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魔術師組合  作者: れもすけ
第一章 受難
8/19

 室内が薄暗くなる前に、侍女たちが手燭を持って明かりを灯しにやってきた。それを潮に、帰りの馬車を手配するためファイスが席をはずし、メイは待ってましたとばかりに一枚の紙切れを持ってネーナに見せ、署名欄を指差した。

「本人のサインが必要だ。人妻になる覚悟は?」

 ひとの悪い笑みに、ネーナは頬を引きつらせた。そんなものあるわけないが、その紙――婚姻申請書にサインをしたら、実態はどうであれ確かに他人の妻にはなってしまう。空欄の横には、既にファイス・スタイクスの署名がなされていた。


「えーあー……はい」

 がっくりうなだれたネーナに、メイはくすっと笑った。そして机の上からペンとインクを持ってきて、紙切れと並べてテーブルに置いた。

(おシゴトだ、おシゴト。別に一緒に住むわけでも、イロイロしなきゃいけないわけでもないんだから!)

 心の中でシゴトシゴトと呪文のように唱えながら、ふるえる手で水晶の軸のペンを取り上げる。小鳥と木の実が描かれた陶製のインク瓶に先を突っ込み、思い切って一息に署名した。煩悶を如実に表す悲惨な筆致に、我ながら往生際の悪さを噛み締める。


「……確かに」

 横から覗き込んでいた高貴なお方が大きく頷いて、やっぱり破り捨ててしまおう、とネーナが考えついたときには申請書をつまみ上げていた。

「おめでとう」

 メイはなんの気なしに言うのだろうが、その一言はネーナを打ちのめした。


 おめでとう。人妻。騎士の嫁。ダラハーガまで二人きり――それっていわゆる、新婚旅行?

 いまのいままでどこか他人事だった話が、現実感を帯びて両肩にのしかかった。頬がヒクヒクと引きつっているのが自分でもわかる。

「新妻というのは、もっと晴れやかな顔をしているものだと思った」

 ぎし、と椅子をきしませて、メイがさっきまでファイスのいた場所に腰を下ろした。完璧なラインを描く口元に薄い笑みを浮かべ、長い脚を組み、両腕を重ねてそこにもたれる姿は絵のようだ。ゆっくり観賞する気分でないことが、残念なような割とそうでもないような。


 眉と口をへの字にするネーナに苦笑して、彼はやや強引に話題をかえた。

「組合長とはうまくやっているか?」

「え、うまく……? はい、まぁ普通に」

 魔術師組合の組合長といえば都の名士だから、養女であるネーナがそう訊かれても無理はない。が、この人がその質問をする意味がわからない。なんの探りかと身構えるネーナに、メイは苦笑を深める。

「今回の件で不興を買ったなら、すまないと思ってな。だが俺も塔の石頭には手を焼いているんだ。微罪を盾にして悪いが、親父殿に嫌な顔をされても頑張ってくれ」

「微罪と言っていただけるのは正直助かりますけど、くそ親父がどんな顔したって別にかまわないんです。ただ、同僚に睨まれるのは困りますね」


 自分で言っていまさらながら心配になった。

 需品課は作業量の割りに人手が少ないので、急に何日も空けるとなったら当然他の職員に皺寄せがいく。内勤が主な職場で都合よく出張のネタが沸いて出るわけもないし、そのへんの処理は、そういえばどうしたらいいのだろう。

