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お城っていったって、ただ地所が広いだけのお屋敷群だろ?
なんて思っていたのが大間違いだった。
現在宮城のある丘は、もともと建国当初そこだけが国であり街であった。ネーナのあやふやな記憶が確かなら、三番街くらいまで広げたところで完全に王家のものとして独立したのだ。
宮城を囲む城壁を越え、さらに直系の王族が住まう宮殿が建ち並ぶ区域に入ると、そこは議会も法律も完全に手が出せない私有地だ。税金で修繕や増改築が行えない代わりに、なににどれだけ費用をかけても、それが国王の財である限りだれも口出しできない。
裏門から入った馬車は、公地を抜けていわゆる太子宮の敷地へ進んだ。諸官庁や軍本部、女王が政務を執る王府のある女王宮は、城の正門を抜けた正面から東西に広がっている。太子宮はそのさらに東側から北の一角を占めているらしい。
車輪の音を響かせながら、馬車は心細いほどひたすらに森の中の小路を進んだ。やがてたどり着いた場所で馬車を下ろされたネーナは、ファイスに背中を押されるようにして促されつつ、冬でも枯れぬ鬱蒼とした森に建つ館を、あんぐりと口を開けて見上げた。
「これ……ここで、メイがお仕事されてるわけ?」
そのあまりの驚きぶりに目を細めて笑いながら、ファイスは首を振る。
「ここは私的な館だ。他にあと三棟、用途によって使い分けておられる。国政に関わる執務は女王宮でなさるからな」
そしてさらに目を丸くする。
なにしろその一棟だけで、学院の巨大学生寮二つ分はありそうなのだ。おまけにいつの時代のどこの国の様式だか知らないが、屋根から壁から柱から、どの部分を見ても細かく美しい装飾が施されている。それでいて決して華美ではない。
「え? なんだって? これを四棟も使ってるって? それはどこにあるんだ、この森はどんだけ広いんだ、これって庭だろ?」
だれともなくつぶやいたとき、ファイスが身長の倍はある巨大な扉を開いて、建物の内側へ彼女を押しやった。
その広大な玄関ホールから幅広い螺旋階段を抜け、目的の場所へたどり着くまでに受け続けた衝撃を、ネーナは生涯忘れることはないだろう。しかし思い出したくなることもないと断言できる。
(ただの廊下が、こんなに広くて豪華である必要があるのか? くそぅ、税金で建ててないから文句も言えないじゃないか。これだから王侯貴族サマは!)
つましく生きる労働者魂がやり場のない怒りに席巻されているうちに、ネーナはいつの間にか屋敷の主に対面していた。
「メイ、ネーナ・ヴァス嬢を借りてきましたよ」
ドアを開けて入室してからそう告げるあたり、この騎士の立ち位置をうかがわせる。人の顔を覚える能力は融解しているネーナだが、力関係を察知する動物的な勘でその欠点を補完している。
廊下の次は部屋の天井の高さに圧倒されていたが、ファイスの言いようは頭の隅にカチンと引っかかった。さっきからモノではないのだ、借りてきたとは何事――と口を開きかけて、今度こそ頭が白くなった。
ご立派なエロ騎士様は、いまなんと言った。
「っお、ちょちょちょ待ってよ! 心の準備ってもんが――」
入り口で脚を突っ張るネーナの抵抗を、ファイスはそれはそれは楽しげに笑って無視した。
「ネーナ、ガリオン・メイだ」
無理やりお姫様のように手をとられ、部屋の中央に進み出る。分厚い雲の隙間からにわかに差したガラス越しの陽光に照らされ、その人は振り返った。
首筋を覆うように、無造作に伸ばされた癖のあるつややかな黒髪、強い光を浮かべる深い青の瞳。高い鼻梁からバランスよく配置された形よい唇。規格外に大きな執務机の脇にすっきりと立った長身、白いズボンに包まれた長い脚。
