる感じがする。朝の夢といい、今日は忘れることが多すぎる。ダメだ!思い出せない……ん?!夢に誰かいたような。誰だろう?誰かわからないけど泣いてたような気がする……」
ちひろは眠りについた。そして結衣は夢の中で泣いていた。後悔の気持ちで結衣の胸はいっぱいだ。心はつらく悲しい炎で燃えているようだった。
「どうしよう!わたしのせいだ。ちひろを……ちひろを信じてあきらめなければよかった。ちひろはもうわたしとのことは憶えてない。わたしの笑顔も涙も!」
結衣から悲しさが溢れる。結衣は部屋から出て行った。俊はそんな結衣を止められなかった。しかし、結衣が時計塔から走り出たその時、
「結衣!!」
そこにはちひろが立っていた。そしてちひろは結いに近づくと、両手で強く抱きしめた。
「………ちひろ!!」
「結衣……心配かけるなよ。」
「ゴメン…わたし………」
「もういいよ。わかってる。」
ちひろが優しくそういうと、結衣はほっとした。心の炎が少しずつ暖かくなっていくようだった。そして空が少しずつ明るくなっていく。太陽がまた昇り、朝焼けがふたりをやさしく包んでいく。
「でもどうして?どうしてこっちに来れたの?本当に消しちゃったはずなのに。」
「よくわからないけど……きっと左手が癖になってるんだよ!」
ちひろが笑顔で言った。
「もう絶対一人にしないから。」
「うん――」
二人は目覚めるまでずっと抱き合っていた。鐘の音がやさしく心に響くまで……
それから二人は決して揺らぐことのない愛の中で幸せな日々をおくった。夢の中でもいろんな世界が広がっている。その世界を二人は毎日一緒に旅をした。実は、いろんなところを旅してみたいというのはちひろの夢だったのだ。大好きな結衣とふたりで一緒に旅ができるなんて、ちひろにはこれ以上の幸せなんて考えられなかった。ちなみに、その旅の中で大人になってちひろと結婚するのが結衣のささやかな夢でもあった。もちろん現実でも。
春が来て、夏や秋が過ぎて冬になってもちひろと結衣は離れることはなかった。そしてこれからも二人はしっかり手を繋いで歩んでゆく――
完