 バニーにすべて押しつけるか。いや、さすがに大泣きされるだろう。


 口を閉ざして黙り込むと、メイの大きな手がぽんと頭に載せられた。

「ファイスにはさっさと出発してもらわなければならんし、今夜中に俺から組合長に使いを出そう。必要なら人手も回す」

「あ、ほんとですか? それなら問題ないです、ありがとうございます!」

 ほっと安堵して手を打ったところで、ノックもなしにドアが開いた。蝶番の軋む音に振り返ると、ファイスが訝しげな顔でその場に立ち止まっている。

「……出られるか」

 言って彼が差し出したのは、ネーナがくるまれてきた濃紺のマント。退室を促されていると察して、あたたかな掌の下であわててメイに向き直った。


「本日は、えーっと、お邪魔しました。色々帳消しにしていただけるよう、頑張ってきます」

 中途半端な謝辞を述べると、メイは一瞬きょとんと目を丸くした。それから小さく笑って、もう一度ぽんと手を弾ませる。

「明後日の夜には迎えをやる。頼んだぞ」

 露骨な子ども扱いだが、七歳も年上の人にそうされるのは悪い気分ではなかった。

「はい。ありがとうございました」

 そして対面時と同じように――ただし妨害も意地っ張りも抜きで――丁重なお辞儀をしてから部屋を出て、絢爛なる城館の玄関先では侍女から約束どおり焼き菓子の箱を持たされた。表で待っていたのは、来たときと同じ御者と馬車。乗り込む前に菓子のお礼を言うと、無表情だった侍女が少しだけ微笑んでくれた。


「楽しんだようだな」

 小さな扉を後ろ手に閉め、白けた様子でファイスが言う。壁に打ちつけられたカンテラの淡い光に、冴えない横顔が浮かび上がる。膝の上にずっしりと重量感のある箱を載せてほくほくしていたネーナは、素直に頷いた。

「メイは案外いい人だったし、侍女は美人だったし、お菓子は絶品だし。赤豹騎士サマを見られなかったのは残念だけど、概ね満足」

 本来の目的とはまったく無関係のところで納得していると、ファイスの手がひょいと菓子の箱を取り上げた。

「黒竜騎士を目の前にして、赤豹ごときに気をとられるとはな」

 そう言った憮然とした表情が痛快で、思わず鼻で笑った。ネーナにしてみれば、騎士など黒竜も金獅子も関係ない。せっかくだから見てみたい、という珍獣に対するのと同じ興味があっただけだ。元々棲息する場所の異なる人種、今回の件が片づいたらまったくの他人へ戻るのだから。


 この男は、よほど自分に自信があるらしい。もっとも黒竜騎士になるのは難しいというから、相当なステータスには違いないだろう。普段正体を明かせない分、既にバレているネーナには黄色い声で騒いでほしかったのかもしれない。

「すみませんね、気が利かなくて。それ返して」

 明日の朝、ジールにその菓子をくれてやって仰天させるのだ。どこで買ったか教えてくれと尋ねてきたら、交換条件であの薄焼きパイの店の所在を聞き出す。しかもこれは買えるものではないから、だまされたと地団駄を踏むヤツを指差して笑うこともできるという、一石二鳥。


 完璧な計画ににやけるネーナは両手を出したが、ファイスは急に真顔になって箱を足元に置き――あれ、と思ったときには、来たときと同じく窓際まで追い詰められ、さらなる苦境に陥れられていた。

「……で?」

 眉間に峻険な山を刻んだ渋面で、咽喉の奥から搾り出すようにうめく。だがしなやかな身体をひねってネーナに向かい合う騎士は、こともなげに笑って首をかしげた。

「で、というと?」

「この体勢はなんなんだって言ってんだよッ! 離れろよ、顔が近いんだよ!!」

 壁に背をつけ、両脚をファイスの小脇に抱えられ、顔の横に片肘をつかれている。一体なにゆえ、六人乗りの箱馬車の中にいてこれほど密着する必要があるのか理解できない。見えない乗客でもいるというのか、いるならいるでこんな格好を見せることには大いに異議がある。

 精一杯の眼力で睨みつけると、ファイスは目元を緩めて空色の瞳を甘く揺らめかせた。

「恥ずかしがってみせるおまえも可愛いが、そうされるとますます放せなくなる」

「はあっ!? は、恥ずかしがってんじゃない、怒ってんだこのアホ騎士がぁ!!」

「顔を赤らめて潤んだ目をして、牙を剥いても仔猫のようだな」

「こ……っ!?」


 お手上げだ。ネーナは意思の疎通が図れない生き物を前に途方に暮れた。この男は、脳の中まで生息域が異なるらしい。

 むなしく口を開閉させ、あきらめた。この騎士相手にまともな会話を試みると、ものすごい徒労感に襲われる。――そしてネーナ自身も襲われる。

 脚を抱えた手がするっとスカートの中に忍び込み、膝をなでる感触に鳥肌が立った。

「くぉらエロ騎士ッ!! どこさわって――」

 繰り出した拳は、だが二度目のヒットには至らず大きな手につかまれ、乗り出して浮いた背に腕を回される。不意にやわらかく耳朶を食まれ、ネーナは悲鳴を飲み込んだ。軽く歯を立てたまま、ファイスは低く笑って囁いた。