――二万人収容の闘技場での試合、そのチケットを即日完売にさせた美貌がこれか。この大国トランティアにおいて、三番目に高貴な御方の姿がこれか。いま最も結婚したい男・恋人にしたい男ランキングで、六年連続一位を獲得した当人がこれか――。
感激や驚きよりも、ネーナはどうやったらあの岩のオバケと同じ製造過程を経て、こんなにも美しい造形物が仕上がるのかと、創造主を問い詰めたい気持ちに駆られた。
が、表面上はもてる精神力のすべてを使って背を伸ばし、床すれすれまで片膝を折って深く頭を下げる。
「ネーナ・ヴァスにございます。本日は――」
いいお日和で、と言いかけたところで、いきなりうつむけた顎をつかまれ、すれすれだった膝が床につく。傾いだ身体を支えようと咄嗟に出した手は、その人にさらわれた。
「メイ!」
あわてたようなファイスの声が、どこか遠くで聞こえる。強引に顔を上げられて見つめた先には、『黒の太子』と渾名される人の、恐ろしいほど澄んだ双眸が待ち受けて――。
「……なるほど、よくわかった」
口の端を吊り上げるようにして笑い、メイは顎をつかむ手を離した。ネーナの肘を支えて立ち上がらせると、貴族の令嬢に向けるような完璧な礼をとってみせる。
「非礼を赦されよ、ネーナ・ヴァス嬢。腹心の部下が心奪われた美貌を是非にも拝見せねばと、気が逸った」
その美しい所作と張りのある低い声にうっとりしかけたネーナだったが、はたと我に返った。
「ふ、腹心の部下がどなたかは存じませんが、それは事実誤認です!」
メイの型破りな行いのおかげでかえって自分を取り戻し、鼻息も荒く言い切る。横目でエロ騎士を見上げると、彼は大道芸でも見るような目で笑っていた。視線を戻せば、メイも同じ表情を浮かべているのに気づいてカっとなる。
王族ごときに負けていいのか、伊達にバカじゃないところを見せてやれ! という不可解かつ場違いな心の声に、ネーナはあっさり屈して口を開いた。
「あらためまして。魔術師組合のネーナ・ヴァスにございます。王太子殿下におかれましては、ご尊顔の麗しくてあらせられるを日々城下にてうかがい、臣民として大変誇りに思っております。あ、直々のお召しと聞いて、天地がひっくり返るほどに動転しておりますので、多少のご無礼はお許しくださいませ」
そして今度こそ最敬礼をとって立ち上がり、まっすぐに顔を上げた。
仮にも『メイ』をわざわざ王太子殿下と呼んで、ハンサムだけが売りらしいと言ってのける。バニーが見たら泡を噴いて倒れそうなほどの不敬に、ネーナは鼻を鳴らしてやりたい気分だった。
闘技場の件といい、強引に呼びつけたことといい、含むところは色々あるのだ。その上いきなり乙女の顎を無許可でひっつかみやがった王子サマには、この程度の礼儀を守ることすら腹立たしい。
さあどうする、打ち首か? 島流しか? 鞭はひどく痛むし痕が残るっていうからいっそ殺せ、とネーナが唾を飲み込んだとき、意外にもメイはにっと口角を上げて笑った。
「いい度胸だな。さすが、初対面で怪しい男の求婚を受けただけのことはある」
「そ、その言い方は語弊がありますね!」
ファイスを振り仰ぐと、彼はさっと顔をそむける。つやつやに光る靴のつま先を踏んづけてやりたいと思いつつ、ネーナはメイに向き直った。
「わたしと同僚を見逃してくださったことには、心から感謝してます。今日はその、条件についての詳しいお話を聞けると思ってきたんですけど」
決して美男子と噂のあなたの顔を見にきたわけではないですよ、という意思表示は宣戦布告の如き迫力に満ちている。その条件とやらについての説明を受けなければ、この消化不良のような不快感も取り除けない。
ところが珍しくまじめに問題と向き合うネーナを横に、身分のお高い男二人はお気楽な様子で笑いあう。
「フラれたぜ、ファイス。黒竜騎士一の色男も、大したことないな」