「二人きりになった途端、随分愛想がよくなったようだな」

 ネーナは目を瞠った。この展開でどこをどうしたら愛想がいいと受け取れるのか、本気で彼の頭が心配になった。


 しかし続く言葉に、相手がちがうと理解する。

「しがみついたり、髪に触れさせたり……あの方はそれほど魅力的か」

「あの――って、メイ?」

 その尊称を口にした途端、耳殻に添えた歯を強く立てられる。鋭い痛みに、今度こそ悲鳴を上げた。

 自分のしたことが、メイの護衛たる彼にとって腹に据えかねるほど不遜で不敬であったというなら、そうだろう。一から十までその通りだ。だがその罰としての方法なら、こんなことをするのは間違っている。


 他人の髪が頬に触れるくすぐったさも、力強い腕を背に回される違和感も、そこに親愛以上のなにかが滲めば生まれて初めて覚える感覚だ。羞恥と困惑が腹からせり上がって、視野が急に狭くなった気がした。

「も、もうしない! しないからとにかくはなしてッ!!」

 涙声で叫ぶと、噛まれた場所に舌が這わされた。えもいわれぬ痺れがつま先まで駆け抜けて、顎の先がふるりとふるえた。

「もうしない? だれにも――他のだれにも触れさせないと、誓えるか」

「なん、なんであんたにそんなこと――」

 ファイスの唇が耳元を離れる。ごつっと額を合わせて覗き込む瞳が、血のような紅に底光りして見えた。カンテラの灯が、視界の端で大きくぶれる。


 眩暈だ、と気づいたときには、唇に濡れてあたたかなものが押しつけられていた。

「……ッ!?」

 下唇を軽く吸われ、離れたと思うとまた重ねられる。抵抗しなければと思うのに、つかまれた手はまったく動かせず、ファイスの胸にあてた手もふるえるばかりで押し返す力もなかった。黒髪から香るオレンジの匂いに酔ったのか、頭の芯がぼうっとする。

 強くあわせられた唇が動くたびに、口づけが深まる。いつの間にか両手で頬をはさまれ、上向けた顔をそらすこともできなかった。

「あ、やめ……っ」

 ガクン、と車輪が溝を踏んで車体が揺れる。それに乗じて開いた口に、舌が差し込まれた。血圧が一気に上がり、瞬時に下がって貧血を起こしたかと思った。指先が冷え、ファイスの膝の上から片脚が滑り落ちる。


 ネーナの足りない頭も力加減の利かない身体も怯え竦んでちぢこまり、溶けた鉄のように熱くやわらかなファイスの舌に翻弄された。根から折り取られそうなほど強く、一転なでさするように優しく。上顎の凹凸をたどり、奥歯の生え際までゆるゆると。そうされるたびに、律儀なほどきっちりと尾骶骨のあたりがふるえ、脳髄までどろどろに溶かされてしまう気がした。触れ合った部分から響く聞いたこともない淫らな音がやけに大きくて、侵蝕する他人の質量がネーナの思考まで押し潰していくようだった。

「……会わせなければよかった」

 唇の先を触れさせたまま、ファイスが囁く。

「あの方に魅せられない女はいない。知っていたはずなのにな……」


 低い声はかすれて熱っぽく、どこか拗ねているようにも聞こえた。

 いつにも増して回らない頭でぼんやりと黒の太子の相貌を思い出し、ネーナはぎこちなく顎を引いて首を振る。噂にたがわぬ美青年だとは思ったし、大人物のオーラを放ってもいたけれど、こんなふうに口づけたいとは思わない。

(――こんな、ふうに……?)