「これくらいのほうが、攻略のし甲斐があるってものですよ」
「おい、エロ騎士! 黙って聞いてりゃあ、ひとをなんだと思ってんだよ! バカでも薄給でも日々健気に生きてる一般庶民だぞ!」
言い終える前に、すでに後悔している。この口は一度バニーにつねってもらったほうがよさそうだ。原型を留められるかどうかは、甚だ疑問だが。
しかしこの王子サマも常識にとらわれない方なのか、少しも動揺することなく二人に執務机の前に置かれた長椅子を勧めた。立ち居振舞いの見惚れるほど綺麗なことは、この際認めても負けではなかろう。
二人が腰を落ち着けると同時にワゴンが運ばれてきて、隙のない所作で侍女がお茶を淹れてくれた。うちの受付嬢も完敗だな、とその表情のない美しい横顔に感嘆する。二人分の茶器と巨大な皿に盛りつけた焼き菓子を並べ置いていく間、物音一つ立てなかった。
折れそうなほど細い持ち手に怯みつつ、ネーナはカップを取り上げて口をつけた。いつもの勢いでつかんだら、間違いなく粉砕してしまう代物だ。
「さて、せっかくわざわざお運びいただいたんだ。早速本題に入ろう」
侍女が退出すると同時に、机に腰かけた格好でメイが腕を組む。確かに生きた彫像のように整った姿だが、なんだかもう見慣れてしまった自分も乙女としてどうなのだろうか。
だがどうせ、この顔を記憶しておけるかどうかだって、脳内に棲む小人さんの匙加減だ。
「そこのエロ騎士は、どうせ大まかな話しかしなかったんだろ」
「詳細に教えようと思ったら、逃げられまして」
自分でも認めてるのかよ、と心の中でだけつっこんでおき、二度と触れたくないほど繊細なカップを皿に戻す。昨日、エロ騎士の話を適当に聞き流し、今日の約束だけしてとっとと家に帰ったのは自分だ。動揺していたのもあるが、どうせジールもいるし、これ幸いとおもしろくない職務を放棄した感は否めない。
「便宜上の結婚をするって――法的に有効な婚姻証明書が必要だ、とだけ、聞きましたよ。ダラハーガにある塔の門番に見せるために」
ネーナの言葉に頷いて、メイは身を乗り出すように彼女に顔を向けた。
「早急に、賢者に宛てた書簡を届けてもらいたい。極秘文書だから、ファイスに直接持たせたいんだが」
「どこの塔も魔術師以外、立入禁止ですからねぇ」
トランティア南部の辺境にある、通称『黒の塔』は魔術師の聖地である。であるがなぜか、魔導学の神と呼ばれる長は不老不死なのだとか、怪物を作る実験をしているとか、希少種である竜を人工繁殖させて荒稼ぎしているだとか、笑い話のような噂が耐えない謎の場所でもある。
一般に魔術師の塔といえば、魔術師を育成・支援するための機関。しかし黒の塔は、魔導学院の設立とともにその機能を完全に移管し、治外法権の魔導学研究施設へと役割をかえたといわれている。律法や王権ですら介入不能、ある種聖域じみた存在感が、荒唐無稽な噂を生み出す所以かもしれない。
だが今回指定されたのは、黒の塔ではなかった。
大陸西端、トランティア女王国最大の港湾都市ダラハーガにある塔。史上最年少にして賢者の称号を賜った、魔導工学でその道を究める魔術師が拠点とする場所である。
「まぁ、組合の職員はなんらかの魔術資格を持ってるから、そういう意味では間違いなく魔術師ですけど……。いつもはどうしてるんですか? お役人とか、白鷹騎士サマとかが行くんじゃないんすかね」
大皿に山盛りになった焼き菓子を熱心に見つめながら、ネーナはそう水を向けた。
さっきから膝のあたりで宙をさまようネーナの指先に気づいていたのか、メイが皿を押し出してくれながら頷く。
「厳密に俺の手駒と呼べるのは、騎士団の中じゃ黒竜だけだ。今回はどうしてもこいつらを使いたい事情がある。ちなみに白鷹騎士だが、平和な場所に奴らの仕事はない。食い扶持稼ぎに、北の国境までお出かけだ」
北?
ネーナは遠慮なく小ぶりのリーフパイをつまみ上げた格好で、停止した。
山をはさんだ向こう側に、バルファイ軍が駐留している、という噂は聞いたことがある。だがもう十年もそれきり動く気配がない、というのもセットで聞かされた。すぐそばには大砦があるから、牽制なら常駐する銀狼騎士団で間に合っているはずなのに、白鷹騎士団を応援に出すほど国境周辺は緊迫しているのだろうか――。
だからいまこそ、魔導用具の研究開発と顧客の新規開拓がどうのと、そういえばボスが口角泡を飛ばして熱弁を振るっていたような気がする。
どこいらへんがいまこそやら。
頭の隅っこでチョビ髭を震わせて力説する義父の顔を排除しつつ、メイを見上げた。黒の太子は眉を上げ、ネーナの理解の度合いを測るような目をした。
つまんだきり忘れていたパイの存在を思い出し、ネーナはメイを見つめたままそれを口に放り込んだ。次の瞬間、噛み砕く歯の先端から広がる味にくわっと目を見開く。
「はぁぁ!? うまい!」
ジールのパイも真っ青だ、いやタメ線か? いずれにせよ、宮廷パティシエ恐るべし!
「よかったな、残ったら持って帰れ。魔導士や魔剣士に興味があるなら、黒の塔に寄り道してきてもかまわんぞ。長に紹介状も書いてやる」
「残んなかったらお土産はなしか……」
「おまえ、引っかかるところはそこかよ。ていうか全部食う気か」
話の進行を見守っていたファイスが、笑いを含んだ声をかけてくる。しかしネーナの興味は、一切そちらに向くことはなかった。
「魔剣士って、それもまたレアですね。実在したんだ」
「数が少ない上にサイクルが短いからな、魔導士より見る機会はないだろう」
「はぁ、サイクル……。魔剣士っていうと――魔導力学、いや法界魔導学? 詳しくないんで、よくわかりませんけど。なんかもう、金獅子騎士サマがすげー普通に思えてきました」
あのド派手な騎士達は、おそらく元々自己顕示欲の強い若者の集団なのだろう。金色の鎧に包まれた胸を張り、真っ赤なマントをかけた肩をそびやかして通りを闊歩する姿を脳裏に描き、なんとなく納得する。
きっと一般市民の前で美々しい己を見せびらかしていれば満足なのだ。上に行くほどの才覚がなくとも、それを悔しいと思うことはなさそうだった。
残念なことに、ネーナの中では金と赤の塊としか思い起こせないのだが。
しばし頷きながら菓子を減らすことに専念し、ふと顎を上げる。
「しかしまぁ……王族の方や騎士サマでも門前払いとは、塔の石頭っぷりも半端ないっすね。エラい人たちも、敷地のはずれくらいまで出てきてくれりゃあいいのに」
「おまえ、長か賢者に会ったことは?」
眉を上げておもしろそうにするメイに、ネーナはあきれ顔を見せた。
「あるわけないじゃないですか、雲の上の人ですよ? 実はとっくに死んでるとか、ほんとは存在しないとかって言われても驚きません」
自分も同じ業界に身を置くくせに、茶菓子に手を伸ばすネーナの口調は他人事だ。しかもそれ以上に雲の上の人を目の前にしている事実も忘れている。さすがに苦笑を浮かべつつ、メイは組んでいた腕をほどいて机の端をつかむ。
「最近はやわらかくなったほうさ。組合に加盟する魔術師の三親等以内の親族、もしくは配偶者であればお供を許すそうだからな」
「ところが伝書鳩には、適当な親族も嫁もいなかったと」
口に入れた分を咀嚼しつつ、次の菓子を物色するネーナ。鳩呼ばわりされたファイスが、指の背で唇の端についた菓子屑を払ってくれる。そうされることに慣れっこなネーナは、特に反応を示すこともなかった。