 では、ファイスとは望んでこうしているのだろうか。

 ゆっくりと浮上しかけた意識を遮ってかさついた指が耳朶をなで、うなじをくすぐると、背筋がぞくりとふるえた。それを見届けたかったのか、ふっと笑ったファイスに再び強く唇を奪われる。

 厚みがなくて酷薄そうな唇は、その分だけ器用なのかもしれない。キスといえば嘴をくっつけるもの、といった程度のイメージしかなかったネーナに、深く甘く、淡くやわらかくて表現できない感覚を植えつけていく。


 もういいや、と、なにかを投げ出してしまいそうになった。膝に落ちていた手を持ち上げ、指先で上着をよじ登るようにしてファイスの頬に触れる。唇をほどいて離れたファイスは、まるでいま初めて出会ったみたいな顔をしていた。

 驚きともとれる表情にどこか懐かしいような、胸が絞めつけられるような痛みを覚えるのがなぜなのか、わからない。でも世界はいつだって謎だらけで不可解で、どんなに教授たちが頑張って説明してくれても理解できなくて、だから、それが泣けるほどの幸せだと間違えたって仕方ない。

 ネーナはそっと、濃灰色の布地に包まれた肩に頬を寄せた。耳に落ちかかるあたたかい吐息に途方もない安堵感を覚えて、目を閉じる。


 一体どれだけそうしていたのか、はっと我に返るとファイスの胸にもたれてきちんとベンチに座っていた。ロングスカートの裾は脛まで覆い、膝掛けまで掛けられている。正気を取り戻して自分の置かれた状況を確認し、ネーナはいますぐ馬車から飛び下りて車輪で挽肉になるべきだと思った。

(なに――なにッ!? なんであんなこと!?)

 だらだらと冷や汗をかき、おそるおそる目玉だけ動かしてファイスの顔を見上げる。カンテラに照らされた横顔は爽やかで、鼻歌でも歌いだしそうなほどの上機嫌が滲み出ている。カーテンを開けた小窓から薄暮の外を眺める目は細められ、それがネーナの視線に気づいてこちらを向いた。


「げっ」

 思わずうめいて目をそらすが、ファイスは気分を害した様子もなく、肩に回した手で反対の窓を指差した。

「じき七番街の街門をくぐる。外は寒いから、それを羽織っていけよ」

 それ? と空色の瞳が見つめる先をたどると、毛織の膝掛けに行き着いた。薄く軽く、とてもあたたかい。身を飾る品物の相場は一切不明なネーナにも、それが防寒具としては高価な代物であることだけはわかる。

「羽織ってって――え、七番街?」

 肩に載った手を無造作に払って窓に飛びつき、カーテンをつまみあげると、まさに街区を仕切る街門の前に到着するところだった。アーチ型に区切られた門の向こうは、別世界のように光の洪水を起こしている。


「ちょっと、うちは五番街なんだけど!?」

 九つあるうちのどの門だろう、と街壁に打たれたプレートを読み取るべく目を凝らす。五番街の南東にある我が家から、あまり離れたエリアだと帰りが心配だ。冬の夜道を歩いて帰宅するのは苦行に等しい。

「食事してから送ってやる。食いたいものは?」

 ファイスがネーナの手からカーテンを引き抜き、膝掛けを肩に掛けなおしてくれた。機嫌のよさそうなところを申し訳ないのだが、ネーナにはこのエロ騎士と食事をともにする気はまったくない。


 なにが悲しくて突然わけのわからん言いがかりをつけた挙句、乙女の唇を――舌まで入れて!――奪うような男と一緒にものを食わねばならんのだ。いくらこの世で一番愛している言葉が「他人の奢り」であっても、それだけはきっぱりとお断りするに吝かでない。

 ネーナは腰を浮かせて向かいの席へ移動し、毛織の膝掛けをファイスに突き返した。

「腹なんざ減っとらん! あんたのオゴりで食いたいものもない!」

 がつんと、決然とした表情で言い放つ。だが、キマった、と頬が緩みそうになった瞬間、ネーナの腹が持ち主の言葉を裏切って盛大な音を立てた。

 我が腹ながらそれはもう、見事なタイミングだった。


「…………」

「…………」

 気まずく視線を交わし合う。頭の後ろから壁越しに御者の制止がかすかに聞こえ、馬のいななきとともに馬車がとまった。

「……蒸し鶏?」

 突き出した腕をそろそろと引き戻し、素晴らしい宣言をなかったことにして回答する。

 ファイスは実に楽しげに、腹を抱え、大声で、遠慮なく笑ってくれた。




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