「そこにタイミングよく、おまえの登場だ。義理とはいえ親父は実質、この国の魔術師たちの総元締め。事情を明らかにしても害はないし、娘の戸籍を貸すくらいお安い御用だそうだ」
「なにぃ! あのくそ親父、ひとの人生を安く見積もって売りやがったな!」
いかに高く見積もっても、常人よりはるかに安い値しかつきそうにはない、という自覚があることは黙っておく。
「騎士団の詰所に身柄を引き出しに行くよりは、騎士と結婚するほうがよっぽど外聞がいいと思うぞ」
ファイスの声に滲んだ甘い響きを感知して、ネーナは逃げるように尻の位置を動かす。
「書類上の結婚でしょ? 籍を抜いたら、未婚扱いにしてくれるって話じゃん。ほんとの結婚じゃないんだし、周りに公表はしないよ」
「さぁ、どうだろうなぁ。お使いだって一度だけとは限らないし?」
「だったらお断りだ、だれが黒竜騎士なんかと延々結婚してられるかってーの! つーか大体、あんたが黒竜騎士だなんてだれにも言えないじゃないかバカらしい」
「おまえ、ここは夢のような玉の輿に乗れるって喜ぶところだぞ」
「うなされるような夢の輿なんざ、受付のねーちゃんたちに九割引で譲ってやるわ!」
「一割はマージンかよ……」
そこでついに、メイが声を上げて笑い出した。
はっと我に返ったネーナは、腹立ちまぎれにファイスの膝を思い切り引っぱたいてから咳払いする。目に涙を浮かべて笑いをおさめた高貴な男を、唇を尖らせて睨んだ。
「おもしろいな、おまえは。それと知って黒竜騎士を全否定した女は史上初だろうよ」
「お褒めにあずかり恐悦至極。今後もたゆまぬ努力を続ける所存ですよ」
全否定されたほうは、半目でネーナを見やって小さくつぶやいた。
「かわいそうに、あいつは長い監獄生活を乗り切れるのかな。薄情な友達を持つと、いらん苦労をするもんだ」
それが心優しきオカマ、またの名を岩石オバケ、そして通称をバーン・エストファンという自分の親友を指していると気づいた瞬間、立ち上がって騎士の胸倉をつかみ上げていた。自慢の怪力をもって全力で締め上げたため、さすがのファイスの顔も苦悶に歪む。
「友情を質に取るなんざ、騎士サマも随分と上品なマネしやがるじゃないですか」
「おまえのためなら、親でも売ろう」
「聞いちゃいないっつの。わざわざ木の股を買う物好きがいるかよ」
「俺は魔物より優しくしてやるよ? 昼も夜も、夢の中でも」
苦しげに眉を寄せながら、それでもファイスの鮮やかな青の瞳は力を失わない。ネーナは生まれてこの方一度も見たことのない色を浮かべた瞳を間近に見つめ、口説き文句を垂れ流され、知らず襟首を絞める力をゆるめた。その隙を逃さず、ファイスは腰に手を回して抱きしめてくる。その顔は胸元に埋まった。
「大食いの割に細いが、食べごろではあるな」
「わっ、ちょ、はなせ! やめろったらッ!」
体勢を保つために彼の肩に手をつき、思い切り突っ張ると、組合一と評判の腕力のおかげか、身体を引き離すことに成功する。
そのまま脱兎の勢いでメイの陰に隠れると、ファイスが小さく舌打ちするのが聞こえた。
「メイ、それは俺のですよ。さわってもいいけど、かじらないで返してください」
思わず目を上げると、メイは腕の下を覗くようにしてネーナを見下ろしている。眇められた目、唇の端を吊り上げるような微笑み。
「どうかな。初めて見るタイプだ、預かったらただで返せそうにない」
「う……っ」
そのぎょっとするほど甘い声音に、絶句する自分のなんと情けないことか。
いまさらながら、恋愛も火遊びも経験なし、受け流す度胸と根性すら皆無であることを思い知らされる。
この空気をどう処理すればいいのか皆目見当もつかず、ネーナはとりあえずエロ騎士の顔面に拳をくれて、その場をやりすごした。